<自動車人物伝>アイルトン・セナ…悲劇の貴公子(1994年)

よくわかる自動車歴史館 第106話

事故が相次いだ1994年のイモラ

1994年5月5日、グアルーリョス国際空港からサンパウロの中心街へと向かう道は、数百万の人波で埋まっていた。4日前にサンマリノGPで事故死したアイルトン・セナの遺体が通るのを見守ったのだ。葬儀場ではアラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガーらがひつぎを担いだ。

1993年シーズンの最終戦、オーストラリアGPにて表彰台に立つアイルトン・セナ。これがセナにとって、F1での最後の勝利となった。

日曜日のレース前、セナの様子はいつもとは違っていた。ウィリアムズFW16をイモラ・サーキットのグリッド最前列に止めると、彼はコックピットから出ようとせず、誰から声をかけられても答えなかった。前日には恋人との電話で不安を訴えていたという。セナが精神的に揺れていたのには理由がある。不吉な出来事が相次いでいたのだ。

金曜日の予選第1日に、ルーベンス・バリチェロがクラッシュした。重症との情報を聞き、セナがメディカルセンターに駆けつける。前年にF1デビューした同郷の後輩を、彼は弟のようにかわいがっていた。幸いなことに鼻骨骨折と打撲程度の軽症であることがわかり、セナは再びサーキットでの戦いに向かう。

安堵(あんど)の空気は長続きしない。翌日の予選第2日、タイムアタック中のローランド・ラッツェンバーガーがビルヌーブコーナー外壁にたたきつけられた。フロントウイングが脱落し、コントロールを失っていた。救急蘇生を行ったが、すでに脳死状態でなすすべもない。

F1のレース中に死亡事故が起きたのは、1982年のリカルド・パレッティ以来だった。

当時、サンマリノGPが開催されていたイモラ・サーキットは、F1が行われるサーキットとしては珍しい左回りの高速コースとして知られていた。写真は1993年のGPの様子。

重大な事故が続いたにもかかわらず、レース中止を求める声は大きくならなかった。ラッツェンバーガーが無名の新人だったことで、事態の深刻さが十分に受け止められなかったのかもしれない。セナは違う。彼だけは事故後に現場を訪れて原因を探ろうとしていた。しかし、悲劇を予感しながらも、不世出の天才は最速を目指す戦いを避けるわけにはいかなかった。

4歳の誕生日プレゼントは父手作りのカート

1994年のシーズンは、セナにとって万全のスタートにはなっていなかった。第1戦ブラジルGP、第2戦パシフィックGPではポールポジションを獲得したものの、いずれもリタイアに終わっている。1988年から在籍していたマクラーレンを離れ、ウィリアムズ・ルノーに移っていた。マクラーレンでは3度チャンピオンに輝いていたが、最後の2年はランキング4位と2位だった。ホンダが撤退してF1の環境が一変する中、新チームでの再起を期していたのだ。

1987年にロータス・ホンダでランキング3位となり、翌年からロータスと並んでホンダエンジンを供給されることになったマクラーレンに移籍した。鈴鹿でグランプリが開催されるようになり、ホンダとセナが組むことで日本でのF1人気は沸騰した。哀愁を帯びた目を持つブラジル人ドライバーは「音速の貴公子」と呼ばれ、若い女性からも熱烈な支持を得た。

アイルトン・セナは1988年から1993年までマクラーレンに在籍しており、1988年、1990年、1991年と、3度にわたりドライバーズタイトルに輝いている。写真は1990年シーズンのセナと、マクラーレン・ホンダMP4/5B。

ブラジルはサッカーの国として知られるが、モータースポーツにも同じくらいの熱量が注がれる。子供たちの夢は、サッカー選手かF1ドライバーなのだ。セナの運命は、4歳の誕生日に定められた。父親から手作りのカートを贈られたのだ。クルマ好きの父の思惑をはるかに超えてセナはレースに夢中になっていった。1973年、13歳で初めて公式カートレースに出場し、いきなり優勝を手にする。才能は誰の目にも明らかだった。

アイルトン・セナは1973年に初めて公式なカートレースに挑戦。F3に臨む直前の、1982年まで参戦を続けた。

カートに飽き足らず、1981年にイギリスに渡ってフォーミュラ・フォード1600に参戦する。フォーミュラでも才能を発揮して優勝を果たすが、資金不足に悩むことになる。実家は裕福だったが、ゆくゆくは息子に事業を継がせたいと思っていた父は援助を拒否した。自らスポンサーを集めて翌年はフォーミュラ・フォード2200にステップアップし、1983年にはF3に参戦した。

