<自動車人物伝> プレストン・トーマス・タッカー (1948年)
よくわかる自動車歴史館 第118話
映画に描かれた男と彼の夢
フランシス・フォード・コッポラ監督が8歳の時、彼の父親はカーディーラーに1台のクルマを注文した。しかし、いくら待っても新車は届かなかった。クルマを作るはずだった会社が消滅したからである。“50年先を行く”とまで評された先進的なモデルは、世に出る前に葬り去られてしまった。幼いコッポラにとっても痛恨の出来事だったのだろう。彼は1988年に映画『タッカー』を公開する。「THE MAN AND HIS DREAM」という副題が付けられていた。
THE MANとは、プレストン・トーマス・タッカーのことだ。映画の冒頭で「空想家、発明家、夢追い人、時代の先を行く男」と説明される。革新的な機構とスタイルを持つタッカー'48を引っさげてアメリカの自動車業界に挑戦し、夢破れて去っていった男だ。コッポラ監督は、タッカーの闘いを描くことで、豊かな創造性こそが社会に希望をもたらすことができるというメッセージを送ろうとした。
- プレストン・トーマス・タッカー。1903年ミシガン生まれ。若くして自動車産業を志すようになり、第2次世界大戦後に独自開発の自動車(後のタッカー'48)の生産を発表。53歳で亡くなるまで、新しい事業の構想を考え続けた。(写真提供:Tucker Automobile Club of America)
タッカーが生まれたのは1903年。5年後にはT型フォードが発売される。アメリカでは急速に自動車が普及しつつあった。タッカー少年はハップモビル、パッカード、マーモンなどのニューモデルに熱い視線を送り、いつかは自らの手でクルマを作りたいと意欲を燃やす。13歳から自動車工場で働き始め、さまざまな現場を転々として自動車の製造工程を学んだ。彼は学校で技術を身につけたのではなく、現場で体験して覚えたのである。
ディーラーでセールスマンとして働いた後、タッカーはレースの世界に飛び込む。ハリー・ミラーに出会い、彼のもとでマネジャーとして働き始めた。ミラーはインディ500に9回優勝した実績を持つ当時最高のレースカーデザイナーだったが、チームは経営破綻していた。タッカーが資金を提供し、1935年にミラー&タッカーinc.が設立される。レースカーの設計を行いながら、タッカーは別の事業計画も進めていた。第2次世界大戦にアメリカも参戦することが確実だと考えた彼は、軍用車の開発を急いだ。
- 黎明(れいめい)期のアメリカのモータースポーツを支えた“ヒーロー”たち。ルイ・シボレー(写真向かって左)やデューセンバーグ兄弟(同右の2人)とともに、ハリー・ミラー(同左から2人目)が写っている。
装甲車から新時代の乗用車へ
彼は新型装甲車を軍に売り込もうとした。タッカー・タイガーの愛称で呼ばれるコンバットカーである。パッカードのV12エンジンを搭載し、最高速度は180km/hに達したとされる。テストでは不整地でも120km/hで走ったというから、装甲車としては過剰なスピードだ。軍に採用されなかった理由のひとつは速すぎたことだといわれている。高性能を追求した結果、価格も高くなってしまったのだろう。
タッカー・タイガーの売りは、スピードだけではない。ボディー後部のルーフには、タッカー・タレットと呼ばれる旋回砲塔が備えられていた。砲手は防弾ガラス製のキャノピーの中で37mm機関砲を撃つことができ、モーターで向きを変える。1回転するのにかかる時間は4.6秒だった。この装備は高く評価され、タッカーの会社を買収したヒギンズ社によって航空機や舟艇の砲塔に技術が生かされることになる。
- タッカーが開発した電動式旋回砲塔の“タッカー・タレット”。タッカーは試作の装甲車にこれを搭載したが、実際には主に軍用機や艦艇用の装備として搭載された。(写真提供:Tucker Automobile Club of America)
タッカーの興味はもはや軍用車にはなかった。戦争は早晩終わる。平和な世の中になれば、誰もが美しくて性能のいいクルマを求めるだろう。新時代にふさわしい画期的な自動車を作りたい。タッカーは長年温めていた構想を雑誌の広告として発表する。タイトルはTORPEDO ON WHEELS。車輪の上に乗った魚雷という名の通り、イラストで描かれたのは流線形のファストバックスタイルを持つモデルである。
技術面でも斬新な構想が記されていた。エンジンがリアに搭載されており、FRが当然だと考えていたアメリカのユーザーにとっては衝撃的だった。“ビートル”ことフォルクスワーゲン・タイプ1はまだ知られていない時期である。
