スズキ――軽自動車のパイオニア (1955年)

よくわかる自動車歴史館 第107話

織機製造から自動車産業への進出を目指す

2015年8月、国際仲裁裁判所がスズキとフォルクスワーゲンの間で争われていた提携解消の問題について判決を下した。ほぼスズキの全面勝利と言っていい内容である。2009年に両社は包括的提携を発表していたが、思惑の違いからすぐに不協和音が生じ、スズキが提携解消を申し入れていたのだ。イコールパートナーだと考えていたスズキに対し、フォルクスワーゲンはあくまでグループの戦略内の関係と位置づけていた。

2009年12月に行われた基本契約書の署名式において、握手を交わすスズキの鈴木 修会長とフォルクスワーゲンのマルティン ヴィンターコルン会長。両者の関係は長くは続かず、3年で提携を解消することとなった。

フォルクスワーゲンは、スズキの持つ新興国での販売網と小型車作りのノウハウを欲しがっていた。世界最大級の自動車会社グループにとっても、スズキは魅力的な存在だった。日本の激しい軽自動車競争の中で小型軽量化と低コスト化の技術が養われ、他の追随を許さないレベルになっていたからだ。スズキには、半世紀にわたって小さなクルマを作り続けてきた歴史がある。原点は、1955年に発売したスズライトだ。

創業者の鈴木道雄は、1909年に浜松で鈴木式織機製作所を設立した。足踏み式の小型織機から始め、1920年には鈴木式織機株式会社に改組して動力織機に進出。効率の高さが評判を呼び、東南アジアへの輸出も行うようになった。

静岡県浜松市のスズキ歴史館に展示されているサロン織機。スズキの歴史は、織機の製造からスタートした。

順調に業績を伸ばしたが、織機は耐久性が高くて新規の需要が生まれにくい。いずれ先細りになるのは明らかで、新たな分野に進出しなければ生き残れないだろう。技術力を生かすには、自動車事業が最適だと考えた。

1937年、オースチン・セブンを購入してエンジンの研究を始める。解体して構造を見極め、本物と同等の性能を持つコピーエンジンを作り上げた。この年には豊田自動織機製作所を母体にトヨタ自動車工業が設立されており、日本では自動車製造に向かう機運が高まっていた。鈴木式織機でもフェートン型のプロトタイプを試作したが、以後は自動車開発どころではなくなった。日本は戦時体制に突入しつつあり、軍部から砲弾などの製造を要請されたのだ。

鈴木織機が自動車開発の“お手本”としたイギリスのオースチン・セブン。当時の英国を代表する大衆車で、さまざまなメーカーに影響を与えた。

半年で作った試作車で箱根越え

戦争で浜松は焼け野原となったが、幸運にも郊外にあった高塚分工場の被害は少なかった。しかし、懸念したとおり織機の販売は低迷する。打開策として、陸軍から払い下げられた6号無線発電機用エンジンを使った二輪車製造を行うことにした。すでにホンダが先行してオートバイメーカーとなっており、浜松ではほかにも多くのメーカーが二輪車事業に参入していた。現在の日本にはオートバイメーカーが4社あるが、カワサキを除くスズキ、ホンダ、ヤマハは浜松がルーツである。

1952年、鈴木織機は36ccのエンジンを取り付けたパワーフリー号を発売した。翌年エンジンを60ccに拡大したダイヤモンドフリー号を市場に投入すると、月産4000台のヒットとなる。1954年には社名を鈴木自動車工業株式会社に変更した。四輪事業に進出する意欲の表れだが、社内では反対論が強かった。せっかく二輪で成功しているのだから、リスクを冒して自動車製造に向かう必要はないというのだ。

スズキ初の二輪車として1952年に誕生したパワーフリー号(左)と、1953年に誕生したダイヤモンドフリー号(右)。

鈴木道雄の長女の婿養子となった専務の鈴木俊三は、四輪事業には懐疑的だった。道雄は次女の婿養子である常務の鈴木三郎をリーダーにした社長直轄のチームを作って開発をスタートさせる。フォルクスワーゲン・ビートル、シトロエン2CV、ロイトLP400、ルノー4CVを購入して分析を始めた。検討の結果、手本として最適だと考えられたのは、2ストロークエンジンを横置きにしたFF車のロイトである。

