いすゞと日野――日本自動車産業の淵源(1929年)

よくわかる自動車歴史館 第95話

水戸藩の造船所が原点

2004年、いすゞ自動車と日野自動車は、国内向けのバスの製造や部品供給を行う合弁会社、ジェイ・バスを設立した。日本を代表する商用車メーカーとして競い合ってきた両社が、バス部門で手を取り合ったのだ。ライバル同士の協業ということで注目を集めた新会社の設立だが、そもそもいすゞと日野は、同じルーツを持つ自動車メーカーだった。

ジェイ・バスが製造している、いすゞ・エルガ(手前)と、いすゞ・エルガ ミオ(奥)。それぞれ、日野ブルーリボンII、日野レインボーIIとは姉妹モデルの関係にある。

歴史は幕末にまでさかのぼる。ペリー来航を受け、幕府の命で水戸藩が江戸石川島に造船所を設立したのが始まりだ。ここでは西洋式帆船の旭日丸や軍艦千代田形が建造されており、高い技術力を持っていたことがわかる。明治に入ると民営化され、1893年に石川島造船所株式会社に改組。船舶はもちろんのこと、火力発電機や蒸気機関車なども製造し、日本の近代化に貢献した。

第1次世界大戦がぼっ発すると、造船の注文が殺到して莫大(ばくだい)な利益が生まれる。そこで新たな投資先として選ばれたのが、自動車製造だった。1916年に自動車部門を設立し、2年後にイギリスのウーズレー社と提携契約を結ぶ。当時の日本では自動車製造の試みは始まっていたものの、まだ産業と呼べる段階には達していなかった。技術を習得するためには、ヨーロッパの自動車メーカーから学ぶのが早道だと考えたのである。これがいすゞ自動車の起点とされている。

一方、日野自動車の母体とされているのは、1910年に設立された東京瓦斯工業株式会社である。ガス事業を始めた千代田瓦斯会社の子会社として、ガス器具の製造を行っていた。主な製品は、ガス灯の発光体として使われるマントルという部品である。ガス灯の代わりに電灯が使われるようになると、社名を東京瓦斯電気工業(瓦斯電)と改め、電気製品の部門にも進出した。

東京瓦斯電気工業は、大森工場の建設とともに自動車事業をスタートする。現在、その跡地の一角には、いすゞ自動車が本社を構えている。

経営状態は思わしくなかったが、やはり第1次世界大戦が飛躍のきっかけとなる。ガス計量器の開発で培われた精密機器の技術が認められ、砲弾の信管の発注が舞い込んだのだ。小火器の製造も請け負うようになり、会社の規模は急激に拡大した。1917年、新工場を東京・大森に建設すると同時に自動車製造部を設立する。日野自動車の歴史は、ここから始まった。

軍の国産車推進政策が転機に

次世代を担う工業製品が自動車であることは、石川島も瓦斯電も気づいていた。しかし、当時の日本では欧米の自動車メーカーの安価で高性能なモデルが市場を独占しており、参入は容易ではなかった。状況を変えたのは、1918年に制定された軍用自動車補助法である。

当時の日本では、欧米からの輸入車が市場を席巻していた。関東大震災後の東京の公共交通を支えた円太郎バスも、T型フォードのシャシーにバス用のボディーを架装したものだった。

第1次世界大戦で自動車の有用性が明らかになると、軍部はその国産化推進を図った。規格を定め、合格したモデルを軍用保護自動車に認定し、補助金を交付する制度を作ったのだ。補助金は購入者にも与えられるので、販売促進にも効果がある。軍が直接購入するのではないが、民間に自動車を普及させておき、有事には徴用して軍用車として利用するというもくろみだった。輸送車として使う必要性から、補助金の対象はトラックなどに限られた。

瓦斯電の社長だった松方五郎は、かねてから自動車に興味を抱いていた。それまでは乗用車やトラックの輸入事業を行っていたが、補助法制度を利用すれば、念願の自動車製造事業に参入することができる。しかし、自動車の開発を進めるためには、専門的知識を持った技術者が必要だった。松方が目をつけたのが、大倉喜七郎の日本自動車で技師長として働いていた、星子 勇である。星子はイギリスとアメリカに留学して研修を積んでおり、『ガソリン発動機自動車』という著作も執筆していた。彼は自ら乗用車を設計・製造することを志していたが、自動車の輸入と整備をするだけの日本自動車では、技術を生かすことができない。星子にとっては、瓦斯電の誘いは千載一遇のチャンスだった。

大阪砲兵工廠(こうしょう)からの依頼で4トン自動貨車を製造したのが初めての仕事である。シュナイダーの軍用トラックを参考にしたモデルで、5台を納入した。星子は並行して別のトラックの設計を行っていた。アメリカのリパブリックを参考にしつつ、独自の設計を取り入れたTGE-A型である。TGEとは、瓦斯電の英文名 "Tokyo Gas & Electric Inc." のイニシャルからとっている。このモデルが軍用保護自動車認定第1号となった。

