世界を制覇した普通のクルマ――カローラ(2013年)

よくわかる自動車歴史館 第86話

T型、ビートルに続く1000万台生産

1983年はトヨタにとって意義深い年となった。1935年のG1型トラックから始まる自動車生産台数が、累計で4000万台を超えたのだ。同時に達成したのが、カローラの生産台数1000万台である。全生産台数の実に4分の1が、この大衆車だったことになる。トヨタにとってカローラがいかに大切な存在であるかを如実に示すデータだ。

カローラ以前に累計生産台数1000万台を達成していたモデルは、フォルクスワーゲン・ビートルとT型フォードのみだ。このうち、T型フォードは誕生から16年4カ月をかけて、1925年に記録を樹立した。カローラは1966年11月から1983年3月にかけて1000万台を生産しており、くしくもT型フォードと同じ16年4カ月を要している。

生産1000万台目のT型とともに写真に写るヘンリー・フォード。写真右は1896年に製作されたフォード初の試作車であるクォードリシクル。
ラインオフする1000万台目のフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)。

カローラが誕生した1966年は“マイカー元年”と呼ばれている。4月に日産からサニーが、11月にトヨタからカローラが発売されたからだ。この2台の競い合いが、日本のモータリゼーションを強力に推し進めていくことになる。一部の高所得者層のものだった自動車が、ようやく庶民にも手の届くものになったのだ。

1955年に日本初の本格的乗用車というべきトヨペット・クラウンが登場したが、需要の多くはタクシーなどに占められていた。1960年代に入ると、一回り小型のダットサン・ブルーバードとトヨタ・コロナの間で激しい販売競争が繰り広げられ、“BC戦争”と呼ばれるようになった。一方、簡便な軽自動車の登場が自動車ユーザーの裾野(すその)を広げていた。1958年発売のスバル360は効率的なパッケージングで人気となり、マツダ・キャロルやホンダN360などがそれに続いた。

トヨタは大衆向けの小型車市場を早くから重視しており、新型車の開発を進めていた。1961年にデビューしたパブリカがその成果である。38万9000円という期待以上の価格の安さで注目を集めたが、販売は思ったようには伸びなかった。合理的な設計を採用した意欲的なモデルだったが、ユーザーの要求とはズレがあった。性能は十分だったが、大衆車といえども豪華さが欲しいと人々は感じていたのである。

1961年に登場したトヨタ・パブリカ。

“80点プラスα主義”で大衆の心をとらえる

1960年代に入ると、日本の各メーカーは小型車市場に向けて新モデルを続々と投入していった。1963年にはダイハツ・コンパーノと三菱コルト1000が発売され、1964年にはマツダ・ファミリアが続いた。1966年になると4月に日産サニー、翌5月にスバル1000が登場する。エンジンの主流は1リッター4気筒で、トヨタも同様のモデルを出してくると予測されていた。しかし、9月に始まったトヨタのティーザーキャンペーンは意外な展開を見せる。

1966年にデビューした日産サニー。写真の2ドアセダンのほか、4ドアセダン、2ドアクーペ、ライトバン、ピックアップトラックと、多彩なバリエーションを誇った。

新聞広告には、カローラ1100という車名が記されていた。キャッチコピーには「プラス100ccの余裕」とあり、ライバル車よりも大きなエンジンを搭載することが強調されていたのである。日産が1リッターエンジンを採用することを知り、商品性を高めるためにひとまわり大きなエンジンを開発するよう提言したのはトヨタ自動車販売社長の神谷正太郎だった。急な設計変更で現場は混乱したが、この英断がカローラの船出(ふなで)に力を与えた。発売月に5835台という登録数を記録し、好調だったサニーの3355台をはるかに上回った。

初代トヨタ・カローラ。ライバルの多くが1リッターのエンジンを積んでいたのに対し、1.1リッターのエンジンを搭載していた。

カローラ発売に先立ち、トヨタは周到な準備を進めていた。専用の生産基地として高岡工場を建設し、月産2万台の体制を整えていたのだ。記者発表会で掲げられた月販3万台という目標には首をかしげる向きが多かったが、工場の規模はさらに拡大され、発売2年後には実際に月販3万台を達成している。モータリゼーションの進展の中でカローラは爆発的な売れ行きを示した。

