文化財としてのクルマ …TBS安東弘樹アナウンサー連載コラム

先日、「フレンチ・ブルー・ミーティング」というイベントに行って参りました。

このイベントは“フレンチ”つまりフランス車のイベントで、今年で30周年を迎える、フランス車のファンであれば知らない人はいない、というイベントです。元々はシトロエンオーナーが数十人規模で始めたそうですが、今やフランス車系、最大のイベントで、且つフランス大使館が後援する程の格式のある?イベントになっているというから驚きです。

クルマ好きとして、以前から気にはなっていたのですが、フランス車は15年程前に一台所有した事があるだけなので、気後れもあって(笑)中々行く機会がなかったのですが、思わぬ事がきっかけで、参加が実現しました。

実は私が毎週金曜日に担当している生放送のラジオ番組のリスナーさんが、かつて、このイベントの事務局長をしていた方で、わざわざ招待状を送って下さったのです。その招待状を持って、会場である車山高原に向かうと、道中の中央自動車道で、既に数多くの新旧のフランス車が、同じ方向に走っています。

それを見ていて、つくづくフランスの車は目を惹くな、と思いました。理屈なしに美しいか、と聞かれれば、即座に肯定出来ないクルマも多いのですが、でも、思わず振り向いてしまうクルマが多いのです。

そんな事を考えながら、自宅から2時間半程で会場の車山高原に着きました。会場はおよそ3000台のフランス車で埋め尽くされており、プジョー、シトロエン、ルノーを中心に、既に無くなってしまったブランドの車まで、百花繚乱という言葉が相応しい光景でした。唯、例えば大きめの同じ車がズラッと並んでいても、何と言うか、圧倒される様な気持ちにはなりません。

そう、人目を惹くデザインでありながら、決して人を威圧する様な造形ではないのです。ですから、どこを見ても、思わず微笑んでしまう様な形のクルマばかりです。

マニア垂涎のルノー21(ネットで調べてみて下さい)の様な四角いクルマでも、お馴染みシトロエン2CVの様な丸いクルマでも、同DSの様なアバンギャルドな形のクルマでも、決して人に不快感を与えない。

フランス車のそんな特徴を実感しました。 特に最近の日本のクルマの“顔”が、前を走っているクルマを威圧する様なデザインの物が増えているのが気になっていた私にとって、改めて考えさせられる、きっかけにもなりました。

はっきり申し上げると、最近、大きなショッピングモールにズラッと並んでいる日本のクルマを見ると、殆どの車が、大きな箱に怖い顔が付いているものばかりで、クルマの正面の方向から、その列に向かって歩いて行くと、脅されている様な嫌な気分になる事があります。

日本のメーカーはマーケティングに基づいて、その様なクルマを造っているのでしょうが、私、個人としては、あまり好きになれません。フランスの乗用車には、日本の所謂ミニバンと言われる、スライドドアの付いた箱の様なクルマは殆ど有りません。スライドドアのクルマが無い訳ではないのですが、商用車として使われる事が前提で、乗用車としてはメジャーとは言えません。

何故、便利なスライドドアで空間効率が良い箱型のクルマが無いのか…。

答えは簡単です。彼の地の人達は、その様な形をクルマに求めないからです。ヨーロッパ、特にフランスやイタリア等のラテンの人達にとって、クルマは、勿論、道具です。ある意味では日本人以上に、道具として使い倒します。それを示すように、今の主要フランスメーカーのクルマには、派手なスーパーカーも有りませんし、超高速で走れるスポーツカーも有りません。基本的に全て実用車です。だからこそ、彼らにとっては毎日、生活を共にするパートナーでもあるのです。

人間はパートナーを選ぶ際に、効率や使い勝手だけでは選ばないものです。一緒にいて、心地良いかどうか、長く付き合えるか、そして何より楽しい気持ちになるか、その前提が有っての道具として彼らはクルマを選ぶようです。ですから、今もフランスの車を見ると、道具としての利便性も追求しながら、パートナーとして選ばれる様な工夫やデザインが随所に見られます。

