<プリウス誕生秘話>第2回 想定外の“ハイブリッド指令” (1994年12月~1995年8月)

よくわかる 自動車歴史館 第103話

コンベンショナルでは意味がない

1994年11月、技術担当副社長の和田明広は、G21のリーダーである内山田竹志に、開発を進めている次世代車についてハイブリッド車とするよう指示した。それができなければ、プロジェクトは解散だとまで言ったという。

当時、G21では東京モーターショーに出品するショーカーとしてハイブリッド車の開発はしていたが、市販車のパワートレインとしては、新開発の直噴エンジンと高効率のオートマチックトランスミッションの組み合わせを想定していた。

小木曽聡は当時のことを「最初は、モーターショーのクルマぐらいハイブリッドバージョンを作って、企画の勉強も含めて検討してみろ、ということだったんですよ」と振り返る。「でも、だんだん市販車もハイブリッドで行くべきではないかという声が強くなってきました。内山田さんとは、いくらなんでもそれは21世紀の前には無理だろうと話をしていたんです。和田さんも、リスクは知っていたと思うんですけどね」

初代からプリウスの開発に携わった小木曽聡氏

せっかくG21プロジェクトでやるなら、コンベンショナルなパワートレインでは意味がない。D-4エンジンと高効率なトランスアクスルを組み合わせ、コンパクトで効率のいいパッケージングにまとめるだけなら、ほかのクルマでやればいいというわけだ。燃費を1.5倍にするという計画は実現できそうだったが、プロジェクトはいきなりハードルを上げられた。

「燃費1.5倍ではダメで、2倍にしろとなったんです。いろいろ工夫してようやく1.5倍なのに、2倍にするというのはさすがに無理でしょう。実現するには通常の方法ではできませんから、ハイブリッドをやるしかないということになります。内山田さんと和田さんで押し問答になっていたんですが、チャレンジしなければG21を続ける理由がないと言われてしまったんですね」

1994年11月当時、トヨタ自動車((株))の技術担当副社長を務めた和田明広さん

内山田は覚悟を決めるしかなかった。和田がハイブリッドにこだわった背景には、水面下で開発の体制が整えられつつあったことがある。G21と並行して、未来の自動車を研究するプロジェクトを立ち上げようとしていたのだ。それがBRVFである。BRというのはビジネスリフォーム=業務改革の意味で、VFはヴィークル・フューエル・エコノミー、つまり省燃費のことだ。G21が市販車の開発を担うのに対し、BRVFはハイブリッドシステムの研究を目的とする。

「1994年の末から年明けにかけて、燃費2倍という目標とハイブリッドシステムの採用が決まっていきました。リスクはあるけれどチャレンジしようということですね。ハイブリッドの開発チームを強化してもらうようにお願いして、それがBRVFになりました。1995年の頭から、G21とBRVFでハイブリッドシステムの検討が始まりました」

どうせ大変なら理想形のものを

BRVFにはEV開発部のエンジニアも参加した。当時、RAV4 EVを開発中だった彼らは社内でも最もハイブリッド技術に近いところにおり、またモーターやバッテリーの現状についても知識を持っていた。ただ、モーターとエンジンを組み合わせるというのはまた別の技術だ。この時点で、確立されたハイブリッドシステムの理論はまだ存在していない。あらゆる方式を検討し、その中から最適なものを見つけ出すしかなかった。

RAV4 EV PH

「エンジンで発電してモーターで駆動するシリーズ方式も含め、ハイブリッドの設計部隊があらゆる方法を検討しました。短期間でしたが、1994年の終わりから半年間ほどいろいろな方式についてスタディを行って、やっぱり2モーターのタイプがいいんじゃないかという結論になったんです。決め手は、燃費のポテンシャルが高いことですね。将来、パワーエレクトロニクス(電力を効率よくコントロールする半導体や電子回路の技術)が大きく進化すると考えると、伸びしろがある。コンベンショナルな変速機は一切いらないんですから。モーターが大きくて重くて高くて大変ということはひとまず置いといて、理想的なモーター・ジェネレーターさえできればこれがいいだろうということになりました。でも、やっぱり難度は高かったですね」

