【特別対談】トヨタ 2000GT 50周年「好奇心と夢と情熱」、歴史的GTカーの開発現場…高木英匡氏×津々見友彦氏
今年、発売50周年を迎えたトヨタ『2000GT』。まだ大衆車の普及がはじまったばかりの日本に颯爽と登場した本格GTスポーツカーであり、映画「007は二度死ぬ」の劇中にカーチェイスを演じたことで、世界的にも知られる存在だ。この名車のエンジン開発に携わった高木英匡氏と、レースで搭乗した津々見友彦氏の対談が実現した。
◆開発のきっかけは現場社員の企画談義
----:まず、トヨタの中で2000GTをどのようなきっかけで開発することになったのか、経緯を教えてください。
高木英匡氏(以下敬称略):もともとは「GTスポーツカーを作りたい」という提案型の企画でした。当時のトヨタは乗用車ラインナップが『クラウン』『コロナ』『パブリカ』。あとはトラックというメーカーだったんですが、開発現場では「本格的なGTスポーツを作りたいよね」という談義をしていたんです。それが役員の稲川達さんの耳に入って「いいぞ、やれやれ!」と言ってもらえて、正式な開発プロジェクトになったというわけなんです。
津々見友彦氏(以下敬称略):ポルシェが仮想敵だったんですか? 日本グランプリを走ったポルシェも当時は2000GTと同じ2000ccでしたよね。
高木:全体のコンセプトやイメージの参考にしたのはジャガーでしたね。まず、おおまかなサイズや性能などを皆で構想します。それを元に野崎さん(デザイン担当の野崎喩氏)がスケッチを描いて、そこにどんなメカが搭載できるか、どうやったら積めるかといったことを検討するという流れで進めていったんです。
◆ヤマハとの共同開発
----:現在でもよく話題になる、ヤマハ発動機との関係はどのようなものだったんでしょうか?
高木:トヨタ社内で企画談義から正式なプロジェクトになって、車両計画を立て始めたのが1964年の夏。計画がだいたいまとまったのは10月ごろですが、そのころにヤマハの川上源一社長からトヨタ側に「なにかいっしょにやりませんか?」という打診がありました。それで、ちょうどいいタイミングだということで共同で開発することになったんです。
津々見:エンジンは腰下がトヨタの既存のもので、ヘッド回りをヤマハが新しく作ったのかなと思ってたんですけど、実際はどんな感じだったんですか?
高木:シリンダーブロックとクランクシャフトまわりはトヨタの既存エンジンがベース。あとはほとんど、ヤマハによる新設計です。シリンダーヘッド、吸気系、オイルや水のポンプ、タイミングベルトなどですね。
津々見:となると、ベースはクラウンとかに使っていたM型?
高木:そうです。エンジンも含めた車両全体の開発作業の流れは、まずトヨタがコンセプトを固めて、設計を主導。ヤマハはそれを受けて各部分を開発し、トヨタが承認するという流れでした。実際にヤマハとの契約がスタートしたのは12月ごろで、設計が完了したのは翌年4月ぐらいでしたかね。それで1号車が完成したのは8月です。
津々見:早い! 開発スタートから試作車ができるまで1年もかかってないんだ。
高木:普通のクルマの開発に比べてかなり早い。集中的に作業できたのがよかったんでしょう。エンジン、シャシー、ボディの3グループに分かれて進めていたんですけど、どれも実際の作業はヤマハ側のほうがずっと多かったので、毎週1回はヤマハに泊まり込んで作業してましたよ。
◆市販モデルよりも先にレース仕様が登場
----:津々見さんが2000GTに関わることになったきっかけについて教えてください。
津々見:はじめて出会ったのは早朝の富士スピードウェイ。当時は日産の所属ドライバーだったんですけど、甲高く緻密なエンジンサウンドが30度バンクに反響していて「なんだこの音は!」とあわててコース脇に駆け寄ってみたら、華麗でかっこいいクルマが走っているのが見えた。それにテストカーはリアのオーバーライダーが装着されていなくて、丸いテールがすごくセクシーで素敵だったんですよ。6気筒のサウンドと後ろ姿に、魂を持っていかれちゃったんです。それで「これに乗ってレースに出たい!」と、トヨタへの移籍を決意しました。
高木:レースマシンのエンジンは、トヨタでパーツを組み込んでチューニングしていました。津々見さんがはじめてレースで乗ったのは1966年の鈴鹿1000kmレースでしたよね。
津々見:そう、それで優勝した。2000GTが本物のスポーツカーだなあと思ったのは、氏(うじ)と育ちなんです。ヨーロッパのスポーツカーって、みんなレースマシンから育っている。レースで鍛えられて、それが市販スポーツカーになるんです。2000GTも発売前にレースに出るという道筋は正統だと思ったし、そこにロマンを感じましたね。
高木:65年の東京モーターショーに出した後、私はレースエンジンの開発担当になって、市販モデル用のエンジン開発は別のスタッフが進めていました。津々見さんには10月のスピードトライアルでも乗ってもらっていますよね。でもトヨタにはじめて乗ったのは5月の鈴鹿で、あれはパブリカでしたか。