ましてや人を威圧する様なデザインには、なり得ません。だからこそ、そんなフランスのクルマが沢山並んでいると、笑みがこぼれてしまうのだと思います。道具として使い倒すのに、利便性だけを求めないフランスと、クルマに名前を付けたりピカピカに磨くのに利便性を第一に考えて車を選ぶ日本。それが、そのまま造られるクルマに反映されているのだと思いますが、やはり、クルマという道具も文化の一部として考えられているか否かの違いなのかもしれません。

またヨーロッパでは、街を走り回る車も“都市景観”の一部だと考えられているそうです。日本にはあまり無い感覚でしょう。

ちなみにTOYOTAの豊田社長は「クルマというのは、“愛”が付けられる唯一の耐久消費財である」とおっしゃっています。すなわち“愛車”とは言うが“愛冷蔵庫”とか“愛テレビ”等、家電には“愛”という枕詞は付けないので、クルマというのは、それだけ特別な存在である。だから、文字通り愛されるクルマを造りたいという意味だと私は理解しています。

これには私も大きく同意しますし、世界で一、二を争うクルマメーカーのトップの方から、この様な言葉が出てくる事を頼もしく嬉しく思います。しかし現状、日本の道には軽自動車も含めて“愛”が付かない冷蔵庫の様な形と色(白や黒ばかり)のクルマが溢れていて、無機質と言われる日本の都市景観の一助を担っていると言わざるを得ません。

しかも顔だけ、何とか個性を出そうとする為か、やたらと攻撃的な形になるので、町中、怖い顔のクルマが増えているのが更に残念です。勿論、今の日本のクルマにも美点は沢山有ります。壊れない、燃費も悪くない、室内には細かい配慮も満載だし、その割には安価である。唯、そこに存在するだけで人を笑顔にする、走っているだけで街を彩る、といった文化の一部としての役割を果たせているクルマは残念ながら殆ど見受けられません。

私の経験を一つ、紹介させて頂きます。

私が、つい先日まで所有していたイタリアの黄色いコンパクトカーは、頻繁に交差点で幼児達に指を指され喝采を浴び、駐車場では若いカップルに、「(女性)あ、あれ可愛い!(男性)あれ欲しいんだよな」等と言われたりしていました。(本当に誇らしい気持ちになります)

特に奇抜なデザインではないのに、何故か人を惹きつける様です。

ところが、ある事情があって、私が、お世話になっているスタイリストさんが所有する、所謂“カワイイ系”の日本の軽自動車に1ヶ月ほど毎日の様に乗っていた時期があるのですが、残念ながら一度も、振り返られた事すらありませんでした。

この差の理由は、こうだと私は思います。私が一時期乗っていた軽自動車の方は、個々のパーツが、やたらと丸くて「若い女性は、こういうのを可愛いと思うんですよね?」というコンセプトで造られているのが手に取るように分かりました。一方のイタリアのコンパクトカーの方は、誰が乗っても楽しく、誰が見ても微笑ましく、勿論、大人の男性が乗っても誇らしく思える様に、魂を込めて、デザインしたのだな、と私には感じられました。それこそ、クルマを後世まで残す文化財として造るか、単なる耐久消費財として造るかの違いが、見ている人に伝わるのではないでしょうか。

ちなみに、トリノで行われた、そのコンパクトカーの発表セレモニーは、大手テレビ局で全国に生中継され、さらに、そのクルマは当時の大統領に献上されたそうです。日本では考えられない事ですが、ヨーロッパの人達にとって、クルマという物が、如何に特別な存在であるかが良く分かるエピソードです。良し悪しでは語れない事ではありますが、クルマを、こよなく愛している私から見ると本当に羨ましい環境です。

日本でも基幹産業である自動車が、産業であると同時に文化の粋まで昇華した時、“愛”が付くに相応しい、そこに有るだけで人を魅了し、笑顔にする事が出来るクルマが誕生するのではないかと考えるのは少し飛躍しすぎでしょうか?

付け加えると、かつて、スライドドアのミニバンが絶対に良いと言っていた私の家族も、最近は、私が現在所有しているヒンジドアのクルマの佇まいや内装の雰囲気を、すっかり気に入ってくれています。利便性を超える魅力があれば、クルマは人を幸せに出来るという事を、改めて教えてくれた“フレンチ・ブルー・ミーティング”でした。

この場を借りて、今回、ご招待して下さったH様に改めて感謝を申し上げたいと思います。

安東 弘樹

[ガズ―編集部]