偉人たちとの思い出 ~ジョルジェット・ジウジアーロ~

彼の名前を初めて知ったのは、小学生のときだった。東京郊外のある街で、七夕祭りの帰りがけに街の書店で見つけた、世界の自動車を紹介した雑誌である。彼は若き天才デザイナーとして紹介されていた。以前からボクが「かっこいいな」と思っていた多くの車が彼の仕事だった。
その名はジョルジェット・ジウジアーロ。
特集の背後に写っているショーカーも、少年時代のボクをシビれさせるに十分だった。

2005年のジュネーブモーターショー会場でのジョルジェット・ジウジアーロ。
2005年のジュネーブモーターショー会場でのジョルジェット・ジウジアーロ。

彼が創造するシャープかつ合理的なデザインの車たちは、その後もボクを魅了し続けた。大学生時代、免許を取って初めての車は、ジウジアーロがデザインしたアウディ80だった。そして社会人になっても、彼の代表作のひとつ、フィアット・ウーノを手に入れた。加えて、イタリアで貧乏暮らしを始め、清水の舞台から飛び降りるつもりで買った最初の車も、ジウジアーロの仕事である初代ランチア・デルタの中古だった。

著者が所有してきた、ジウジアーロが手がけた歴代のモデル。上段がアウディ80、下段左がフィアット・ウーノ、下段右がランチア・デルタ。
著者が所有してきた、ジウジアーロが手がけた歴代のモデル。上段がアウディ80、下段左がフィアット・ウーノ、下段右がランチア・デルタ。

ジョルジェット・ジウジアーロ本人と直接話したのは、今から十数年前のジュネーブモーターショーである。すでに彼は200近い車をデザインし、1999年には世界の自動車ジャーナリストによって「世紀のカーデザイナー」に選ばれていた。十分にビッグネームとなっていた。

七夕の日に買った雑誌の時代から30年近い時が流れ、本人は白髪をたくわえて貫禄を増していた。普段は誰であろうと物おじしない筆者であるが、少々の緊張とともに、本人に話しかけてみた。自身のデザイン会社「イタルデザイン-ジウジアーロ」のブースである。会話の糸口に、彼による3作品に乗っていたことを告げる。すると、「世紀のデザイナー」は、なんといきなりボクの頰をつねった。「うまいことを言いおって」という感じの豪快な笑いをあげながら。車に近い世界に長年身を置いてきた筆者だが、つねられたのは、後にも先にもジウジアーロひとりである。緊張は一気にほぐれた。

ジウジアーロの代表作のひとつで、筆者が持っていたデロリアンDMC12のモデルカーを本人に贈呈したときの写真。2010年のこと。
ジウジアーロの代表作のひとつで、筆者が持っていたデロリアンDMC12のモデルカーを本人に贈呈したときの写真。2010年のこと。

その後も会うたびジウジアーロから飛び出す会話は、仕事における「巨匠」という評価とは別に、実にざっくばらんだった。
そのひとつは、息子のファブリツィオと東京に出張したときのエピソードだ。
「宿泊先の部屋にパーティー用のちょうネクタイを忘れてしまったんだ。半ば諦めていたけど、出発したあとしばらくしてそのホテルに問い合わせてみると『ご安心ください。保管してございます』と即座に教えてくれた。イタリアではありえないよ!」
参考までに彼は日本に対して、特別なリスペクトを常に示す。ある展覧会では、自身が日本流に「おじぎ」をする写真を、順路の最後に立てた。
また、ある会食でのこと。向かいの席に座った筆者に「日本語で私はragazzo delle ore dieciなんだって?」と話しかける。ragazzoは少年、ore dieciは10時である。その心は、10時野郎(ジウジアーロ)だった。誰かが入れ知恵したねたに違いないが、思わず大笑いしてしまった。その場を和やかにする達人である。

筆者がインタビューに赴くと、いつもすらすらとスケッチを描きながら説明をしてくれた。2013年トリノのイタルデザイン-ジウジアーロ本社会議室にて。
筆者がインタビューに赴くと、いつもすらすらとスケッチを描きながら説明をしてくれた。2013年トリノのイタルデザイン-ジウジアーロ本社会議室にて。

そうした彼の性格を、長女で現在夫が経営する豪華ヨット造船所を助けるラウラが分析してくれたことがある。彼女に「父親から学んだことは?」と質問すると、「誰にも分け隔てなく接するセンプリチタ(semplicità イタリア語で純粋さ)」という答えが即座に返ってきた。
ちなみに、筆者はカーデザイナーというと家族さえ犠牲にして日夜仕事に没頭している人をたくさん知っている。しかし、ジウジアーロの場合、超人的な仕事量のかたわらで常にファミリーを大切し、バカンスをきちんととるのも印象的だった。

2010年、彼の会社イタルデザイン-ジウジアーロはフォルクスワーゲン・グループの資本参加を受けた。続いて2015年、ジウジアーロは自身が保有していた残りの株も手放して、完全に自身の会社を後にした。

長女ラウラと。ポルトフィーノで、彼の人物画デッサン&油絵展が催されたときのスナップ。2009年。
長女ラウラと。ポルトフィーノで、彼の人物画デッサン&油絵展が催されたときのスナップ。2009年。

ジウジアーロといえば、こんな問答も覚えている。
「最近若者の間で車離れが起きているが?」というボクの問いに、ジウジアーロは明るい顔で、こう答えたものだ。
「人々にとってコンピューターや携帯電話が、車より重要になっていることは事実。ここ10年の携帯電話の進化を誰が想像できただろうか」そして「私の5歳の孫でさえいじっているよ」と付け加えた。
そして「もし車がデザインできなくなったら、それ以外のものを喜んで手がけるよ」と答えた。

2017年3月、ジュネーブモーターショーにおいて、自身が手がけたショーカー、テックルールズGT96のコックピットに収まるジョルジェット&ファブリツィオ・ジウジアーロ。
2017年3月、ジュネーブモーターショーにおいて、自身が手がけたショーカー、テックルールズGT96のコックピットに収まるジョルジェット&ファブリツィオ・ジウジアーロ。

ジョルジェット・ジウジアーロは今年で79歳。過去にも車の傍らでニコン製カメラからミネラルウオーターのボトルまで、さまざまなプロダクトデザインを手がけてきたイタリア・デザイン界の巨星ゆえ、これからも意外なジャンルで彼の最新作品に出会えるかもしれない。

もちろんクルマに関しても、ジウジアーロは今なお意欲的だ。子息のファブリツィオと設立した新たな会社によるコンセプトカー第1作を2017年3月のジュネーブ自動車ショーで披露した。中国のR&D企業テックルールズ社による委嘱作品である。世紀をまたいでも、自動車界は20世紀最高のカーデザイナーをリタイアさせない。

彼と子息ファブリツィオによる新会社「GFGスタイル」がデザインしたGT96。中国のR&D企業テックルールズにより少量生産が予定されている。
彼と子息ファブリツィオによる新会社「GFGスタイル」がデザインしたGT96。中国のR&D企業テックルールズにより少量生産が予定されている。

(文と写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA)


第119話 SUPER GT――熱狂の市販車バトル (2005年)

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[ガズー編集部]