首都高速道路誕生秘話(後編)

昭和30年。42歳となっていた山田正男は、内務省から転身して東京都建設局都市計画部長に就任し、首都高の建設にまい進することになる。 
背景には、政府や東京都の財政難があった。敗戦で東京は焼け野原となり、国にも都にもからっきし財源がない。都市計画にとっては千載一遇のチャンスだったが、道路整備はほとんど進まなかった。 
そこで浮上したのが、有料化によって財源を確保しつつ、立体交差で手っ取り早く交通を処理できる都市内高速道路、すなわち首都高速だったのだ。

山田は昭和32年、首都高速道路計画案(東京都案)を完成させる。それは、ひとつの環状線から8本の放射線が山手線のやや外側まで伸びる、総延長62.5kmの計画だった。ルートは、現在の首都高そのものと言っていい。 
しかも驚くべきことにこの計画は、可能な限り民有地を避けるべく、川や幹線道路の上、あるいは川床を使うことで、工期と工費の短縮を図っていた。買収が必要な民有地は、全体のわずか10.9%という少なさ。首都高が現在でもカーブだらけの複雑な構造なのは、これが原因だ。既存の地形や道路網が優先で、線形はそれに沿わせただけ。つまり、徳川家康が防衛を重視して造らせた、うねった道路や堀の地形が、首都高にそのまま生きている。 
計画は若干の修正を加え、翌昭和34年、都の審議会で議決。ほぼ同時期に首都高速道路公団も設立された。

首都高速道路公団は1959年6月に誕生。2005年9月に解散となるまで、首都高速道路の建設、管理を担い続けた。(写真提供:首都高速道路)

その内容が建設大臣に送られ、委員会で審議中、巨大イベントが決定する。5年後の昭和39年に、東京オリンピックが開催されることになったのだ。 
当時の東京は、道路の貧弱さゆえに大渋滞が発生していた。このままでは選手の移動は鉄道以外にない。なにしろ、羽田から選手村予定地の代々木まで、2時間以上かかったという。 
なんとかしなければオリンピックは失敗する。危機感が予算配分となって表れ、首都高は建設に向けて突如フルスロットル状態となった。 
ここで山田の先見の明が生きた。山田はもともと、工費と工期を短縮するために、川や幹線道路上をフル活用する計画を立てていたからである。用地さえ確保できれば、あとは技術と、当時の日本のお家芸だった「突貫工事」で解決できる。 
首都高の建設ぶりを、世は「空中作戦」と呼んだ。しかし山田の空中作戦は、オリンピックに間に合わせるために急きょ編み出したわけではなく、当初からの慧眼(けいがん)が、たまたまオリンピックという最高の舞台を得ただけだった。

2015年3月、ついに全線開通した首都高中央環状線(C2)も、建設中の外環道も圏央道も、戦前から山田が構想していたものだ。結局完成まで約80年を要することになったが、彼によって、すでに絵は描かれていたのである。

大井JCTの様子。2015年3月7日に同JCTと大橋JCTをつなぐ品川線が開通したことで、中央環状線は全線開通となった。(写真提供:首都高速道路)

※清水草一著『首都高速の謎』(扶桑社新書)を元に構成

(文=清水草一)

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[ガズー編集部]

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