世界最大級のカスタムカーイベント『東京オートサロン』を創った男たち

2017年1月の開催をもって、前身となる東京エキサイティングカーショーから数えると35周年を迎えた東京オートサロン。出展会社数は450社を超え、出展された車両も850台。開催3日間における総動員数が3年連続で32万人を超えという、名実ともに世界でも有数のカスタムカーショーとなった。
そんな東京オートサロンを立ち上げ、成長させてきた2人のキーマンがここにいる。まずは自動車雑誌「OPTION」を立ち上げ、さらに東京エキサイティングカーショーの発起人でもある稲田大二郎さん。そして、もうひとりが第1回目開催前の準備段階から事務局内のスタッフとして参加し、1996年から2015年にかけては事務局長を務めてきた榎本文昭さん。最近では東京オートサロンで会うくらいというお2人だが、今回は特別に集まって頂き東京オートサロンにまつわるいろいろなお話を伺うことができた。

チューニング&カスタムカーを日の当たる場所へ

三栄書房が発行しているモータスポーツ誌「オートスポーツ」の別冊として、1981年に誕生したのが自動車雑誌「OPTION」。あくまで自動車雑誌ではあるが、その内容は当時ご法度とされていたチューニング&カスタムを中心としたものだった。そんな内容だったゆえに批判を受けることも多かったが、同時に若者を中心としたクルマ好きから大きな支持を集めていたのも事実だった。
そんな雑誌の誕生から1年ちょっとが経ち、OPTIONを率いていた稲田大二郎はチューニング&カスタムカーをアンダーグラウンドの世界から日の当たる場所へと引っ張り出したいと考え、そこで思いついたのがカーショーの開催だった。それも、日本のど真ん中、首都東京で開催することを考えついたそうだ。

『カーショーの開催を思いついたのは良いんだけど、そんなのひとりでできるものじゃない。そこで、OPTIONの発行元である三栄書房の鈴木脩己前社長(現S&Nホールディングス会長)に相談に行ったら「面白そうだからやろう」と話しはすぐに決まった。名称は東京エキサイティングカーショー、会場は晴海にあった東京国際見本市会場に狙いを定めた。ところが、さっそく会場の予約に行ってみると、これから押さえられるのは1月の第2週しかないって言うんだよ。正月早々なんて出展社も、お客さんも、あつまるのか不安だったけど、開催を1年先延ばしにはしたくなかったから強行しようってことになったんだ』(稲田さん)
みなさんもご存知の通り、現在でも東京オートサロンは1月第2週の週末に行なわれるのが恒例となっているが、その理由はその日程しか空いていなかったという第1回開催からの名残りなのである。

とりあえず会場のスケジュールを押さえてみたものの、開催までに残された時間は半年くらいしかない。そこで稲田さんが雑誌制作を通じて交流ができたチューニング&カスタムカーを扱うショップや、アフターマーケットのパーツメーカーに声を掛けて参加を募る。それと並行して限られた人数で設立された事務局では、榎本さんらスタッフがタイヤメーカーを中心とした企業への参加依頼や自治体や関係各所との調整や交渉などを行うことになったのだが、前例がまったくないカーショー、それもチューニング&カスタムカーを展示するとあって大きなメーカーからは『それって暴走族の集まりでしょ?』となかなか相手にしてもらえないこともあったという。
それどころか、稲田さんが声を掛けたチューニングショップからも『良くわからないから断るよ』と出展を断られることも多かったそうだが、どうにか「チューニング&カスタムカーに市民権を」という主旨に賛同してくれたショップで会場を埋められるめどが立ち、ホッと胸をなで降ろしたそうだ。

1983年に開催された第1回『東京エキサイティングカーショー』。会場は晴海にあった東京国際見本市会場のドーム館(東館)。東京モーターショーとおなじ場所で、異端視されていたチューニングカーのショーが開催されるのは異例のことだったが、80社以上の出展社が名を連ね、来場者10万人を超える盛況ぶりにイベント開催後のOPTION誌には『改造文化元年』と記されている