採用されたのは、後にトヨタ・ハイブリッド・システム(THS)と呼ばれることになる方式だ。エンジンに加えてモーターを2つ用いているのが特徴である。駆動用モーターはエンジンの出力を補助するほか、減速する時には発電機の役割を果たしてバッテリーに充電する。もうひとつのモーターはエンジンからの動力を使って発電し、変速システムの制御機能も持つ。またスターターモーターとしても用いられる。

2つのモーターとエンジンをつなぐのが、プラネタリーギアを使った動力分割機構だ。入力軸と出力軸を同軸上に配置できるので、コンパクトな構成にしやすい。エンジンの出力を車輪駆動と発電機駆動に振り分けるほか、回転数を制御することによって無段階変速機としても機能する。また、バッテリーとモーターの間にはインバーターを配置する。直流のバッテリーと交流同期型のモーターをつなぐので、電流を変換する必要があるからだ。

ハイブリッドシステムの機構

「僕はまだ係長クラスでしたが、常務役員の久保地さんとよく話をしていました。立場的には相当な距離がありましたが、ずっと一緒に仕事をしてきたので親しくさせてもらっていたんです。今でも覚えていますが、最後に久保地さんと話したのは、どっちにしてもバッテリーとモーターをクルマに積まなきゃいけないんだということです。モーターをパワートレインの中に突っ込まなきゃいけないんだから、どうせ大変です。どうせ開発は死にそうになります。それが1割引きになろうが2割引きになろうが、大差ないからいいじゃないですか。やるなら理想形のものをやりましょうよと話しました。久保地さんは、そうか、と言ってくれました」

基幹技術はすべて“手の内化”

市販車の開発と並行して、東京モーターショーに出品するコンセプトカーの計画も進められていた。このモデルにもハイブリッドシステムが搭載されていたが、それはTHSではない。他メーカーでもハイブリッドの研究開発は行われており、コンセプトカーも作られている。厳しい競争の中では、持ち札をすべて見せてしまうのは得策ではないと考えられたのだ。

「コンセプトカーに搭載したシステムはワンモーターで、直噴エンジンとCVTを組み合わせたものです。バッテリーではなくキャパシタを使い、燃費は30km/リッターということになっていました。テクニカルに見ればこれもハイブリッドなんですが、あえてそう呼ばずにトヨタ・エネルギー・マネージメント・システム、EMSという名前にしました。2モーターのハイブリッドをやると決めていたので、ハイブリッドという名前は本番のシステムにとっておこうということになったんです。ただ、モデル名はこの時からプリウスでした。まだ本番でも使うとは決まっていませんでしたが、デザイン部門の人が見つけてきた名前で、これがいいということになったんです」

プリウスとは、「〜に先立って」という意味を持つラテン語である。これまでになかったまったく新しいパワーソースを持つクルマなのだから、いかにもふさわしい名前だ。市販車のほうは、6月に行われた会議で正式にゴーサインが出た。開発コードは890Tと決められた。

「ハイブリッドをやると決めた時の検討資料に、1995年の段階で想定したハイブリッドの普及予測が書いてあります。どういうスピードでハイブリッドが増えていくか、アメリカのエネルギー省が立てているシナリオなども見ながら考えたものです。その中に、BRVFチームとわれわれが立てたチャレンジ案というのがあって、2005年から2010年ぐらいに日本でハイブリッドが一気に増えると予測しているんですね。後から見ると、実際の増加のラインになぜかぴったり合っているんですよ。みんなが本気でそう思っていたとは言いませんが、漠然とですが、そうなったらいいな、それを目指そうという思いはありました」

1995年の検討書類のイメージ

とはいえ、将来の展望はともかく、まずはクルマを試作しなくてはならない。問題は山積していた。ハイブリッド車なのだから、何はともあれエンジンを選定し、モーターとバッテリーの開発を進める必要がある。

トヨタの伝統に、基幹技術は“手の内化”するというものがある。サプライヤーに依頼して手に入れた部品を組み立てればいい、ということにはならない。モーターはハイブリッド車の主要なパーツなのだから、それを外注したのではトヨタはただのアセンブリーメーカーになってしまう。

インバーターも内製することが決まった。生産を担当するのは、1989年から車載用コンピューターの半導体を生産している広瀬工場である。インバーターはハイブリッドシステムの制御を担っているのだから、技術をブラックボックス化するわけにはいかないのだ。バッテリーに関しては、これまでも電気自動車の研究で協力関係にあった松下電池と共同開発することになった。