日本では1949年に軽自動車の規格が定められた。全長2800mm、全幅1000mm、エンジンは4ストロークが150cc、2ストロークが100ccというもので、現実的にはこの枠組みで四輪車を製造するのは不可能である。度重なる規格改定で全長3000mm、全幅1300mm、4ストロークが360cc、2ストロークが240ccとなり、オートサンダル、フライングフェザーといったモデルが作られるようになった。ただ、いずれも商業的な成功を収めたとは言えない。

スズキがスズライトを発売する以前にも軽自動車は存在したが、いずれも町工場での手作りの域を出ず、商業的な成功は収められなかった。写真は1954年の第1回全日本自動車ショウに出展された、住江製作所のフライングフェザー(プロトタイプ)。

1954年に2ストロークエンジンでも360ccまで認められるようになり、規格がようやく現実的なものに定まる。スズキでは軽自動車の開発が急ピッチで進められた。2月にロイトを解体して分析を始め、9月には第1号試作車が完成している。10月になると、路上での走行試験が行われた。浜松から東京を目指すルートで、箱根の山を越えなければならない。当時は箱根登板試験が自動車の性能を判定する基準とされていた。

舗装された路面は1割もなく、わだちの刻まれた砂利道を走っていかなくてはならない。試作車は過酷な試練に耐え、東京の芝浦に到達した。目的地は簗瀬自動車の本社である。長年自動車の輸入を手がけてきた梁瀬次郎社長に見せ、感想を聞こうというのだ。簗瀬氏は自らハンドルを握って都内を走り、性能に太鼓判を押した。自信を深めたスズキは試作車をベースに改良を重ね、1955年10月にスズライトを発売した。

スズキの試作車を試乗した梁瀬自動車の梁瀬次郎社長。梁瀬は長年にわたり自動車の輸入事業を手がけており、自動車に精通していた。2004年には米国において日本人として3人目の自動車殿堂入りを果たしている。

先進的なFFの駆動方式と4輪独立懸架を採用

スズライトには当初セダン、ライトバン、ピックアップの3モデルが用意されていた。1956年4月には東京・日比谷の第3回全日本自動車ショウに出品され、来場者の注目を集める。直売方式の価格は、それぞれ42万円、39万円、37万円。ダットサンの75万円に比べれば安いが、大卒初任給が6000円に届かなかった時代には簡単に手を出せるものではなかった。量産効果を出すため、1958年にはライトバン1車種に絞られた。

スズキ初の四輪車であるスズライト。セダンのSS、ライトバンのSL、ピックアップトラックのSPの3モデルがラインナップされた。エンジン横置き・FFの駆動方式など、1955年当時としては非常に先進的なクルマだった。

スズキにとって初めての四輪自動車は、先進的なメカニズムを持っていた。この時代にエンジン横置きの前輪駆動を選択したのは驚きである。日本でFF車が普及するのは1970年代になってからだ。ユニバーサルジョイントの性能を確保することが難しかったことが理由といわれる。スズライトはFF方式の採用で車内のスペースを広く取ることができ、ライトバンではフラットな荷室を実現できた。

またリーフリジッドが当たり前の時代に、サスペンションはコイルスプリングを用いた4輪独立懸架だった。ただし、これについてはオートバイメーカーだったのでリーフスプリングを扱ったことがなく、コイルを使わざるを得なかったのかもしれない。1956年からは耐久性の高い横置きリーフに変更されている。

2ストロークエンジンに関しては経験があったため、手本にしたロイトよりも高効率に仕上げることができた。空冷直列2気筒エンジンは、初期モデルでも15.1ps/3800rpmの最高出力を得ていた。トランスミッションは3段で、最高速度は80km/hである。1959年の2代目になると最高出力は21ps/5500rpmに向上している。ボディースタイルはMINIに似ているが、スズライトの方が1カ月ほど発表時期は早かった。

1959年に登場した2代目スズライト。同車の乗用パージョンとして、1962年にスズライト・フロンテが発売された。

2代目は物品税を回避するために商用車のみの設定となった。乗用車版は1962年に登場し、スズライト・フロンテと名づけられた。1967年の2代目からはフロンテ360になり、スズライトは1968年に販売を終了する。1976年の規格改定で排気量の上限が550ccになり、1979年に商用車の姉妹車アルトが登場する。アルトは大ヒットし、排ガス規制の影響で販売不振に陥っていたスズキの救世主となった。

