<自動車人物伝> アルマン・プジョー (1889年)

よくわかる自動車歴史館 第116話

コーヒーミルから自転車へ

プジョーのルーツはフランス中部東端のモンベリアールにある。スイス国境近くに位置する山あいのこの町で、プジョー家は15世紀から農業を営んでいた。18世紀になると軽工業に進出し、織物や染め物などを生産するようになる。契機が訪れたのは1810年のことで、ジャン・ピエール・プジョー2世が冷間圧延工法の製鉄に成功。工具や時計用スプリング、コーヒーミルやペッパーミル、コルセットまでさまざまな鉄製品を製造するようになり、家業は大きく発展していった。プジョーのコーヒーミルは現在でも製造されていて、品質の高さには定評がある。

プジョーのコーヒーミル。優れた鉄加工技術を持ったプジョーは、まずは家庭用品や工具のメーカーとして成長していった。

蓄積された技術力を生かしてさらに業態を広げたのが、アルマン・プジョーだった。1849年生まれで、ジャン・ピエールの孫にあたる。彼はイギリスに留学した際に街を走っていた自転車を目の当たりにして衝撃を受けた。当時最先端の工業製品だった自転車を、プジョー社の新たな製品として開発しようと考えたのだ。

1871年に帰国すると、アルマンは早速自転車の製造を提案した。しかし、フランスではまだ自転車についての情報が乏しかった。父のエミールは理解を示したものの、直後に病に倒れて世を去ってしまう。代わりに社長に就任した叔父のジュールはこれまでどおり家庭用品を作っていればいいという考えで、リスクを冒すことには反対だった。アルマンは孤立し、提案は拒絶されてしまう。

自転車、そして自動車と、モビリティー分野への進出を推し進めたアルマン・プジョー。1896年にはオートモビル・プジョー社を設立し、フランスにおける黎明(れいめい)期の自動車産業をけん引した。

時代を見通していたのは、アルマンだった。イギリスから自転車が輸入されるようになると、フランスでもまたたくまに人気となったのである。ようやく参入が決まり、アルマン主導のもとに自転車の開発が進められた。プジョーが培った技術を応用すれば、高品質なワイヤーホイールの製造が可能だ。1885年に初の製品を送り出すと大人気となる。生産体制を整えて大量生産を始めたプジョーは、フランス屈指の大企業へと成長していった。

最初は高価だった自転車も量産効果で価格が下がり、庶民の足として普及していく。プジョーの前途は洋々たるものに見えたが、アルマンだけは将来に不安を感じていた。自転車が移動の主役である時代は長くはない。次の段階に進まなければ、会社は早晩行き詰まる。彼は新しい製品の開発に取り組むことを決意した。自動車事業への進出である。

「Grand Bi」と呼ばれる、プジョーが19世紀に生産した自転車。チェーンなどの機構はなく、巨大な前輪に取り付けられたペダルを直接こいでいた。

蒸気自動車で失敗しガソリンに目を向ける

当時はまだ自動車産業の先行きは不透明だった。カール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーによってガソリン自動車は作られていたものの、まだ実用的な乗り物とはいえなかった。電気自動車や蒸気自動車も有力で、熾烈(しれつ)な開発競争が行われていたのだ。その中で、アルマンはレオン・セルポレという技術者が製作したフラッシュ・ボイラーに注目した。瞬間的に超高圧過熱蒸気を作り出すことができる装置で、小型な自動車に合っていると考えたのである。

自転車製造の技術を応用すれば、鋼管でフレームを作ることができる。1889年、アルマンはプジョー・セルポレと呼ばれる蒸気自動車を作り上げた。後方にフラッシュ・ボイラーと2気筒スチームエンジンを搭載した三輪車である。翌年の1月、アルマンは自信満々でテスト走行に臨んだ。セルポレのボイラーは好調で、三輪車はゆっくりと走り始める。しかし、鋼管フレームは蒸気機関の重さに耐えきれない。初めてのことで強度計算もされておらず、走行中にあらゆるパーツが壊れていった。

1889年に完成した蒸気自動車のプジョー・セルポレ。蒸気機関の性能は申し分なかったが、その重さに車体が耐えられず、試走は失敗に終わった。

ブレーキが利かなくなり、フロントフォークやリアアクスルが破断した。路上で修繕を繰り返しながら走り続けた結果、約500kmのテストランを終えるとプジョー・セルポレは130kgも重くなっていたという。手痛い失敗でアルマンは蒸気機関に見切りをつける。ちょうどその頃、フランスではパナール・エ・ルヴァッソールがダイムラーからライセンスを得てガソリンエンジンの製造を始めていた。アルマンは以前から交流の合ったエミール・ルヴァッソールにエンジンの提供を願い出る。