1922年に軍用保護自動車認定を取得したTGE-A型トラック。日本初の純国産トラックでもあった。

一方、石川島は東京・深川に自動車工場を建設し、ウーズレーA9型乗用車の製造にとりかかっていた。ところが、なんとか車両は完成させたものの販売のめどが立たず、同社は商用車事業に傾注することを決める。1923年にはウーズレーCP型トラックとその図面を取り寄せ、国産化の準備を推し進めた。しかし、ようやく組み立てを始めようとした矢先に関東大震災に見舞われ、工場は半壊、機械は使用不能になってしまう。苦心の末、軍用保護自動車の認定を受けたのは1924年のことだった。

ウーズレーA9型乗用車と石川島の深川分工場。石川島は1922年にウーズレーの国内生産を実現したが、その後乗用車事業を断念。商用車事業に注力することとなった。

損害をこうむったものの、震災は瓦斯電と石川島には有利に働いた。復興期に自動車の有用性があらためて評価され、普及が加速したのだ。軍に納入するだけでなく、他の官庁や企業からも注文が入るようになった。各地で運行が始まったバスの需要も高まっていた。

商工省の指導で生まれたヂーゼル自動車工業

自動車の販売台数は増えたが、国内メーカーの生産能力は、それに応じたものにはなっていなかった。1926年の国内生産車は、わずか245台である。これは輸入車の10分の1の規模でしかなく、フォードとゼネラルモーターズ(GM)が日本でのノックダウン生産を始めると、さらに差は開いていった。性能でも価格でも、国産車は輸入車にかなわなかったのだ。追い打ちをかけたのが、補助金の減額である。当初は1.5トン車に1500円、それ以上のモデルには2000円が支給されていたが、緊縮財政で軍の予算が減らされると支給額も削られ、1931年にはわずか150円になってしまった。

大阪の幼稚園児とともに写真におさまるシボレーのバス。1924年に横浜で生産を始めたフォードに続き、ゼネラルモーターズは1927年に大阪で生産を開始した。

当時の各社の取り組みを見てみると、石川島は1927年にウーズレーとの提携を解消し、独自の設計でトラックやバスを製造するようになっていた。商標についても、工場の所在地にちなんでスミダに改称。六輪駆動車やクレーン車などの製造にも手を広げていった。この後、同社の自動車部門は1929年に造船所から独立。石川島自動車製造所が誕生した。

同じころ、瓦斯電では航空機用エンジンの開発に手を伸ばしていた。ダイムラーなどのライセンス生産を手がけた後、独自設計で作り上げたのが空冷星形7気筒エンジンの神風である。これは国産初の航空エンジンで、海軍の練習機に採用された。同社では天風、初風などのエンジンに加え、機体の製造も行うようになり、この部門は後に日立航空機となる。一方、自動車事業では、軍から戦車の製造も依頼されるようになり、「豆タンク」と呼ばれる94式軽装甲車が年間200〜300両の規模で生産された。こうした需要に応えるために日野製造所が建設され、これが今日における日野自動車の源流となった。なお、瓦斯電は1930年に宮内庁御用達になったのを機に、商標をTGEからちよだに変更している。

瓦斯電は自動車事業に加え、航空機事業にも積極的に参入した。写真は1938年に長距離飛行世界記録を樹立した航研機。東京帝国大学航空研究所が開発し、瓦斯電が製作を担った。

第1次世界大戦以降、日本の自動車産業は軍が先導する形で育成されてきたが、1929年の国産振興委員会で自動車が大きく取り上げられてからは、商工省がその前面に立つこととなった。フォードとGMが市場を席巻している状況を、打破するためである。政府は軍用保護自動車を生産していた石川島、瓦斯電、ダット自動車製造の3社に対し、合併して効率的に自動車を生産するよう勧告。また商工省標準形式自動車の規格を定め、3社が協力して開発を進めるよう指導した。試作車が完成したのは1932年である。これがTX型トラックで、公募により愛称はいすゞ号となった。

1932年に登場したTX型トラック。同じく3社の協業によって開発されたBX型バスともども、大戦後も活躍を続けた。

1933年、石川島はダットと合弁し、新会社の自動車工業となる。単独での生き残りを模索していた瓦斯電も、1937年にこれに合流。3社を母体とする東京自動車工業が誕生した。1941年にはディーゼル自動車の製造許可を受けたことに伴い、ヂーゼル自動車工業と改称。1942年には特殊車両を受け持っていた日野製造所が、日野重工業として独立した。

戦時中、日本の自動車メーカーは軍需によって支えられていた。戦争が終わるとGHQによって解体される危機もあったが、その多くは民間産業として再出発を切ることになった。1946年に日野重工業は日野産業となり、ヂーゼル自動車工業は1949年にいすゞ自動車に改称している。

