アルファ・ロメオとマセラティ (1930年)

よくわかる自動車歴史館 第113話

戦前のグランプリレースで覇を競ったライバル

1930年のグランプリは、夏に入ると予期せぬ異変に見舞われた。アキーレ・ヴァルツィがアルファ・ロメオからマセラティに電撃移籍したのである。彼はアルファ・ロメオのレース活動を担っていたスクーデリア・フェラーリのエースドライバーだった。激しいトップ争いを演じていた両チームの力関係を揺るがす事態である。この年のマセラティは絶好調で、トリポリ・グランプリをはじめとした多数のレースで勝利を挙げた。

1920年代の後半、アルファ・ロメオとマセラティは国内外のレースで覇を競っていた。自動車誕生からしばらくするとクルマの性能とドライバーのテクニックを競う競技が始まり、1901年にはフランスで初めてグランプリの名を冠したレースが行われた。1920年頃からは各国でグランプリレースが開催されるようになる。当時の自動車はごく限られた層だけが手に入れることのできるぜいたく品で、ユーザーに高性能をアピールするレースは、自動車メーカーにとって重要なイベントだった。

マセラティがグランプリに投入したレーシングカーのティーポ26。2リッターエンジンを搭載した26Bや、2.5リッター、2.8リッターの26Mへと進化していった。

現在、人々がアルファ・ロメオとマセラティについて思い浮かべるイメージは、いずれもイタリアの高級スポーツカーメーカーというものだろう。グランプリレースでのライバル同士が、今ではどちらもフィアットグループの一員となっている。両社とも苦難の時期を迎えたことがあり、時代の移り変わりに対応して大きな変化を経験してきた。

創業はアルファ・ロメオのほうが早い。ロンバルディア州の実業家たちがフランス車ダラックのイタリア工場を買収し、1910年にロンバルダ自動車製造株式会社を設立したのが始まりである。社名はイタリア語でAnonima Lombarda Fabbrica Automobiliと表記され、製造したクルマには頭文字のA.L.F.A.という名が与えられた。

技師で実業家のニコラ・ロメオは、第1次世界大戦の軍需で築いた財を投入し、ロンバルダ自動車製造株式会社の経営権を取得する。1918年には所有していた自らの会社と合併させ、ニコラ・ロメオ技師株式会社が誕生した。戦争が終わって再開された民生用のモデルには、「ALFA-ROMEO」のエンブレムが付けられることになった。

1918年、実業家のニコラ・ロメオはA.L.F.A.を買収。会社名と自身の姓を合わせた自動車ブランド、アルファ・ロメオを発足させた。

ドイツ勢の参入で苦境に立たされる

ミラノ近郊の町ヴォゲーラに住む機関士のロドルフォ・マセラティには、長兄カルロを頭に6人の息子がいた。父の操る機関車を見て育った兄弟のうち5人は、新時代の乗り物として脚光を浴びつつあった自動車に興味を引かれるようになる。彼らはレーシングドライバーやエンジニアとして働いた後、1919年に共同で会社を設立した。高性能なスパークプラグを製造して資金を得るとともに、レーシングカーの開発を行うようになった。

マセラティ兄弟の四男であるアルフィエリは、1914年にボローニャの旧市街中心部ペポリ通りに自身のオフィスを開設。今日に続くマセラティの歴史が始まった。

イソッタ・フラスキーニやディアットのチューニングを請け負いながらレース活動で名を高め、1926年に初のオリジナルレーシングカーを製作する。1.5リッターエンジンを搭載するグランプリマシンで、ティーポ26と名づけられた。グリルに付けられたトライデントのエンブレムをデザインしたのは、ただ一人芸術の道を選んだ五男のマリオである。これで6人兄弟すべてがクルマに関わることになった。

マセラティは排気量を2リッターに拡大したティーポ26BやV型16気筒エンジンを搭載するティーポV4を開発し、イタリアのレースで目覚ましい活躍を見せるようになる。一方、アルファ・ロメオは頼りになる戦力を手に入れていた。ワークスドライバーだったエンツォ・フェラーリの誘いで、エンジニアのヴィットリオ・ヤーノが参加したのだ。彼が開発したグランプリカーP2の戦闘力は高く、グランプリやタルガ・フローリオで華々しい成績を挙げる。

