偉人たちとの思い出 ~フランコ・スバッロ~

スバッロをご存じだろうか。スバルではない、Sbarroである。
世界で1台のモデルを求めるエンスージアストから半世紀にわたり熱い支持を受けてきた、スイスを代表とするカロッツェリアだ。ジュネーブモーターショーには2017年で45回目の参加を記録した。主宰するのはフランコ・スバッロ氏。今回はその類いまれなるカーガイと筆者との出会いを振り返ろう。

コンセプトカー「アウトバウ」の脇に立つフランコ・スバッロ氏。2010年ジュネーブモーターショーにて。
コンセプトカー「アウトバウ」の脇に立つフランコ・スバッロ氏。2010年ジュネーブモーターショーにて。

普通の子供が昆虫図鑑を繰るように、小学生の分際で自動車年鑑をめくっては未知のブランドを見つけて楽しんでいた筆者である。ある日、巨大メーカーがない「スイス」の欄にスバッロの名を発見したときは、新しい蝶を見つけたような喜びを感じたものだ。

そのスバッロ、代表車種として「ピエール・カルダン」なるクルマが紹介されていた。1970年代、カルダンは子供でも知るファッションデザイナーだった。作ったのはフランコ・スバッロという人物らしい。そのページに載っていたのは、たった1枚の白黒写真だった。だが情報が少ないだけに、想像の翼は無限に膨らんだ。

1975年「スタッシュ・ピエールカルダン」。後方に見えるのは、そのベースとなった「スタッシュ」。フランス東部モンベリアールにあるカーデザイン学校「エスペラ・スバッロ」の併設ミュージアムに保存されている。
1975年「スタッシュ・ピエールカルダン」。後方に見えるのは、そのベースとなった「スタッシュ」。フランス東部モンベリアールにあるカーデザイン学校「エスペラ・スバッロ」の併設ミュージアムに保存されている。

時は流れて2003年、イタリアに住んで7年目の筆者は初めてスイス・ジュネーブのモーターショーに赴くことにした。仕事のあてはなかったが一度は見てみたいと思い、クルマを走らせた。 モンブランを越えて着いた会場はにぎわっていたが、一般日ゆえメーカーの首脳陣は誰もいない。にもかかわらず、あるブースでのことである。白髪の紳士がブースに来場した若者相手に熱く展示車を説明していた。パビリオンの天井からつり下げられたブランド名を見上げると、Sbarroと記されていた。二十数年前に知った、あの「ピエール・カルダン」のスバッロだった。
例の紳士に声をかけてみると、紳士は「私がフランコ・スバッロです」とにこやかな笑顔とともに答えてくれた。

翌年も、またその翌年もスバッロのブースはあった。
ちなみにジュネーブショーは、「われこそは」と自慢の作品を持ち込んで参加するカロッツェリアや新興メーカーが世界のモーターショーのなかでも際立って多い。ただし生き残るのはごくわずかだ。

その後縁があって、スバッロ氏の工房を訪ねる機会に何度か恵まれ、彼の口から自身のストーリーを聞く幸運を得た。
フランコ・スバッロは1939年、南イタリアのプーリアに生まれた。長靴型半島の“かかと”にあたる州である。息が詰まるような小さな村で、学校は唯一広い世界を知ることができる場所だったという。放課後には父親のバイクに自前のカウルを板金製作して取り付けたり、チューニングを施したりしてはテストランを楽しんだ。

2005年夏、スイスのヌーシャテルにあるフランコ・スバッロ氏の自宅にて。左からフランソワーズ夫人、筆者、スバッロ氏そして筆者の妻。
2005年夏、スイスのヌーシャテルにあるフランコ・スバッロ氏の自宅にて。左からフランソワーズ夫人、筆者、スバッロ氏そして筆者の妻。

高校を卒業すると、当時多くの南部イタリア人と同様、彼も豊かな国スイスで職を探すことにした。幸いヌーシャテルの自動車修理工場にメカニックの仕事を得ることができた。
ところが国境に来た時点で、フランコは止められてしまった。「劣悪なイタリア郵便事情のおかげで、スイス入国に必要な雇用主の採用証明の期限が切れていたのです」。結局、国境通過に数日を要した。

スイスで自動車修理工として働き始めたフランコは数年後、ある客から地元の城主を紹介してもらえた。
その城主とはプライベートチームでル・マン24時間レースなどに参加していたジョルジュ・フィリッピネッティだった。かくしてフランコはチームでチーフメカニックとして働くことになった。だが1964年ル・マンからの帰途、大事故に遭ってしまう。加えて翌年、チームのレーサーが死亡するという事件に遭遇したこともあって、彼の興味はレースからカスタムボディー製造へと変わっていった。
そして、フィリッピネッティの援助も得て、スバッロ氏は自らのカロッツェリア「A.C.A.スバッロ」を発足させた。29歳の年だった。