F1への登竜門といわれるこのカテゴリーでも、セナの実力は飛び抜けていた。開幕からの9連勝を含め、20戦中12勝を挙げてチャンピオンを獲得する。最終戦のマカオGPでもポールポジションから優勝、それもファステストラップを記録する完全優勝だった。マーティン・ブランドルやゲルハルト・ベルガーも参戦していたが、とても追いつくことはできなかった。

1982年のスポット参戦を経て、1983年にF3に本格参戦したアイルトン・セナだったが、1年目にしてたちまち圧倒的な速さを披露。わずか1年でF3を“卒業”し、翌年にはF1に挑戦することとなった。

才能を高く買ったフランク・ウィリアムズは、ドニントンパークでセナをFW08Cに乗せて走らせてみた。軽く流して記録したラップは当時のコースレコードである。F1がこの驚異の新人を放っておくはずがない。ウィリアムズを含め、複数のチームからオファーがあったのは当然だろう。

ブラジルGP優勝で見せた涙

ブラバムが最有力といわれたが、セナが選んだのは有力チームとはいえないトールマンだった。ナンバーワンドライバーを務めていたネルソン・ピケが嫌がったことで、ブラバム入りが実現しなかったともいわれている。同じブラジル人でもピケはリオ・デ・ジャネイロ、セナはサンパウロ出身である。2つの都市は対抗意識が強く、カリオカとパウリスタは仲が悪いのだという。

1983年のブラジルGPを走るネルソン・ピケと、彼のブラバムBMW BT52。この年、ピケはルノーのアラン・プロストを破り、ドライバーズタイトルに輝いている。

トールマンは非力なマシンだったが、セナはモナコGPで鮮烈な走りを見せた。大雨の中でプッシュし続け、マクラーレン・ポルシェに乗るプロストを追い詰めたのだ。予選タイムは2秒半ほど遅かったのに、ウエットコンディションでは1周ごとに差を数秒縮めていく。プロストの直後に迫ったが、無情にも赤旗が振られてレースは打ち切られた。セナはプロストが自らの勝利のために圧力をかけてレースを中止させたと受け取った。因縁の始まりである。

1988年から、セナはそのプロストとともにマクラーレンで走ることになる。2人ともナンバーワンドライバーの扱いだったが、彼らが協調してレースに臨むことはなかった。行き違いや誤解が重なり、対立は深まっていく。1989年に鈴鹿で接触事故を起こしたことは決定的な亀裂を生み、プロストがフェラーリに移籍した1990年の鈴鹿では、セナが報復を果たすことになった。

1989年の日本GPではセナとプロストが接触。プロストはリタイアし、セナもレース終了後に失格となった。2人はドライバーズタイトル争いを繰り広げていたが、この事件によりプロストのタイトル獲得が決定的となった。

1991年はセナにとって最高の年となった。2年連続チャンピオンを獲得したことも大きいが、もっとうれしい出来事があった。ブラジルGPで初優勝を果たしたのである。母国グランプリとはなぜか相性が悪く、それまでは予選でいい走りを見せても決勝では何かしらのトラブルが起きて涙をのんできたのだ。

この年も、インテルラゴスはセナに試練を与えた。1位で周回していた終盤、突如ギアトラブルが襲いかかったのだ。最後には6速以外のすべてのギアを失い、右手でレバーを必死に押さえながら迫ってくるリカルド・パトレーゼを2.991秒差でかわした。フィニッシュラインを越えたセナの無線からは、すすり泣くようなうめき声が聞こえてきた。

1991年、セナはV12エンジンを搭載したマクラーレン・ホンダMP4/6を駆って、自身3度目かつ最後のドライバーズタイトルを獲得した。

1992年、1993年のマクラーレンには十分な戦闘力がなく、セナは苦戦を強いられた。環境を変えたいと考えたのは自然な成り行きである。フランク・ウィリアムズのオファーを10年遅れで受け入れたのだ。理想的な準備を整えたように見えたが、2年の間に強力なライバルが頭角を現していた。ベネトンのミハエル・シューマッハである。ブラジルGP、パシフィックGPを制したのは、この若者だった。

セナのFW16がタンブレロコーナーに300km/h以上のスピードで激突した時、すぐ後ろを走って一部始終を目撃したのはシューマッハだった。彼はこのレースにも勝ち、勢いに乗って初のドライバーズタイトルを獲得する。ゆるやかに進むはずだった世代交代を、事故が一瞬にして進めてしまった。音速で人生を駆け抜けていった天才は、悲劇の貴公子として永遠に記憶されることになった。