津々見:そのテストで気合いを入れたら1周目の130Rで派手にクラッシュしちゃって、高木さんにはずいぶん怒られましたね。チームの信頼に応えられなかったということで、ものすごく反省して、でもそこから慎重になったのは後のレーサー人生にとってよかった。いい教訓でした。
◆2000GTは”誇り”
----:歴史的な名車に関わったおふたりですが、現在のクルマについてはどうお考えなんでしょうか? あるいは2000GT開発当時に考えていた、将来のクルマの姿とか…。
高木:あのころ夢見ていた未来のクルマは、自動運転かなあ。いつかそのうち実現するんじゃないかと思っていました。なんの根拠もない空想でしたけれどもね。
津々見:だいぶ後になってのことだけど、クルマはふたつの方向に進むと言ったことがあるんです。ひとつは自動化。もうひとつは、もっとプリミティブな、すべてを人間が操作しなけりゃならないものが求められるようになるんじゃないか、と。クルマって常に「ないものねだり」なんですよ。自分で操作していると自動化で楽をしたくなって、自動化されたら今度は自分で操作したくなる。
高木:2000GTは当時の世界中にある先進的な技術を、ぜんぶ取り込もうとしていました。ラック&ピニオンのステアリングに全輪ディスクブレーキ、5MT、アルミのラジエーター等々。ヨーロッパのGTスポーツカーに追い付くことを目標にしていましたが、ここまでふんだんに先端技術を搭載したのは世界初だったかもしれませんね。
これらの技術はすべて、乗用車用にも使う普通の技術になっていくわけです。そういう意味で後のトヨタのクルマづくりに大きな影響を与えたと思います。
津々見:市販モデルはインパネが印象的でした。メーターのクリアカバーが、光が当たっても反射で見えなくならないように三角錐のコーン型になってるんですよ。あとストップウォッチがかっこよかったなあ。それから、荷重移動をちゃんとすると、すごくよく曲がってくれるんですよ。ディスクブレーキのおかげで安心感もありましたし、扱いやすかった印象です。スタイリングの美しさは色褪せていませんし、いまのクルマにひけをとりませんね。
----:最後に、おふたりにとって2000GTとはなんだったのか。総括をお願いします。
高木:ひとことで言えば、好奇心と夢と情熱、ですかね。トヨタに長く勤めたなかで、大切な仕事のひとつです。いまでもこうやって、多くの人に興味を持っていただけるというのは誇りに思いますよ。
津々見:こんなに美しいカタチ、美しい音に包まれながらサーキットを走れるなんて、至極の時間でした。開発者の英智やセンスが、いかに素晴らしいものだったかがわかります。携われたというのはラッキーだったし、幸せです。
(レスポンス 古庄 速人)
◆開発のきっかけは現場社員の企画談義
----:まず、トヨタの中で2000GTをどのようなきっかけで開発することになったのか、経緯を教えてください。
高木英匡氏(以下敬称略):もともとは「GTスポーツカーを作りたい」という提案型の企画でした。当時のトヨタは乗用車ラインナップが『クラウン』『コロナ』『パブリカ』。あとはトラックというメーカーだったんですが、開発現場では「本格的なGTスポーツを作りたいよね」という談義をしていたんです。それが役員の稲川達さんの耳に入って「いいぞ、やれやれ!」と言ってもらえて、正式な開発プロジェクトになったというわけなんです。
津々見友彦氏(以下敬称略):ポルシェが仮想敵だったんですか? 日本グランプリを走ったポルシェも当時は2000GTと同じ2000ccでしたよね。
高木:全体のコンセプトやイメージの参考にしたのはジャガーでしたね。まず、おおまかなサイズや性能などを皆で構想します。それを元に野崎さん(デザイン担当の野崎喩氏)がスケッチを描いて、そこにどんなメカが搭載できるか、どうやったら積めるかといったことを検討するという流れで進めていったんです。
◆ヤマハとの共同開発
----:現在でもよく話題になる、ヤマハ発動機との関係はどのようなものだったんでしょうか?
高木:トヨタ社内で企画談義から正式なプロジェクトになって、車両計画を立て始めたのが1964年の夏。計画がだいたいまとまったのは10月ごろですが、そのころにヤマハの川上源一社長からトヨタ側に「なにかいっしょにやりませんか?」という打診がありました。それで、ちょうどいいタイミングだということで共同で開発することになったんです。
津々見:エンジンは腰下がトヨタの既存のもので、ヘッド回りをヤマハが新しく作ったのかなと思ってたんですけど、実際はどんな感じだったんですか?
高木:シリンダーブロックとクランクシャフトまわりはトヨタの既存エンジンがベース。あとはほとんど、ヤマハによる新設計です。シリンダーヘッド、吸気系、オイルや水のポンプ、タイミングベルトなどですね。
津々見:となると、ベースはクラウンとかに使っていたM型?