- リアエンジン・リア駆動のレイアウトを採用したフォルクスワーゲン・タイプ1(左)とタトラ77(右)。RRのモデルはヨーロッパにはすでに存在したが、アメリカではFRが主流だった。
駆動方式よりもはるかにユニークなのが動力伝達の方法である。ハイドロリック・ドライブと名付けられた機構は左右のホイールに別々のトルクコンバーターを配し、駆動力を別々に伝えるという。トランスミッションやディファレンシャルギアが不要になることで、パーツを800点減らすことができると主張していた。
四輪独立懸架を採用し、フロントはサイクルフェンダーとなっていた。ステアリング操作によってフェンダーの先端に取り付けられたヘッドランプも動くので、夜間のコーナリングが安全になるという触れ込みである。安全性は重要なアピールポイントで、シートベルトが装備され、ダッシュパネルはソフトパッドで覆われていた。フロントウィンドウには脱落式の強化ガラスが使われる。当時の水準では考えられない高度な安全思想が貫かれていた。
51台しか製造されなかったタッカー'48
すべての構想が実現したわけではない。生産型では4ドアセダンになり、サイクルフェンダーは採用されなかった。安定性の確保が難しかったからである。代わりにフロント中央に備えられたサイクロプスアイと呼ばれるランプを動かすことによって、進行方向を照らすことができるようにした。ハイドロリック・ドライブは実用化のレベルには達しておらず、搭載は断念されることになった。
- トヨタ博物館が収蔵するタッカー'48。フロント中央部には、ドライバーのハンドル操作に応じてクルマの進行方向を照らすライトが装備されていた。(写真提供:トヨタ博物館)
エンジンは当初予定されていた9.7リッター水平対向6気筒エンジンが間に合わず、ヘリコプター用の5.5リッター水平対向6気筒エンジンが搭載されることになった。本来は空冷だったが、水冷方式に改造している。理想をそのまま実現できたわけでなくても、200km/h近くの最高速度を持って安全性が高く、流れるようなボディースタイルを持つ新型車は大衆を熱狂させた。
1台も製造されないうちからタッカー'48と名付けられたモデルに注文が殺到した。タッカー自身の資本は乏しかったが、株式を発行して資金を調達した。構想だけで投資家を動かしたのである。タッカー'48を売りたいというディーラーは2000に達し、契約金が開発に投入された。B29を生産していたシカゴの巨大な工場を手に入れ、事業化の体制が整う。1948年になって本格的な生産が開始された。
- ディーラーをはじめとした、販売関係者向けにお披露目されるタッカー'48。(写真提供:Tucker Automobile Club of America)
しかし、思わぬ理由でストップさせられてしまう。証券取引委員会(SEC)の査察が入ったのだ。資金を集めたにもかかわらず一向に販売が始まらないことが問題視され、会計記録を提出するように求められた。疑惑が報道されると株価が暴落し、資金は枯渇する。生産を続けるのは不可能になった。
タッカーには詐欺と証券取引法違反の疑いがかけられ、裁判では合計155年の懲役が求刑された。彼は理想のクルマを実際に作ろうとしていたと主張し、SECに反論する。弁論の応酬の末、彼は無罪を勝ち取った。陪審員はタッカーが本気で未来のクルマをユーザーに提供しようとしたと信じたのだ。
無罪にはなったものの、工場はすでに管財人の手に渡っていた。生産継続は不可能となり、プロトタイプを含めてもわずか51台でタッカー'48の製造は終了した。そのうち47台が動態保存されている。コッポラ監督が2台を保有し、『タッカー』のプロデューサーを務めたジョージ・ルーカスも同じく2台のオーナーだ。
- タッカー'48の生産台数はわずか51台で、このうちの47台が現存している。(写真提供:Tucker Automobile Club of America)
SECによるタッカーの査察には、ビッグスリーの意向が働いていたという説もある。映画でも圧力の存在を前提としたストーリー展開になっていた。ただ、あまりに前のめりになったことで準備不足だったという面も否定できない。技術的にも未完成の部分は多かった。日野コンテッサの開発に携わった鈴木 孝博士は、博物館でタッカー'48を見た時の感想を記している。
「ラジエーターの左右はすけすけで、これではラジエーターを通過した熱い空気が、確実にもう一度ラジエーターの前に回り込んでしまうし、ラジエーターの下にていねいに六つも並べられた排気管からの排気も、また確実にラジエーターから吸い込まれるだろう。エンジンルームから気化器に導かれる空気は、エアクリーナーをたちまち詰まらせてしまうに違いない」(『エンジンのロマン』プレジデント社刊)
