偉人たちとの思い出 ~レオナルド・フィオラヴァンティ~

365デイトナ、ベルリネッタボクサー、308GTB/GTS、288GTO、テスタロッサ、そしてF40……こうしたモデルに憧れてフェラーリのファンになった人は少なくないだろう。
デザインを手がけたのは、レオナルド・フィオラヴァンティである。

燃料電池車をイメージした2007年のコンセプトカー「ターリア」とレオナルド・フィオラヴァンティ氏。リアシート下に水素タンクを設置。座面を上げ、かつボディー後半のルーフを上げることにより、後席乗員も快適なクルマを目指した。

フィオラヴァンティ氏は1938年生まれ。ミラノ工科大学を卒業後、イタリアを代表するカーデザイン会社「ピニンファリーナ」に入社した。23年にわたる在籍中、30ものフェラーリの開発に携わり、グループの核であった研究開発会社「ピニンファリーナ・ストゥーディ・エ・リチェルケ」の社長も務めた。1987年に自身のスタジオを立ち上げたあとも、翌1988年から1991年までフェラーリおよびフィアット・デザインセンターで要職にあたった。

現在彼の顧客リストには、数々のメーカーが連なる。レクサスLF-Aや2012/2013年中国BAICのデザインも彼が関与した。また、2005年フェラーリ・スーパーアメリカの回転式オープントップや、ランチアに採用されている女性のマニキュアを傷つけにくいドアハンドルなど、取得した特許は優に35件を数える。

フィオラヴァンティ氏のスタジオは、2009年まで毎年ジュネーブモーターショーに出展していた。
初めて彼のスタンドを訪問したとき「まずは秘書らしき人に声をかけるのが筋か?」などと思いあぐねながらスタンド内をうろうろしていると、フィオラヴァンティ氏本人が話しかけてきてくれた。さらに彼は、一緒に働くふたりの息子も紹介してくれた。トリノ工科大学の建築学科を卒業したマッテオはデザイン&エンジニアリング部長、法学部出身のルカは法務と広報の担当だ。かくして、その日は初対面もかかわらず、親子3人で熱心に最新作品を説明してくれた。

右からレオナルド・フィオラヴァンティ氏と長男マッテオ、そして次男のルカ。メカニズム的に複雑になりすぎたF1マシンへのアンチテーゼとして提案した「LF1」と。2009年ジュネーブモーターショーで。

以来ボクは、ジュネーブショーでは必ずフィオラヴァンティ氏のブースに足を運ぶようになった。
ワイパーを取り払う代わりに、整流した空気などで雨を吹き飛ばすコンセプトカー「ハイドラ」を展示したときは「若い頃ラリーに出場していて、ワイパーが故障して怖い思いをしたからです」と、フィオラヴァンティ氏は発想の原点を楽しげに説明してくれた。いっぽう、パイプの代わりにプレスでフレームを作る自転車は「新興国向けで、より生産効率の高いものです」と解説してくれた。
ボクがそうした作品を見学するときの心境は、モーターショーのスタンド訪問というよりも、SF映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、科学者ドクの研究室を訪れるマイケル・J・フォックス演じる青年マーティに似ていた。

左は2006年ジュネーブショーに出展された、フレームのプレス加工により製造工程の簡略化とコスト低減を図るコンセプト自転車「チクレオ」。右は空気の整流などを用いてワイパー不要を実現したコンセプトカー「ハイドラ」を公開した2008年の写真で、筆者のむちゃなお願いにもかかわらず、こんなパフォーマンスも快く引き受けてくれた。

その後、縁あってボクは、トリノ郊外モンカリエリにある13世紀の館を用いた本社や、それとは別に建てられたプレゼンテーション用のショールームを何度か訪れた。そこではフィオラヴァンティ氏本人の口から、慌ただしいショー会場では不可能な、数々の思い出話を聞くことができた。

ピニンファリーナとの縁は大学時代、空気力学の研究をもとに描いたカーデザインだった。「中退してでも、すぐに働きたかった。しかしピニンファリーナに『大学に残りなさい。いつか幹部にしてあげるから』と言われて思いとどまりました」と回想する。そのときのアイデアは、BMC1800ベルリーナ・アエロディナミカとして1967年トリノモーターショーで公開された。「夢が現実になることはあるのだと感激したものです」