手作り感満載のショーながら、大きな反響を集める

そうしてどうにか開催にこぎつけた第1回東京エキサイティングカーショー。会場内はほとんどがコンクリートの床のまま、展示されている車両のまわりもチェーンで囲んでいるだけというシンプルなものだったが、普段はあまり目にすることのないチューニングカーやカスタムカーを目の当たりにした来場者からの評判は上々だった。 『意外だったのが、予想に反して来場者は普通のクルマ好きがほとんどだったということ。心配されていた暴走族風の人間はほとんどいなかった。よし、これならイケるということになり、すぐに第2回の開催が決定したんだよな』(稲田さん)
その後、第3回、第4回と順調に開催を重ねるにつれ、規模はどんどん拡大。第5回(1987年)からは現在と同じ『東京オートサロン』へと名称が変更された。

『最初は国際見本市会場の中にあったドーム館という1つの建物だけを借りていたんですけど、回数を重ねるごとにお客さんも出展社もどんどん増えていく。それに合わせてもうひとつ、もうひとつと、借りる建物を増やして規模がどんどん拡大していきました。恐らく10回目くらいには国際見本市会場のすべてを使うようになったと思います。そして規模が拡大すると同時に、チューニングやカスタムという世界が一般的にも認知されるようになってきた。チューニング&カスタムカーという存在が、アンダーグラウンドの世界から少しずつ日の当たる場所へと進んできた。それが実感できましたね』(榎本さん)

いっぽうで、規模が大きくなればなるほど問題も発生してくる。その中でも最も大きな問題が駐車場問題だった。
エキサイティングカーショーから始まった東京オートサロンはクルマ好きが集まるイベントだけに、当初から会場へクルマで訪れるひとが多いというのが他のイベントにはない特徴だった。東京国際見本市会場に併設された駐車場もあったものの、その総収容台数は1000台程度。東京オートサロン開催時にはそのキャパシティではまったく足りず、駐車場の入場待ちをするクルマの列は会場から出て晴海通りを進んで三宅坂あたりまで繋がった。長さにすると5kmほどにもなってしまったのだ。
さすがにここまでの渋滞を作ってしまうと地元警察もちろん、地域住民から何らかの対策を求められたという。最寄り駅から会場まで特別バスの運行を行うなどの対策が講じられたのだが、急速に増加し続ける来場者数にはなかなか対応することができなかった。

開催10周年には『スニッカーズ』が冠スポンサーにつき(1993年まで)24万人が来場するなど、回を重ねるごとに東京オートサロンは一部のマニアだけのショーではなくクルマ好きならば誰もが楽しめるショーへと進化していった。同時に、会場の南側(写真左方向)を迂回して海側の駐車場へと続く道路の大渋滞も恒例の風景に。

マニア向けのショーから、クルマ好きのショーへ

チューニング&カスタムカーの市民権を獲得するという想いから始まった東京オートサロンだけにノーマルの車両が展示されるということはほとんど無かったのだが、1995年に開催された第13回東京オートサロンの会場では日産スカイラインGT-R(BCNR33)の新車発表が行われ、世界中で大きなニュースとなった。
また、第1回から会場となってきた東京国際見本市会場が施設の老朽化のために閉鎖され、それに伴って1997年からは会場を有明の東京ビックサイト(東京国際展示場)へ移動。そして会場の移転と同時にトヨタ自動車が初めて出展することになったことも東京オートサロンの歴史の中で忘れる事ができない大きなトピックスと言えるだろう。
そのトヨタ自動車に追従するかのように、現在では国内外を問わず数多くの自動車メーカーが東京オートサロンへ出展するようになった。チューニング&カスタムメーカー&ショップと自動車メーカーが共存する、現在の東京オートサロンのスタイルが確立されたのはこの1997年が大きなきっかけとなっているのだ。

しかし、東京ビッグサイトは国際見本市会場に代わるチューニング&カスタムカーの聖地になるのかと思いきや、ここでの開催はたった2年で幕を下ろすことになる。その最大の理由はやはり駐車場問題だった。
東京ビックサイトは今でこそ周辺施設が充実しているが、当時は晴海と同じく駐車場が足りないという問題を抱えていた。駐車場への渋滞は会場から首都高速湾岸線の本線にまで繋がってしまい、東京ビッグサイト周辺には大規模な物流施設などもあるだけに周辺は大混乱。そこで、大きな駐車場が併設され、周囲に駐車場として借りる事ができそうな空き地も多かった幕張メッセへと会場を移すことになったのだ。
ちなみに収容台数はビッグサイト周辺が2500台程度だったのに対し、幕張メッセは最大で1万5000台ほどが用意できたのだ。