現在も販売が続けられているアルトは、ルーツをたどるとスズライトに行き着くことになる。1993年にはアルトから派生したハイトワゴンのワゴンRが登場し、軽自動車の新たな主流となった。スズライトのチャレンジングな開発姿勢は脈々と受け継がれ、スズキは世界の大メーカーから技術力を高く評価される“小さな巨人”なった。

関連トピックス

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スズキ・フロンテ

スズライトの乗用車版として登場した初代は、ゆったりした後席スペースが売り物だった。後席より荷室を広く取らなくてはいけないという商用車の規定から自由になるからだ。独立したトランクスペースを備え、後席のサイドウィンドウは開閉が可能となった。

初代のパンフレットには名前の由来としてフロンティア精神を挙げるとともに「フロントエンジン・前輪駆動をも意味します」と書かれていたが、1967年のモデルチェンジで正反対のリアエンジン・リアドライブ方式に変更される。

この年に31psのエンジンを搭載したホンダN360が発売され、軽自動車のハイパワー競争が始まった。フロンテは25psだったが1968年には出力を36psに高めたSSを投入する。軽量ボディーを生かし、0-400m加速19.95秒の高性能を誇った。

アルトの登場で1979年からは再びFFを採用。しばらく両者は平行して販売されていたが、1989年に販売を終了した。消費税導入によって物品税が廃止されてアルトが商用車である理由がなくなり、フロンテは統合される形となった。

1967年に登場したスズキ・フロンテ。スズライトの乗用バージョンだった初代スズライト・フロンテに対し、2代目はRRの駆動方式を持つ独立車種として登場。車名からもスズライトの文字が外された。

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スズキ・アルト

1970年代後半、スズキは厳しくなる排ガス規制を2ストロークエンジンの改良で乗り切ろうとして失敗し、ダイハツからエンジン供給を受けるという苦境にあった。1976年には軽自動車規格の改定でエンジン排気量が550ccに拡大され、対応を迫られていた。

軽自動車の販売が落ち込む中、1978年に鈴木俊三の婿養子である鈴木 修が社長に就任する。彼はほぼできあがっていた新モデルの発売にストップをかけ、徹底的なコストダウンを命じる。後席をベニヤ板製にするなどの合理化を行い、物品税を払わずに済む商用車として発売することで47万円という価格を実現した。

アルトは軽ボンネットバンというジャンルを生み出し、軽自動車市場は再び活性化する。地方では日常の足としての役割が定着し、セカンドカー需要も掘り起こした。スズキは軽自動車のトップメーカーに躍り出る。

インドではアルトをベースに排気量の大きいエンジンを搭載したマルチ800が販売されて大ヒット。国民車と呼ばれるようになり、スズキはインドで確固たる地位を築いた。

1979年に発売された初代スズキ・アルト。価格の安さをアピールする「アルト47万円」というCMコピーで話題を呼んだ。

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スズキ・ワゴンR

北米では1980年代にミニバン人気が急上昇。ダッジ・キャラバンやクライスラー・ボイジャーなどが飛ぶように売れていた。スズキでは軽自動車でも同じようなモデルが作れるのではないかと考えた。

大ヒットしたアルトの販売は伸び悩み、新たなモデルが必要とされていた。1991年にはルーフ後部を高めたアルト・ハッスルを投入するが、決定打とはならない。

1993年、軽自動車の常識をくつがえすワゴンRが登場する。1640mmという車高を生かして広大なスペースを生み出し、高い利便性が軽自動車の新たな可能性を開いた。まったく新しい外観だが、他モデルとの部品共用化率を70%とすることでコストを抑えている。

1996年には年間販売台数が20万台を超える。他メーカーからも同様なモデルが発売され、ハイトワゴンは軽自動車の主流となった。2012年に登場した5代目でも基本的なデザインは受け継がれており、初代の完成度が高かったことを示している。

1993年にデビューした初代スズキ・ワゴンR。広い車内空間と他の軽自動車とは一線を画すスタイリングで人気を博し、軽ハイトワゴンという新しいジャンルを切り開いた。

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[ガズ―編集部]