戦前のアルファ・ロメオが製作したレーシングカーP2。エンジンには2リッター直列8気筒エンジンを搭載していた。

その後、エンツォ・フェラーリはレーシングチームのスクーデリア・フェラーリを立ち上げてアルファ・ロメオのレース活動を請け負うことになり、ヤーノの製作したマシンで数々のレースを制することとなった。ヤーノはツーリングカーのジャンルでも実績を残している。6C1500、6C1750、8C2300などは戦前のアルファ・ロメオを代表するモデルだ。

アルファ・ロメオとマセラティは、互いに競い合うようにして高性能なモデルを生み出していった。しかし、1930年代の中頃になると、どちらのチームも突然勝てなくなる。マセラティのティーポ6Cやアルファ・ロメオのP3は優れたマシンだったが、急速に力を伸ばしたドイツ勢にまったく歯が立たなかった。独裁政権を握ったヒトラーから国威発揚の使命を託されたメルセデス・ベンツとアウトウニオンが、豊富な資金力を生かして開発したモンスターを送り込んできたのだ。

ドイツ勢の投入する最新鋭のマシンを前に、アルファ・ロメオとマセラティは苦戦を強いられるようになっていった。写真は1938年に活躍したミドシップのグランプリカー、アウトウニオン・タイプD。

アルファ・ロメオは世界恐慌の影響で1933年に経営危機に陥り、産業復興公社(IRI)のもとで半国営企業となっていた。マセラティも資金不足が深刻化し、1937年に実業家アドルフ・オルシの手に経営を委ねる決断をする。マセラティ兄弟は10年間エンジニアとして会社に残るという契約を結んだ。1939年に第2次世界大戦が始まるとレースどころではなくなり、両社とも軍需を担って生産活動をすることを余儀なくされた。

量産車メーカーとしての再出発

戦乱によってイタリアの国土は荒廃し、連合軍の攻撃目標となった軍需工場は壊滅状態だった。アルファ・ロメオは工場を再建し、戦前型を改良したモデルの生産から活動を始める。1950年のパリサロンで、新時代に対応するための変革が明らかになった。展示された1900という名のセダンは、先進的なDOHCエンジンを採用していた。モノコックボディーにダブルウィッシュボーンのフロントサスペンションを備えたスポーティーなモデルである。高級スポーツカーの少量生産から、量産車メーカーへと舵(かじ)を切ったのだ。

アルファ・ロメオ初の量販モデルとなった1900。優れた動力性能が特徴で、高性能版のスーパーやTIスーパー、2ドアクーペのスーパースプリントなどもラインナップされた。

マセラティでは、創業者のマセラティ兄弟と新オーナーのオルシとの対立が深まっていた。レーシングカー開発に専念したい兄弟は、ツーリングスポーツカーを販売したいと考えていたオルシと決裂する。彼らはマセラティを去ってO.S.C.Aを設立し、レース活動を続けた。マセラティはオルシの指揮下で高級スポーツカーを生産してモータースポーツにも参戦したが、経営状況は悪化していった。

1957年にマセラティはワークス体制でのレース活動に終止符を打つ。ロードカーメーカーへの転身を決めたのだ。ジュネーブショーに展示された3500GTが新時代の幕開けを告げるモデルだった。レースカーに搭載された直列6気筒3.5リッターDOHCエンジンを利用して製造したGTカーである。デチューン版とはいっても高性能なパワーユニットを持つクーペは好評で、マセラティは新たな路線を開拓することに成功した。

1958年に生産が開始されたマセラティ3500GT。ツインイグニッションの3.5リッター直6 DOHCエンジンを搭載したGTカーであり、クーペとスパイダーの2種類が用意されていた。

アルファ・ロメオは1954年にジュリエッタ、1962年にジュリアを発売し、量産車メーカーとして確固たる地位を築いていく。1970年にはイタリア南部の経済開発の一環として企画されたFFモデルのアルファスッドが登場し、モデルバリエーションが拡大した。マセラティは1963年のトリノショーで初の4ドアモデルとなるクアトロポルテを発表した。スポーツカーのイメージをまとった高級セダンである。1966年にはスーパーカーブームの立役者となったギブリをデビューさせた。

華やかなラインナップをそろえたマセラティだが、慢性的な資金不足に悩まされていた。1968年にシトロエンからの申し出を受け入れ、株式を譲渡して傘下に入る。マセラティが開発したエンジンをシトロエンSMに搭載するなど一定の成果はあったが、シトロエンも盤石ではなかった。1975年に提携は解消され、マセラティの経営権はデ・トマソに移る。クライスラーと協力関係を結んだ時期を経て、マセラティが最後に選んだのはフィアットだった。1993年にグループ入りし、高級車のブランドとして再出発を果たした。