第2次世界大戦が終結すると、民需転換を受けた日野産業はさっそくトラックやバスの製造を開始。写真は1946年に発売したトレーラートラック。

戦後の復興が始まると、日本政府は海外メーカーとの提携によって自動車産業の立て直しを図る。いすゞはルーツ・グループ、日野はルノーからの技術供与を受け、ノックダウン生産を行うことになった。両社とも戦前は商用車と軍用車ばかりを製造していたが、もとはといえば乗用車を作ることを目標にしていた。1960年代に入ると、両社はノックダウン生産の経験を生かし、独自の乗用車の生産を開始する。日野はRRの小型乗用車コンテッサを生み出し、ミケロッティの手になる繊細なデザインと車体後方から空気を吸い込むユニークな冷却方式で高い評価を受けた。しかし商業的には成功とはいえず、1966年にトヨタと業務提携を結んだのを機に、乗用車事業からは撤退することとなった。

イタリアのジョバンニ・ミケロッティがデザインを手がけた日野コンテッサ1300。

一方、いすゞはベレット、117クーペといったスポーティーな高性能車により、独自の地位を確立する。それでも資本自由化の波からは逃れられず、1971年にはGMの傘下に入ることとなった。1974年に発表したジェミニは、GMグループの共同開発車である。その後、日本市場では1993年に小型乗用車部門から撤退。ビッグホーンなどのSUVに特化していたが、それについても2002年に国内での生産・販売を終了した。

いすゞにとって最後の乗用モデルとなった2代目ビッグホーン。この後、日本では商用車に専念するようになったいすゞだが、海外ではピックアップトラックやMPVなどの製造・販売も行っている。

いすゞと日野は、現在では商用車の専業メーカーとして存在感を発揮している。日本自動車産業の淵源(えんげん)となった両社の歴史には、トラックとバスから始まった日本の自動車史が、常に投影されてきたのだ。

関連トピックス

topics 1

軍用自動車補助法

陸軍では日露戦争の経験から輸送力増強が必要だと考え、自動車の研究を始めていた。砲兵工廠ではシュナイダーのトラックを購入して分解し、研究を重ね、1911年に試作車を完成させている。

第1次世界大戦ではイギリス軍がソンム会戦で初めて戦車を使用し、圧倒的な力を見せつけた。日本軍でも青島に送ったトラックが物資輸送に活躍したことから、自動車の優位性が広く認識されるようになった。

自動車を安定供給するためには、平時から量産体制を整えていなければならない。軍事に転用できるトラックを民間企業に生産させることを企図し、軍用自動車補助法が定められた。

この制度はドイツにならって制定されたものだが、日本では自動車産業が未発達だったことが運用を困難にした。さらに軍事主導で自動車開発が進められたため、乗用車の研究は後回しにされることになった。

1924年に軍用保護自動車の認定を受けた、石川島のウーズレーCP型トラック。

topics 2

星子 勇

戦前の日本における自動車産業の基礎を築いた技術者であり、1917年に東京瓦斯電気工業に入社して以降、東京自動車工業、ヂーゼル自動車工業、日野重工業と活躍し続けた。

熊本工業高校機械科で学んだ星子は、軍務を終えた1911年に日本自動車に入社。自動車の設計を志したがかなわず、修理や整備とはいえクルマに触れることのできる会社を選択した。その後、1913年に農商務省実業練習生に合格し、欧米に留学。帰国後、1917年に瓦斯電に移籍し、自動車製造に腕を振るうようになった。

当時の世界情勢を鑑み、非常時には軍需転換工場となることを自動車産業に求めた星子だが、同時に大衆車による社会の発展と日本の工業化を夢見た人物でもあった。1940年には、論文を通して乗用車生産の重要性を主張。軍需に偏った日本の自動車産業に警鐘を鳴らしたが、戦争末期の1944年に他界した。

topics 3

いすゞとGMの提携

いすゞは自動車御三家ともいわれた名門だが、小型大衆車のラインナップがなかったことからモータリゼーションの波に乗れず、1960年代には経営が行き詰まっていた。

同じころ、日本の自動車産業は大変動の時代を迎え、1965年に日産がプリンスを吸収合併、翌年にはトヨタと日野が業務提携を結んだ。資本自由化によって海外からの投資が可能になると、いすゞは1971年にGMとの資本提携に踏み切った。仲介したのは伊藤忠だった。

GMグループ各社の間で、商用車やディーゼルエンジンなどの共同開発が行われた。1974年に登場したジェミニは、グローバルカーとして開発されたもので、オペル・カデット、シボレー・シェベットなどの名でも販売された。

GMは経営悪化を受け、2006年にいすゞの株を売却した。資本関係はなくなったが業務提携は続けられており、2016年からは新たにいすゞの中型トラックがシボレーブランドで販売されることが発表されている。

2016年モデルのシボレー4500。いすゞNシリーズ(日本名:エルフ)のバッジ違いである。

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[ガズー編集部]

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