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アラン・プロスト

確執が表面化したのは、1989年のサンマリノGPだった。ベルガーが起こした事故でレースは中断され、マクラーレンでは緊急ミーティングが行われた。再スタートで1コーナーを制したものが優先権を得るという取り決めだったとプロストは主張したが、セナの見解は違った。トサコーナーでミスを犯したプロストのインを突くのにためらいはなかった。

同じチームでありながら、以後2人の間に会話はなくなり、目を合わせようとすらしなかった。鈴鹿での2度の接触事故で、対立は先鋭化した。憎悪の感情はエスカレートし、非難の言葉が投げかわされた。

超一流のドライバー同士ではあったが、走りのスタイルはまったく異なっていた。セナがどんな状況でも最速を追求するのに対し、プロストはすべての要素を見極めた上で最も有利な方法を選択した。正確な分析に基づく走りから、彼はプロフェッサーと称されたのだった。

プロストは4回目のタイトルを獲得した1993年に引退を決める。最終戦のアデレードGPではセナが優勝し、プロストは2位だった。表彰台の上で、セナはプロストの左腕を取って高く掲げた。戦いに終止符が打たれ、互いに相手の実力を認め合った瞬間だった。

セナの最大のライバルとなったアラン・プロスト。写真は1981年イタリアGPのもの。

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ナイジェル・マンセル

マンセルは1987年のベルギーGPで接触してリタイアすると、セナのピットに殴り込みをかけた。1989年のポルトガルGPでは、ピット内でリバースギアを使って失格となったマンセルが黒旗を無視して走行し、セナのマシンに体当たりして出場停止処分を受けた。

“荒法師”と呼ばれたマンセルの粗暴なふるまいは、セナにとっては我慢のならないものだっただろう。逆もまた真である。1992年のモナコGPでは、ピットインの間に先行されたセナにブロックされ、千載一遇のチャンスを逃した。マンセルはモナコ未勝利に終わっている。

コーナーへの進入でブレーキを遅らせ、ドリフト気味に抜けていくアグレッシブな走りがマンセルの特徴だった。想定外のドライビングをするマンセルにセナが畏怖(いふ)の念を抱いていたことは確かだろう。

セナが事故死を遂げた後、ウィリアムズは代役のドライバーが必要になった。マンセルはすでにF1を引退してアメリカのCARTで走っていたが、スポット参戦の要請を受け入れた。最終戦のオーストラリアGPではポール・トゥ・ウィンを達成し、尊敬すべきライバルへのはなむけとした。

ナイジェル・マンセルはサンマリノGPで事故死したセナに代わり、ウィリアムズから4戦に出場。最終戦ではポール・トゥ・ウィンを果たした。

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ミハエル・シューマッハ

シューマッハが22歳でF1の舞台に登場できたのは、偶発的な出来事がきっかけだった。1991年のベルギーGP直前にジョーダン・グランプリのドライバーだったベルトラン・ガショーが傷害事件で収監され、代役に起用されたのである。それまでメルセデス・ベンツのスポーツカーレースで好成績をあげていたものの、シューマッハは無名の存在だった。

一時しのぎの要員だと思われていたが、スパ・フランコルシャンの予選で評価が急上昇する。マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズを除けば最速となる7番手につけたのだ。素早く動いたのはフラビオ・ブリアトーレである。アパレル会社がトールマンを買収して作ったベネトン・フォーミュラを率いる彼は、強引に新星を奪い取った。

翌1992年にはフル参戦してベルギーGPで初勝利を飾り、年間ランキング3位となる。才能はあるが時に傍若無人な若者に、セナはいら立ちを隠さなかった。フランスGPではシューマッハの強引な仕掛けに遭ってリタイアを余儀なくされ、彼に説教を試みたものの素行は改まらなかった。

勝利のために無礼な態度も辞さなかったのは、若き日のセナも同じだった。シューマッハはF1に君臨する皇帝となり、7度にわたってドライバーズチャンピオンとなる。2006年に一線を退くが2010年にカムバックし、2012年に再び引退。家族との生活を楽しんでいたが、スキー中の転倒事故で重傷を負い、現在もリハビリに取り組んでいる。

1992年のベルギーGPにて、自身初のF1優勝を喜ぶミハエル・シューマッハ。

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[ガズ―編集部]