アルファ・ロメオは一足先にフィアット傘下に入っていた。政府が民営化の方針を打ち出し、持ち株を売却したのだ。フィアット体制で品質に磨きをかけ、1997年に発表した156が大ヒットした。マセラティはフェラーリとの提携を強化し、スポーティーな3200GTで評価を高めた。

1997年に発表されたアルファ・ロメオ156(左)と、翌年の1998年にデビューしたマセラティ3200GT(右)。ともにメーカーの再興を担うモデルとなった。

フィアットは2014年にクライスラーを子会社化し、巨大な自動車メーカーグループを形成することになった。かつてグランプリでしのぎを削ったライバルであるアルファ・ロメオとマセラティは、フィアットのグローバルな戦略を担う重要な部門として活動している。レースの世界で鍛えられた技術と伝統が、今もブランドを支えている。

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ヴィットリオ・ヤーノ

アルファ・ロメオは1923年に新型車P1を投入し、グランプリの制覇を狙った。しかし、モンツァでのテスト中に死亡事故が発生し、このモデルの欠陥が明らかになる。

新たなレースカーの開発のために呼び寄せられたのがヴィットリオ・ヤーノだった。トリノのフィアットで働いていた彼はミラノに移るのを嫌がったが、エンツォ・フェラーリが強引に説き伏せた。

ヤーノはわずか数カ月でP2を完成させ、1924年に行われたデビュー戦で優勝を果たす。P2はグランプリで圧倒的な強さを誇り、勝利を重ねていった。1932年には後継モデルのP3を生み出している。

6C1500/1750、8C2300などのスポーツカーもヤーノの手によって作られた。戦前のアルファ・ロメオ黄金期を築き上げた彼は1937年にランチアに移り、戦後はフェラーリでV6エンジン開発に関わった。

自らの手がけたグランプリカーとともに写真におさまるヴィットリオ・ヤーノ。1920年代から1950年代まで、長きにわたりレーシングカーやスポーツカーの開発に携わった。

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アルファ・ロメオ156

アルファ・ロメオはスッド系やアルナなどを除けばFR車を作り続けてきたが、フィアット傘下に入るとプラットフォームの共通化を受け入れてFF車を手がけるようになる。1987年に発売された164は、ランチア・テーマ、フィアット・クロマ、サーブ9000の姉妹車だった。

1992年に75の後継モデルとしてFFの155が発売されるが、ブレイクしたのは1997年に登場した156である。ワルター・デ・シルヴァのデザインしたモダンで端正なフォルムは、世界的に人気となった。

日本でも成功を収めたのは、マニュアルトランスミッションに加えてセレスピードが採用されたことが大きい。2ペダルのセミオートマで、それまではマニアックな存在だったアルファ・ロメオが、誰でも乗れるクルマだと受け止められるようになった。

派生モデルのスポーツワゴンもヒット作となった。ワゴンを名乗りながら荷室容量を犠牲にしてスタイルを重視し、クーペのようなスタイルだというのが宣伝文句だった。

世界的な人気モデルとなったアルファ・ロメオ156には、スポーツワゴンや高性能バージョンのGTAなど、さまざまなモデルがラインナップされた。

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マセラティ・レヴァンテ

セダン、クーペ、オープンカーというラインナップをそろえていたマセラティが、新たなジャンルに参入した。2016年に発売されたレヴァンテは、マセラティにとって初めてのSUVである。

プラットフォームはギブリがベースとなっており、フェラーリと共同開発した3リッターV6ツインターボエンジンを搭載する。高性能バージョンの0-100km/h加速は5.2秒とされていて、SUVであってもスポーツカー的なフィールを持ち合わせているという。

内装にはファッションブランドとコラボしたエディションを設定するなど、ゴージャスなイメージを演出する。他のモデルと同様、ダッシュボードにはトライデントが刻印されたアナログ時計が備えられている。

プレミアムSUVは世界的な流行となっていて、ジャガーやベントレーも戦列に加わっている。グランプリマシンからスポーツカー、GT、高級セダンとバリエーションを広げてきたマセラティにとっても、このジャンルを開拓するのは自然な流れだった。

2016年のパリモーターショーにて、マセラティのブースに展示されるレヴァンテS。

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[ガズー編集部]