余談ではあるが、東京ビッグサイトで開催された最後の年(1998年)は渋滞だけでなく搬入日から開催初日にかけて記録的な大雪に襲われてしまった。遠方からの出展社は車両が会場に届かない、スタッフがたどり着けないなど大慌て。会場への重要な交通機関であるゆりかもめも悪天候のために緊急停止してしまい、大雪の中線路上を歩くことになった関係者も多数いた。
しかし、意外なことに35回にもおよぶ東京オートサロンの歴史において会期中にこれほどまでの悪天候に襲われたのはこの時の1回だけ。1月初旬に開催されるだけに寒さこそ厳しいが、雪はおろか雨ですら数えるほどしか降ったことがないのである。
『開催している側としては天候がどうなるのかは色々な意味で大問題ですからね、正月を迎えたあたりからは天気予報が気になって仕方ない。そういう意味で1998年はいちばん記憶に残っている回です。でも、東京オートサロンは比較的天候には恵まれているんですよ。誰の行いが良いのかわかりませんが、ありがたい話しです (笑)』(榎本さん)

1990年代の中盤からは少しずつ大掛かりなブース設営が行なわれ、キャンペーンガールなども見受けられるようになるなど、会場内の雰囲気も大きく変わってきた。「特に晴海からビッグサイトに変わった時、出展各社の展示ブースや内容が一気にグレードアップして、本格的なショーに変貌したと感じました」と榎本さん。写真は大雪に見舞われた1998年の会場周辺を撮影したもの

すべてのクルマ好きに向け、世界一のイベントを目指す

1999年から東京オートサロンの会場となった千葉県にある幕張メッセ。現在ではホール1から11、イベントホール、国際会議場、屋外イベントスペースなどの全施設を使い、さらに2017年は隣接するZOZOマリンスタジアムの駐車場や、国家戦略道路占用事業(エリアマネジメントに係わる道路法の特例)の活用で一般公道を専用してのデモ走行なども開催されていた。
メインとなる屋内での内容もチューニング&カスタムカーの祭典という核となる部分は不変ながら、そのベースとなる車両は国産車から輸入車までさまざま。クルマの展示以外にもイベントホールでは各種アーティストによるライブが開催されるなど、単なるカーショーではなくエンターテインメント性も兼ね備えたビッグイベントとなっているのだ。 『最初はここまで大きなイベントになるなんて夢にも思っていなかったけど、業界全体の努力と情熱が実を結んだのかと思う。出展車はその時代に合わせてイメージがずいぶん変わっていてそれを見るのも楽しいし、数多い出展車の中から次の時代のトレンドになるものを探し当てるのも楽しい。これからどんなクルマが出てくるのか、オレも楽しみで仕方ないよ』(稲田さん)
『幕張メッセでの開催となってからは、2007年のリーマンショックの影響で自動車メーカーからの出展がキャンセルになったりしたこともありましたが、その後は急送に回復して現在では出展社車数も来場者数も過去最大の規模へと成長しました。最近では若者のクルマ離れなんて言われていますが東京オートサロンに来て頂ければ、それは決してすべてには当てはまる話しではないことがわかって頂けると思います。会場には熱気溢れるクルマ好きの若者や若いファミリーが何万人も詰めかけていますし、女性同士の来場者も数多くいらっしゃいます。今後も多くのひとに楽しんでいただけるイベントになるよう願っています』(榎本さん)

次回の開催は2018年1月12日(金)、13日(土)、14日(日)の3日間。場所はもちろんチューニング&カスタムカーの聖地、幕張メッセで開催されることすでに決定している。クルマ好きなら誰もが楽しめる東京オートサロンへあなたも足を運んでみてはいかがだろうか。

会場に飾られた車両を眺めるだけではなく、屋外の特設会場では各種デモンストレーション走行なども実施されている。また、2017年には一般公道を占有してパレードランなどもおこなわれた。
東京オートサロン発起人の稲田大二郎さん(写真右)と、事務局長としてイベントを支えてきた榎本文昭さん(同左)。2017年3月、久しぶりに訪れた晴海会場跡地は、清掃工場が建設されるなど開発のまっただ中だった。「変わってないのは晴海客船ターミナルの三角屋根くらいだな」「パトカーに乗せられて、説教されながら近隣の渋滞を見て回ったのが懐かしいよ」

photo: Tokyo Autosalon official/option/motosuke fujii(インタビュー撮影)


[ガズー編集部]

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