シャシー技術を持たないパナール・エ・ルヴァッソールにとっても渡りに舟の話で、エンジン提供の契約が成立する。アルマンは早速ガソリン自動車製作に取りかかった。蒸気自動車の経験があったことで、開発は順調に進む。短期間で鋼管フレームの四輪車「クアドリシクル」を作り上げた。ドライバーズシートの下に、パナール・エ・ルヴァッソール製のダイムラー式Vツイン565ccエンジンを搭載する。蒸気機関よりはるかに軽量で、今度は壊れる心配はない。

出力はわずか2馬力だったが、車重400kgの車体を18km/hで走らせることができた。アルマンは試作車の仕上がりに満足し、エンジンを追加発注する。同じモデルが4台製作されたので、クアドリシクルの生産台数は5台ということだ。当時ダイムラーやベンツでは、まだワンオフモデルしか作られていなかった。同一モデルを複数生産したプジョーは、“世界最古の自動車メーカー”とされている。

プジョー初のガソリン車である「クアドリシクル」ことタイプ2。エンジンにはパナール・エ・ルヴァッソールがライセンス生産した、ダイムラーのV型2気筒エンジンが搭載された。

2台のベベが導いた成功への道

プジョーでは「ヴィザヴィ」「フェートン」「ヴィクトリア」などさまざまなボディータイプの自動車を製造するようになる。1891年には自転車レースでヴィザヴィが伴走車を務め、1200kmを走り抜いた。自動車の耐久性が証明されたことで、自動車レース開催の機運が高まる。1894年に世界初のモータースポーツイベントである「パリ-ルーアン」が開催され、プジョーは優勝を果たしたのだ。

1894年のパリ-ルーアンにおいて、2着でゴールしたプジョー。その後、1着だった蒸気機関車の順位が落とされ、プジョーは3着のパナール・エ・ルヴァッソールとともに1位とされた。

1893年は24台だった生産台数は、翌年には40台、翌々年には72台と順調に規模を拡大していく。アルマンは自動車事業の成功を確信していたが、叔父のジュールの考えは違った。アルマンが独断で自動車開発を進めていることを苦々しく思っており、将来性にも疑問を抱いていた。アルマンは思いどおりに事業を進めるため、独立を決意する。1896年にオートモビル・プジョーを設立し、工場を新設して2座クーペから12人乗りのバスまでさまざまな種類のクルマを生産した。

事業拡大のためには、解決しなければならない問題があった。この時点でも、エンジンはライバルでもあるダイムラーとパナール・エ・ルヴァッソールに頼っていたのである。アルマンは独自開発を指示し、独立した年に発表したタイプ14には初めて自社製のエンジンが搭載された。1645ccの水平対向2気筒エンジンである。

初のヒット作となったのは、1904年に発表されたベベである。赤ちゃんを意味する名を持つのは、ホイールベースがわずか1665mmの小さなオープン2シーターだったからだ。652ccの単気筒エンジンに3段トランスミッションを組み合わせ、40m/h以上のスピードで走ったという。ラック・アンド・ピニオンのステアリングを採用する先進性もあり、初年度だけで400台を販売している。

1904年に誕生した初代「ベベ」ことタイプ69。同年以降、プジョーは1914年に第1次世界大戦がぼっ発するまで、毎年ラインナップを刷新していった。

自動車の時代が到来したことは明らかだった。アルマンが去った後もプジョーでは自転車を作り続けていたが、彼の成功を見て1906年から自動車の製造を始める。混同されないようにリオン・プジョーという名で販売したが、思ったような業績はあげられなかった。1910年にアルマンの会社に合併されることになり、プジョー家が合同して事業を行う運びとなる。

リオン・プジョーの工場はその後も独自モデルの生産を続け、1913年に戦前最大の成功作を生み出す。1904年のクルマと同名のベベである。設計したのは、エットーレ・ブガッティ。ホイールベースは1600mmで、855ccの直列4気筒エンジンを搭載していた。プロペラシャフトを二重構造にし、内外のギアを操作して変速するというユニークな技術を採用していた。2座オープンで最高速度は60km/hだったが、経済性の高さで人気を博す。第1次世界大戦で民生用モデルの生産が中止されるまでに、3095台が生産されている。