高木:そうです。エンジンも含めた車両全体の開発作業の流れは、まずトヨタがコンセプトを固めて、設計を主導。ヤマハはそれを受けて各部分を開発し、トヨタが承認するという流れでした。実際にヤマハとの契約がスタートしたのは12月ごろで、設計が完了したのは翌年4月ぐらいでしたかね。それで1号車が完成したのは8月です。
津々見:早い! 開発スタートから試作車ができるまで1年もかかってないんだ。
高木:普通のクルマの開発に比べてかなり早い。集中的に作業できたのがよかったんでしょう。エンジン、シャシー、ボディの3グループに分かれて進めていたんですけど、どれも実際の作業はヤマハ側のほうがずっと多かったので、毎週1回はヤマハに泊まり込んで作業してましたよ。
◆市販モデルよりも先にレース仕様が登場
----:津々見さんが2000GTに関わることになったきっかけについて教えてください。
津々見:はじめて出会ったのは早朝の富士スピードウェイ。当時は日産の所属ドライバーだったんですけど、甲高く緻密なエンジンサウンドが30度バンクに反響していて「なんだこの音は!」とあわててコース脇に駆け寄ってみたら、華麗でかっこいいクルマが走っているのが見えた。それにテストカーはリアのオーバーライダーが装着されていなくて、丸いテールがすごくセクシーで素敵だったんですよ。6気筒のサウンドと後ろ姿に、魂を持っていかれちゃったんです。それで「これに乗ってレースに出たい!」と、トヨタへの移籍を決意しました。
高木:レースマシンのエンジンは、トヨタでパーツを組み込んでチューニングしていました。津々見さんがはじめてレースで乗ったのは1966年の鈴鹿1000kmレースでしたよね。
津々見:そう、それで優勝した。2000GTが本物のスポーツカーだなあと思ったのは、氏(うじ)と育ちなんです。ヨーロッパのスポーツカーって、みんなレースマシンから育っている。レースで鍛えられて、それが市販スポーツカーになるんです。2000GTも発売前にレースに出るという道筋は正統だと思ったし、そこにロマンを感じましたね。
高木:65年の東京モーターショーに出した後、私はレースエンジンの開発担当になって、市販モデル用のエンジン開発は別のスタッフが進めていました。津々見さんには10月のスピードトライアルでも乗ってもらっていますよね。でもトヨタにはじめて乗ったのは5月の鈴鹿で、あれはパブリカでしたか。
津々見:そのテストで気合いを入れたら1周目の130Rで派手にクラッシュしちゃって、高木さんにはずいぶん怒られましたね。チームの信頼に応えられなかったということで、ものすごく反省して、でもそこから慎重になったのは後のレーサー人生にとってよかった。いい教訓でした。
◆2000GTは”誇り”
----:歴史的な名車に関わったおふたりですが、現在のクルマについてはどうお考えなんでしょうか? あるいは2000GT開発当時に考えていた、将来のクルマの姿とか…。
高木:あのころ夢見ていた未来のクルマは、自動運転かなあ。いつかそのうち実現するんじゃないかと思っていました。なんの根拠もない空想でしたけれどもね。
津々見:だいぶ後になってのことだけど、クルマはふたつの方向に進むと言ったことがあるんです。ひとつは自動化。もうひとつは、もっとプリミティブな、すべてを人間が操作しなけりゃならないものが求められるようになるんじゃないか、と。クルマって常に「ないものねだり」なんですよ。自分で操作していると自動化で楽をしたくなって、自動化されたら今度は自分で操作したくなる。
高木:2000GTは当時の世界中にある先進的な技術を、ぜんぶ取り込もうとしていました。ラック&ピニオンのステアリングに全輪ディスクブレーキ、5MT、アルミのラジエーター等々。ヨーロッパのGTスポーツカーに追い付くことを目標にしていましたが、ここまでふんだんに先端技術を搭載したのは世界初だったかもしれませんね。
これらの技術はすべて、乗用車用にも使う普通の技術になっていくわけです。そういう意味で後のトヨタのクルマづくりに大きな影響を与えたと思います。
津々見:市販モデルはインパネが印象的でした。メーターのクリアカバーが、光が当たっても反射で見えなくならないように三角錐のコーン型になってるんですよ。あとストップウォッチがかっこよかったなあ。それから、荷重移動をちゃんとすると、すごくよく曲がってくれるんですよ。ディスクブレーキのおかげで安心感もありましたし、扱いやすかった印象です。スタイリングの美しさは色褪せていませんし、いまのクルマにひけをとりませんね。
----:最後に、おふたりにとって2000GTとはなんだったのか。総括をお願いします。
高木:ひとことで言えば、好奇心と夢と情熱、ですかね。トヨタに長く勤めたなかで、大切な仕事のひとつです。いまでもこうやって、多くの人に興味を持っていただけるというのは誇りに思いますよ。
津々見:こんなに美しいカタチ、美しい音に包まれながらサーキットを走れるなんて、至極の時間でした。開発者の英智やセンスが、いかに素晴らしいものだったかがわかります。携われたというのはラッキーだったし、幸せです。
(レスポンス 古庄 速人)
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