ところで、例の「ピエール・カルダン」は、どうして誕生したのだろう。スバッロ氏に質問すると、彼はこう教えてくれた。
「きっかけは、スタニスラス・クロソウスキという顧客でした。フランス人画家バルテゥスの長男である彼が、カルダンを紹介してくれたのです」

当時ピエール・カルダン本人がディレクションを行った「スタッシュ・ピエールカルダン」の内装。
当時ピエール・カルダン本人がディレクションを行った「スタッシュ・ピエールカルダン」の内装。

当時カルダンは、フランス・ファッション界のリーダーとして、飛ぶ鳥も落とすような勢いで、さまざまな分野にチャレンジしていた。
スバッロ・スタッシュ・ピエール・カルダンは1975年のパリサロンで公開された。「前年に大統領に就任したジスカール・デスタンも観にやってきました。大統領は歌手のシルヴィ・ヴァルタンを同伴していました」。

その後も中空で向こうが見渡せるホイール、前後に1輪ずつ(前は電気モーター、後ろはガソリンエンジン駆動)、中央部に4輪という変則六輪車など、毎年ユニークなクルマをジュネーブで披露し話題を提供し続けた。そのかたわらで、欧州や北アフリカ、中東の実業家や王侯貴族のために流麗なカスタムカーを提供し続けた。
「スイスでも差別がなかったわけではない。でも私のようなイタリア南部出身者が同じイタリアのミラノなどで働いても芽は出なかったでしょう。スイスは私の望んだ幸せを受け入れてくれたのです」と、スバッロ氏は筆者に語る。

スバッロが考案したハブなしホイール(左)と、サウジアラビア人実業家の依頼で製作した1985年「チャンレンジ」(右)。チャンレンジには、後方視認にカメラをいち早く採用していた。
スバッロが考案したハブなしホイール(左)と、サウジアラビア人実業家の依頼で製作した1985年「チャンレンジ」(右)。チャンレンジには、後方視認にカメラをいち早く採用していた。

ジュネーブ出展を重ねるうち、多くの若者たちがスバッロ氏に会場や手紙で弟子入りを打診するようになった。そこで彼はフランソワーズ夫人とともに1992年、自動車製作学校「エスペラ・スバッロ」を創設した。当初の校舎は古い時計工場の建物を使ったが、現在はフランスのモンベリアールで運営されている。コースは1年制で、学生にはカーデザインだけでなく、板金・溶接をはじめとする手を使ったクルマ造りを実践させている。
「毎年3月のジュネーブショーでは、各自ポートフォリオを抱え自動車メーカーやサプライヤーのスタンドをまわって就職活動をする。これも単位のひとつです」

続く6月は卒業式。学生たちは1年かけて製作したクルマに仲間やガールフレンドを乗せてテストドライブする。筆者も立ち会わせてもらったことがあったが、学生たちから「乗れよ、乗れよ」と次々に誘われた。

プジョーの生産拠点にも近いフランス東部モンベリアールに校舎をもつカーデザイン学校「エスペラ・スバッロ」にて。卒業式のプログラムには、製作した車両のテストランも含まれている。右は卒業証書を手渡すスバッロ氏。
プジョーの生産拠点にも近いフランス東部モンベリアールに校舎をもつカーデザイン学校「エスペラ・スバッロ」にて。卒業式のプログラムには、製作した車両のテストランも含まれている。右は卒業証書を手渡すスバッロ氏。

そうした光景を見て、スバッロ氏は筆者にこう語った。
「みんなで走る。時にはコースアウトする」。そのようなことを聞いている端から、本当に曲がり切れずパイロンをなぎ倒す若者が現れた。それでもスバッロ氏は眼鏡の奥の目を細めてうれしそうに眺めている。
テストランが終わると、多くの学生がサインを求めて、スバッロ氏を囲んだ。

スバッロ氏は今年で78歳。故郷イタリアを離れて60年が過ぎた。人々がバカンスを楽しんでいる時期に筆者がイタリアから電話をかけても、必ず工房にいる。聞けば「私は夏休みをとったことがありません」という。
クルマへのパッションをエネルギーにしてきた人生のエンジンは、今日もたゆみなく回り続けている。

出展45年目を迎えた2017年の3月のジュネーブショーにて。タンデム3人乗りのコンセプトカー「トラクトスフィア」を、ブース来場者に説明するスバッロ氏(右)。
出展45年目を迎えた2017年の3月のジュネーブショーにて。タンデム3人乗りのコンセプトカー「トラクトスフィア」を、ブース来場者に説明するスバッロ氏(右)。

(文と写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA)

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[ガズ―編集部]