人々がカローラを支持したのは、プラス100ccのエンジン以外にも理由がある。大衆車であっても、当時の先進的な技術が惜しみなく注ぎ込まれていた。例えば、フロントのサスペンションにはマクファーソン・ストラット式独立懸架が採用されている。軽量で自由度の高いこのサスペンション形式をいち早く実用化したのだ。現在ではこれがスタンダードとなっており、開発陣の先見性が証明されている。

初代カローラに搭載された1.1リッター直4エンジン。道路交通の高速化を見据えてトヨタが開発した、当時最新のエンジンだった。

また、4段フロアシフトも珍しかった。セダンには3段コラムシフトというのが常識であり、フロアシフトはトラック用だと考えられていた。社内でも反対の声が多かったが、発売してみると変速のしやすさやスポーティーな使い勝手によって高い評価を得、他メーカーも続々と追随するようになった。

初代カローラのインテリア。

カローラの開発を取り仕切ったのは、パブリカも手がけた長谷川龍雄である。彼が掲げたのが、“80点プラスα主義”だった。“80点主義”と省略するのは間違いで、大切なのは“プラスα”の部分だ。パブリカは経済性や合理性では合格点をとったが、豪華さや快適性では80点に達しなかった。その反省に立ち、どの部分も落第点ではいけないということを示したのが80点主義である。ただ、すべてが80点では魅力的なクルマにはならない。プラスαの部分がなければ大衆の心をとらえることはできないと、長谷川は考えたのだ。

初代カローラの主査を務めた長谷川龍雄。

主査制度が支えた前人未到の記録

長谷川は主査という立場でカローラの開発の全責任を負った。彼自身がこの主査制度の提案者である。戦争中に立川飛行機で戦闘機の開発を担当した際、1人で設計の概略を決定した体験から、自動車開発でもあらゆるプロセスを集中的にコントロールする必要があると考えたのだ。長谷川の提案が採用され、クラウンでは中村健也が主査となり、長谷川は主査付きとして調整役を務めた。この時の成功から、主査制度はトヨタの新モデル開発を支える根幹のシステムとなる。

長谷川の後を継いで2代目の主査となったのは、もともと主査付きだった佐々木紫郎である。これ以降、主査付きが次代のモデルの主査となるサイクルが慣例となっていく。佐々木は3代目も担当し、このモデルはカローラにとっての転換点となった。発売は1974年で、前年に石油ショックが発生している。公害問題が深刻化し、排ガス規制が急激に強化されていた。アメリカではラルフ・ネーダーが自動車の安全性に疑問を呈して話題となり、日本でも自動車に対する逆風が吹き荒れた。

1974年に登場した3代目カローラ。

佐々木が考えたのは、大衆車の決定版を作ることだった。燃費を向上させて排ガス規制にも対応し、安全問題もクリアする。高級感を持たせて満足度を増し、このクルマがあればほかのクルマはいらないと思わせるモデルに仕立てることを目指した。「3代目はその後の発展を左右する存在になる」という考えから、彼はその成功例である徳川三代将軍家光について徹底的に調べたという。困難な条件の中であったが、このモデルは歴代の中で最多販売台数を記録する。累計で375万5030台を売り上げ、月平均の販売は6万3645台に達した。

1969年、カローラはコロナに代わって国内乗用車販売台数第1位となった。ライバルの日産サニーと競り合いつつも、一度も首位の座を明け渡してはいない。最初は2ドアセダンだけでスタートし、4ドアセダン、バンなどにラインナップを広げていく。スポーツモデルのレビン、2ボックスのFX、4ドアハードトップのセレス、ミニバン仕様のスパシオなど、派生車種も多く登場した。

カローラ クーペの高性能モデルとして登場したカローラ レビン。兄弟車のスプリンター トレノともども人気を博した。

カローラはグローバルに展開する戦略モデルでもある。1968年の北米輸出開始を皮切りに、現在では世界150以上の国と地域で販売され、海外生産拠点も13カ所に及ぶ。地域の事情に合わせ、それぞれに仕様の異なったモデルが販売されている。トヨタがグローバル企業に発展する原動力となったのがカローラなのだ。