フィオラヴァンティ氏と筆者。2015年春のもの。

デイトナ誕生秘話も聞かせてもらった。
1960年代中盤、フェラーリはフロントエンジン車の275GTBおよびGTB/4の評判が今ひとつだった。世界のスポーツカーのすう勢はミドシップへと動いていた。「このままでフロントエンジン・フェラーリの灯を絶やすのは、なんとも惜しかった。そう考えた私は、図面上に275GTB/4の要改良点を挙げるとともに、理想のデザインを土日返上して10日で描き上げたのです」
誰からも頼まれず勝手に始めた仕事だった。「しかし会社で見せると『捨てるのは惜しい』ということになりました。さらに(フェラーリ創業者)エンツォ・フェラーリにプレゼンテーションしたところ、即座に実寸モデルへのゴーサインを出してくれたのです」

だが、障害が立ちはだかった。リトラクタブル式よりも空力性に優れた、ボディーと一体となった形状のプレキシガラス製ヘッドライトカバーだった。保安基準のエキスパートが「こんなものは実現不可能だ」と言い放った。
「大学で光学もかじった私です。絶対できると意気込みました。どんなにカバーの表面が傾斜していても、フィラメントからの光は、ある1点で正しい方向に向かう。実際に模型を作ると、そのとおりとなりました」 かくして、デイトナのアイコンのひとつである、あの流麗なヘッドランプは誕生した。
その後もエンツォとは仕事の枠を超えた深い信頼関係を構築したことで、多くのフェラーリがフィオラヴァンティ氏の手に委ねられることになった。

“デイトナ”ことフェラーリ365GTB/4。フロントに4.4リッターV12エンジンを搭載した高性能スポーツカーで、前期型は本文にもある固定式の、後期型はリトラクタブル式のヘッドライトが装備された。写真は2008年のヒストリックカーイベントのもの。(写真提供:Ferrari SpA)

カーデザインにあたり、スタッフに実践させていることは「手で描くこと」だという。
「今日、コンピューターの力なくして自動車の設計は不可能です。しかし最初のワンステップは必ず手でスケッチすること。脳内のイメージの代弁者として、人間の腕と手を超えるものはあり得ないのです」

こんな問答をフィオラヴァンティ氏と交わしたこともあった。スーパースポーツの美しさとは? すると彼は、まずはこう答えてほほえんだ。
「プラトンが言ったでしょう? 『美とは真理の輝きである』とね!」
その心は?
「数値目標に向かって開発するレースカーと違い、スポーツカーに大切なのは感動です。高い品質、優美さとともに、エモーションを探求することが必要なのです」
欧州屈指のヒストリックカーショーを訪れると、今もフィオラヴァンティ作品はタイムレスな魅力を放っている。まさに本人言うところの真理の輝きだ。

トリノ郊外のプレゼンテーション用ショールームで。「最初のワンステップは必ず手でスケッチすることが大切」と説くフィオラヴァンティ氏。

和やかな思い出も少なくない。再びジュネーブショー出展時代のことだ。
フィオラヴァンティ氏がトスカーナの名物菓子「カントゥッチ」の話を何度もするので、ある年にわが女房が名物菓子を自作して、それを食べるときの定番ワインとともに持参した。フィオラヴァンティ氏は大変喜び「祖父は、あなたが住むのと同じトスカーナの出身でした」と愛好する理由を明かしてくれた。
またあるときは「私はオープンカーが大好きです」と教えてくれた。「新婚旅行もフィアット1500スパイダーで行ったくらいですから」。
ただし「少し前のこと。雨の中フルオープンでアウトストラーダ(高速道路)を走っていたら、隣に座っていた家内から『あなた、何考えてるの ! 』と、こっぴどくしかられた」そうだ。

さらに、フィオラヴァンティ氏といえば忘れられぬ光景がある。トリノで毎年冬に行われるヒストリックカーイベント「アウトモトレトロ」でのことだ。イタリア車の都らしく、その日も多くの一般来場者が券売所の前に列を作っていた。
気がつけば、一般来場者に交じって、フィオラヴァンティ氏も並んでいるではないか。主催者にひとこと伝えておけばVIP待遇間違いなしにもかかわらず、である。
ボクが主催者を探し当てられればよかったのだが、会場のどこにいるかわからない。そんなボクをよそに、フィオラヴァンティ氏はといえば、後にやってきた地元の知人と楽しげに会話をしながら依然順番待ちをしていた。なんというつつましさよ。そして会場に入ると自動車関連の書籍を熱心に物色していた。

歴史的なスーパースポーツカーを創造した人物は、かくも理知的で穏やかなのである。

1994年に発表したハイブリッドカーのコンセプトモデル「センシーヴァ」と、フィオラヴァンティ氏。

(文と写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA)

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[ガズ―編集部]