プジョーが世界で最初期に企業として自動車生産を始めることができたのは、何世代にもわたって家庭用品の製造を行ってきたからだ。確固とした技術の蓄積を、進取の精神を持つアルマンが花開かせたのである。

1914年に誕生したタイプBP1。ベベ・プジョーの名で親しまれ、1916年までにボーリュー工場で3095台が生産された。

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パナール・エ・ルヴァッソール

ルネ・パナールとエミール・ルヴァッソールが共同経営するパナール・エ・ルヴァッソールは、パリ近郊で家具などの木工や機械製作を行う会社だった。ダイムラーのライセンスを得たルヴァッソールの友人エデュアール・サラザンからの依頼でガソリンエンジンの製造を始めることになる。

ルヴァッソールは優秀なエンジニアで、現代のFR車の元祖ともいうべきシステム・パナールを生み出している。フランスにおける最初期の自動車生産は、パナール・エ・ルヴァッソールとプジョーが競い合って発展していった。

しかし、エミール・ルヴァッソールはレースの事故で負った傷が原因で、1897年にこの世を去る。彼の死後は新技術が投入されることは乏しくなり、徐々に衰退の道をたどった。

第2次大戦後は小型車ディナXで大衆車路線への転身を図る。高い評価を得たが会社は慢性的な経営難で、1955年にシトロエン傘下に入る。1967年に最後のモデルの生産が終わり、名門ブランドは消滅した。

1895年に開催された都市間レース、パリ-ボルドー-パリに、自社のクルマで参戦するエミール・ルヴァッソールと、コ・ドライバーを務めるルネ・パナール。

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パリ-ルーアン

パリの新聞ル・プティ・ジュルナルが主催する1891年の自転車レースに、プジョーのヴィザヴィは伴走車として参加している。全行程約2400kmを無故障で走りきったのを見た新聞主幹のピエール・ジファールは、自動車の時代が来ることを予感した。

1894年7月22日、世界初のモータースポーツイベントが開催された。速さを競うのではなく、旅行者が安全に走行できることをアピールするトライアルである。パリからルーアンまでの126kmを平均10km/hで走ることが想定されていた。

パワーユニットの規定はなく、圧縮空気やゼンマイを動力とするクルマもエントリーされた。実際にスタート地点に立ったのは20台で、ガソリン車14台、蒸気車6台である。ガソリン車のうち7台がプジョー、5台がパナール・エ・ルヴァッソールだった。

真っ先にルーアンのゴールに到着したのは、ド・ディオン伯爵の蒸気車だった。2番目がプジョー、3番目がパナールである。蒸気車は釜炊き係を必要とするので順位が下げられ、簡便なガソリン車のプジョーとパナールが1位を分け合った。

パリ-ルーアンに挑戦した20台の自動車のうち、ガソリンエンジン搭載車は14台。さらに、その半分にあたる7台がプジョーで、残りのうちの5台がパナール・エ・ルヴァッソールだった。

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エットーレ・ブガッティ

ミラノ生まれのエットーレ・ブガッティは早熟の天才技術者で、10代の頃から自動車のエンジンやボディーの設計を行っていた。イタリアのブリネッティ・ストゥッキやフランスのディートリッシュなどで仕事を始めている。

1909年にフランスのアルザス地方で自分の会社を設立する。高性能な高級車を製造していたが、1911年に大衆向けの小型車を試作した。彼はこのモデルの生産権をドイツのヴァンダラーに売却することを考えていた。

レーシングドライバーのフリドリッシュに陸送を依頼したが、彼はなぜかプジョーにクルマを預けて帰ってしまう。プジョーの技術者たちは試作車の完成度の高さを見抜き、すぐさまブガッティに製造権の譲渡をオファーした。

ブガッティはその後グランプリで圧倒的な戦績を残すタイプ35や、13リッター近い排気量のエンジンを搭載する高級車T41ロワイヤルなどの名車を設計している。第2次大戦後は高級車の需要が減って衰退したが、1998年にフォルクスワーゲン傘下に入るとスーパーカーブランドとして復活した。

1929年に誕生したブガッティT41ロワイヤル。ロールス・ロイスやイスパノ・スイザをはるかに超える高級車として計画されたが、世界恐慌の影響もあり、わずか数台がデリバリーされたのみだった。写真は1933年パーク・ウォード製リムジン。

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[ガズー編集部]