- 特徴的なタッカー'48のリアビュー。バンパーの下には左右3本ずつ、計6本のマフラーがのぞいている。(写真提供:トヨタ博物館)
理想は高かったが、製品としての完成度が不十分だったのは確かだろう。しかし、タッカーの果敢な挑戦は、アメリカが持つダイナミズムの原動力になるべき行動だったはずだ。彼が裁判の最終弁論で述べた言葉が残されている。
「大企業が一個人の発想を押しつぶせば、進歩を閉ざすばかりか今までの汗と涙が無駄になってしまう。いつかこの国はどん底に落ちて、旧敵国のドイツや日本からラジオやクルマを買うことになるでしょう。そんなことがあってはならない。私はアメリカ人の健全な良識を信じ、希望を持っています」
関連トピックス
topics 1
映画『タッカー』
フランシス・フォード・コッポラ監督は1972年の『ゴッドファーザー』の大成功で地位を確立する。1979年には『地獄の黙示録』でカンヌ映画祭のパルムドールを獲得した。
しかし、次作の『ワン・フロム・ザ・ハート』は興行的に大失敗し、巨額の借金を抱える。コッポラはこの時も含めて3度の破産を経験しており、夢を追い求めながら挫折を味わった人物に対する共感がある。
『タッカー』は友人でもあるジョージ・ルーカスをプロデューサーに迎えて製作された。主人公を演じたのはジェフ・ブリッジスで、家族を愛する熱血アメリカンヒーローを体現した。
映画はおおむね好評だったが、2300万ドルの製作費を投じて得られた興行収入は2000万ドルに満たなかった。日本ではDVD化されておらず、VHSビデオ版でしか観ることができない。
- 映画『タッカー』には色とりどりのタッカー'48が登場するが、これらはオーナーズクラブの協力によって全米から集められたもの。撮影のため、現存していたほとんどの個体が集結したという。
topics 2
ハリー・ミラー
1875年にウィスコンシン州で生まれたハリー・ミラーは19歳でロサンゼルスに移住すると、メカニックとして働いた経験を生かし、キャブレターの改良に取り組んだ。1909年に特許を取得し、キャブレター事業は拡大していく。
ビジネスで得た資金をもとに、1915年になるとエンジンの製作を手がけるようになった。1921年に作られた3リッターDOHC直列8気筒エンジンは高い評価を受け、計183基が販売されている。
1920年代後半にミラーは全盛期を迎える。インディ500を走るマシンの4分の3以上がミラーのエンジンを搭載していたこともあるという。ミラーは前輪駆動のレーシングカーを設計するなどの野心的な挑戦を続け、数々のスピード記録を樹立した。
ミラーはタッカーと組んで航空機エンジンの開発にも取り組んでいる。1943年に亡くなる直前まで、レーシングカーを作り続けた。1999年に彼はアメリカのモータースポーツ殿堂入りを果たしている。
- ミラーとタッカーが協力して1935年に開発したミラー・フォードV8。インディ500に挑戦するためのレーシングカーで、車名の通りフォードのエンジンを搭載していた。
topics 3
日野コンテッサ
ルノー4CVのライセンス生産で積んだ経験を生かし、日野はオリジナルモデルのコンテッサ900を1961年から販売した。駆動方式は4CVと同じRRを採用している。
サスペンションは4CVとほぼ変わらないもので、エンジンはより排気量の大きい893ccだった。出力向上で問題になるのが冷却である。フロントエンジンに比べ、リアにエンジンを置く方式ではラジエーターの配置が難しい。
コンテッサではメルセデス・ベンツ170Hやルノー4CVと同様にエンジンの前にラジエーターを置いていた。次期モデルのコンテッサ1300では、ラジエーターをボディー後端に移して工場から空気を取り込む方式に変更されている。
冷却がうまくいかないと、キャブレターがパーコレーションを起こす危険がある。コンテッサのエンジンルームレイアウトで苦労した経験を持つ鈴木 孝博士は、タッカー'48の先進性を認めながらも冷却系の欠陥を見逃さなかった。
- 日野にとって初となる自主設計の乗用車コンテッサ(左)と、1964年に登場したコンテッサ1300。ともに駆動レイアウトはRRだった。
【編集協力・素材提供】
(株)webCG http://www.webcg.net/
[ガズー編集部]
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