トヨタ自動車(株)広瀬工場

「試作車といってもまだ何もないわけで、まずはパーツを組んでコンポーネントを作ってテストをします。単品ごとにテストベンチで試験し、コンピューターのプログラムも組んでいきます。過去の実績のないものだらけですから、一台のクルマに仕立てるというのはなかなか簡単にはいきませんでした」

目標は、20世紀中の市場投入である。時間が足りない。ハイブリッドシステムのほかにも、やるべきことはたくさんある。デザインも決まっていないし、サスペンションの開発も急務だ。

この年の8月、奥田 碩がトヨタの新社長に就任した。会社の経営にとって重要な出来事なのはもちろんだが、ハイブリッド車開発にもこのことが決定的な変化をもたらすことになる。

関連トピックス

topics 1

プラネタリーギア

遊星歯車機構とも呼ばれ、太陽のまわりをギアが衛星のように回る構造を持つ。中心にはサンギア、外側には内側に歯が切られたリングギアがある。その間に両方のギアとかみ合う小型のプラネタリーピニオンギアが配置されている。

ピニオンギアはプラネタリーキャリアに取り付けられ、衛星軌道を描くように動く。サンギアとリングギア、プラネタリーキャリアがそれぞれ入出力に割り当てられ、減速比や回転方向を制御する仕組みだ。

THSでは、エンジン回転軸がプラネタリーキャリアとつなげられ、ピニオンギアを介して動力が外側のリングギアと中心のサンギアに伝えられる。リングギアはモーターとつながっていて、その先にある車輪を駆動する。サンギアは発電機と連結されている。

プラネタリーギアはATの変速装置として使われることもあり、大トルクを扱うのに適している。初代プリウスは小さなエンジンルームでありながらエンジン以外に2つのモーターやインバーターまで入れなければならず、プラネタリーギアを使ったコンパクト化は重要なポイントとなった。

プラネタリーギアの図解

topics2

奥田 碩

1995年、アメリカは日米間の自動車貿易不均衡を問題視し、市場の開放やアメリカ製部品の輸入拡大などの要求を日本に突きつけた。日本の対米貿易黒字の3分の2以上が自動車によるものだから、アメリカは強硬な姿勢を崩さない。橋本龍太郎総理大臣が交渉にあたったが、局面打開は困難を極めた。

交渉が決裂すると、法外な報復関税をかけられる恐れがある。協議には政府だけでなく自動車業界も関わった。土壇場で制裁が回避できたのは、日本の自動車メーカーが現地生産の拡大などを提案して妥協を探ったからだ。中心となったのは、病気療養中の豊田達郎社長に代わって交渉に参加した、トヨタの奥田 碩副社長だった。

奥田はトヨタ自動車販売に入社し、長く経理畑を歩んできた。フィリピンのマニラ勤務時代に豊田章一郎、豊田英二から認められ、工販合併の年である1982年に49歳で取締役に就任する。

新社長に指名されたのは、日米貿易交渉を終えた直後の8月のことである。奥田はスピード感のある経営を身上としており、アメリカ進出を加速させたほか、社内では起業家制度を推進するなどして活性化を図り、積極果敢な経営で販売シェア回復を果たした。

奥田碩さん 現トヨタ自動車(株)相談役

(文中敬称略、肩書は当時のもの)

小木曽聡(おぎそ さとし)
1961年、東京生まれ。1983年トヨタ自動車入社。シャシー設計部で主にFF車のサスペンションの設計などを担当。プラットフォームの先行開発を経て、1993年、G21プロジェクトの立ち上げに参加。初代プリウスから2代目、3代目、そしてプリウスα、プリウスPHVまですべての製品企画・開発に携わる。途中、iQの開発も担当。アクアの開発においても2007年の企画段階から一貫して開発責任者として開発を陣頭指揮。チーフエンジニアとして次世代環境車(HV/PHV/EV/FCV)を担当し、2013年4月より常務役員。2015年6月に、アドヴィックス社長に就任。

【編集協力・素材提供】
(株)webCG http://www.webcg.net/

[ガズー編集部]