ミシシッピ工場で生産される米国向けのトヨタ・カローラ。

2013年7月、カローラの累計販売台数が4000万台に達した。すでに1997年にはビートルを抜いて1位となっており、単一車種の販売台数では前人未到の記録である。ただ、国内での販売台数はトップではない。1999年にコンパクトカーのヴィッツが発売されると、月によってはカローラを上回る販売台数を示すようになる。カローラはモデルチェンジを繰り返すたびに大型化しており、新たなエントリーカーとしてヴィッツがクローズアップされたわけだ。それでも僅差ながら1位の座を死守していたが、2002年にヴィッツの対抗モデルであるホンダ・フィットに首位を明け渡してしまう。34年ぶりの首位交代は、新聞やテレビでも大きく取り上げられた。

もっと強力なライバルは、トヨタ自身が生んだハイブリッドカーだった。エコ意識の高まりはプリウスの販売を後押しし、あっという間にベストセラーカーになっていった。2014年の年間販売台数はプリウスより小型のハイブリッドカーであるアクアが1位となり、カローラはフィット、プリウスに続く4位となっている。後ろからは人気ミニバンのヴォクシーが追い上げる格好だ。

現在のトヨタ・カローラ。写真は日本仕様の4ドアモデルである、カローラ アクシオ。

それでも国内で年間10万台の販売を維持し、グローバルでは100万台以上が市場に出回っている。4000万台達成にあたり、トヨタが発表したリリースにはこう書かれていた。
「常に時代をリードし、お客さまや社会のニーズを先取りし、改善を続けながら技術力や品質の向上に努めてきたカローラ開発の歴史は、現在、トヨタが経営の中心に据える『もっといいクルマづくり』の礎である」

カローラの開発思想は、今もすべてのトヨタ車を支える基盤であり続けている。

2013年の出来事

topics 1

フォルクスワーゲン・ゴルフが輸入車初のイヤーカーに

1980年に始まった日本カー・オブ・ザ・イヤーは、日本国内で販売される乗用車を対象にして選考が行われる。製造された国がどこであるかは問われないが、実際には輸入車がイヤーカーに選ばれることはなかった。

以前は輸入車が別枠で選考されていた時期もある。しかし、欧米ではこのような方法は採られておらず、2002年から国産車と輸入車を区別なく並べて評価する形式に改められた。

2013年11月に発表された2013−2014カー・オブ・ザ・イヤーで、初めて輸入車がイヤーカーに選出された。初の栄誉に輝いたのは、フォルクスワーゲン・ゴルフである。

504点という高得点を記録し、2位のホンダ・フィットに131点差をつける圧勝だった。この年は、3位にボルボV40、4位にメルセデス・ベンツSクラスが入っている。

topics 2

佐藤琢磨がインディカー・シリーズで日本人初の優勝

佐藤琢磨がF1でジョーダンチームのレギュラードライバーとなったのは、2002年シーズンである。2003年にB・A・Rに移籍し、2004年にはアメリカGPで3位入賞を果たすなど高いポテンシャルを示した。

チーム事情によりシートを失い、2006年にスーパーアグリに移るが、こちらも資金難からF1撤退を余儀なくされる。佐藤琢磨は2010年から新天地のインディカー・シリーズに参戦することになった。

2012年には伝統のインディ500で優勝を争う活躍を見せ、第12戦では自己最高位の2位を獲得。2013年シーズンはA.J.フォイトレーシングから参戦することが決まる。

第3戦のロングビーチでは予選4番手という良好なポジションを得た。決勝レースではスタート直後に3位のマシンをパスし、28周目にピットストップをした際についにトップに躍り出る。そのままチェッカードフラッグを受け、日本人初となるインディカー・シリーズ初優勝を勝ち取った。

topics 3

富士山が世界遺産に

世界遺産とは、1972年にユネスコで採択された世界遺産条約に基づき、人類が共有すべき顕著な普遍的価値を持つ遺跡や自然などを登録するものである。日本では1993年に法隆寺地域の仏教建造物、白神山地などが初めて指定されてから、合計16件が登録されていた。

日本を代表する景観である富士山も、登録に向けて運動を進めていた。しかし、ゴミの不法投棄や地域の開発などが問題視され、自然遺産としての評価は低かった。

方針を転換して文化遺産登録を目指すことになり、信仰遺跡群や富士五湖といった構成資産を掲げての運動が進められた。登録の正式名称は「富士山――信仰の対象と芸術の源泉」である。

富士山そのものだけではなく浅間神社や忍野八海などを統合した形で申請が行われ、駿河湾越しに富士山を望む三保の松原も含めての登録となった。観光客の誘致に期待が高まるが、環境汚染への備えが大きな課題として残されている。

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[ガズ―編集部]

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