自分の常識は他人の非常識…TBS安東弘樹アナウンサー連載コラム

突然ですが、問題です。

ハンドル フロントガラス ボンネット アクセル クラクション
バックミラー バックギア サイドブレーキ サイドミラー ウィンカー

日本で使われる、上記の10の言葉のうち、いくつがアメリカで通じない言葉でしょうか?


正解は…


全部です!

幾つかの言葉はイギリスでは使いますが、それでも殆どが英語圏では通じません。日本では誰が、いつから、こう呼んだのかは分かりませんが、いつの間にか和製英語として定着した様です。

ちなみに、アメリカでは順番に
(steering wheel)(wind shield)(hood)(gas pedal)(horn)
(rear view mirror)(reverse gear)(hand brake)(wing mirror)(turn signal)と言います。

それぞれ、他の言い方もありますが(例えばウィンカーは、他にblinkerとも)少なくとも、アメリカで最初に挙げた10の言葉を使っても…?? という顔をされてしまうのは間違いありません。

唯、ほとんどの日本人は英語だと思って違和感なく使っているのではないでしょうか?自分にとっての常識が他人(英語圏の人)にとっての非常識だと知らずに、です。

他にも、ガソリンエンジンとディーゼルエンジン、どちらがCO2の排出が少ないと思いますか?
と私の周りの、かなりの数の人(クルマ好きの友人を除く)に訊きましたが、全員が「ガソリンエンジン」と答えました。

以前も書きましたが、有害な微粒子、窒素化合物等はディーゼルエンジンの方が多いのは確かですが、熱効率が高く、燃費が良いディーゼルエンジンの方がCO2の排出は少ない、というのが正解です。つくづく、固定観念というのは恐ろしいと思います。

特に我々日本人は、一度持った常識(固定観念)を変えるのが苦手で、上から伝えられる常識に対して、あまり深く考えずに受け入れる、という特徴がある様です。
小さい島国の中で自分が帰属する組織や集団で上手くやっていくには、そういう特徴を持っていた方が、楽に生きていける、という側面もあるのかもしれません。

ちなみに、私は幼少の頃から今まで、あらゆる物事に対して疑問を持ち、またその疑問が解消しないと気持ちが悪いという性質を持っています(ちょっと自分でも面倒くさいです)。

最初の疑問は勿論、「クルマは、どうして走るのだろう」でした。実は、最初に私が出した結論は「排気管(マフラー)から何か煙の様なものが出ているので、その勢いでクルマが押し出されているのだろう」でした(笑)。 しかし、父親に訊いた所、どうやらそれは違っていた様で、何やらエンジンという物がタイヤを動かして走らせているのだと教わり、何となく理解をしました。

他にも電気は何故、明るいのか、テレビは何故、映るのか。皆さんも、子供の頃は疑問を感じていたのではないでしょうか?でも、多くの人は大人になると、その様な疑問を持たなくなる様です。

今、このコラムを読んで下さっている方で、冷蔵庫やエアコンは、何故空気を冷やす事が出来るのか、パソコンやスマホは何であの様に様々な事が魔法の様に出来るのか、また、国会は何故、衆議院と参議院が有るのか。今の日本語は、いつ頃から使われていたのか。これらの疑問に答えられる方は、どれ位いらっしゃるでしょうか?

では答えられない方の中で、どれ位の割合の方が、普段その事について疑問を感じた事があるでしょうか?

皆さん、如何ですか?

意外と普段使っている道具や物事に関して、何も考えずに使っている(受け入れている)事に驚きませんか?

私は事ある毎に、このコラムでも、「生命を乗せている、クルマについて少しでも知識を持って欲しい」と伝えて来ました。唯、先程も申し上げましたが、私自身は、クルマだけではなく、何事に対しても、理解しないで使う(受け入れる)、という事に対して抵抗があるのです。
 「それは、そういうもんだ」とか「こういうものだ」という言葉は一切、受け入れられません(笑)。政治や経済、歴史、身近な所では、会社の規則や方向性に対しても、疑問が生じたら、とにかく調べますし、納得しようともがきます。

歴史で言えば、18世紀以前の出来事について学校等で習った事の半分位は未だに半信半疑です。完全な記録が無い時代の歴史に関しては、これはこうだった、と教えられても、思わず「見たんか?!」と突っ込みを入れたくなります(笑)。

一度、疑問が極まって、自分やこの世の存在すら確信出来ず、夜中に不安になり、助けを求めて家に有った本を片っ端から手に取り、その中でたまたま見つけた本に載っていたデカルトの「我思う、故に我有り」という言葉に救われて、自分の存在に対しての確信は持てた、という事が有りました…。

我ながら「行き過ぎ」と、ちょっと笑えました。

こういう弊害も有るので?何でも疑問を持つべき、とは言いませんが、様々な事について、一度立ち止まって、これは、こうで良いのだろうか?と再考してみるのは大切な事だと私は考えます。

良くも悪くも世の中がグローバル化していく今後、日本での常識が世界では非常識、という事を知っておくだけでも視野が広がる事で、対応もしやすくなるのではないでしょうか。

前回のコラムで相互理解が平和に繫がると申し上げましたが、「相手を理解する」という行為に加えて、ある意味、逆になるかもしれませんが「自分の常識が相手にとっての非常識かもしれない」という、自己解析も必要なのだと思います。

日本人にとって、教育と言えば「知識を授けて貰う」という事が殆どで「物事について話し合う」という教育を殆ど受けていません。

本当は、そんな話し合いを通じて生徒同士や、もしかしたら、先生が生徒から新たな常識に気付かされたり、視野の広さや、人に対しての寛容さも身に付いたりするのだと思うのですが、現状は残念です。

ですから、日本人は地理的な要因と教育の特徴から、よほど、一人一人が意識して立ち止まらないと全員が誤った方向に流れて行ってしまう怖さも感じます。

今回は、話が随分と大きくなってしまいましたが、皆さん、クルマの用語だけではなく、様々な事に疑問を感じて、今一度、自分の常識を疑ってみませんか?

自分のクルマ感や、もしかしたら人生の幅も拡がるかもしれませんよ…

安東 弘樹

[ガズー編集部]