<プリウス誕生秘話>第4回 21世紀に間にあった! (1997年3月~1997年12月)

よくわかる 自動車歴史館 第105話

記者発表で退路は断たれた

1997年3月25日、東京・赤坂のホテルでトヨタはTHSの技術発表を行った。新車発売でなく技術だけの記者発表というのは極めて異例である。トヨタは前年に企業広告キャンペーンのトヨタ・エコプロジェクトを開始しており、環境問題に対する企業としての姿勢を明確にしていた。奥田 碩社長が自らあいさつに立ち、「トヨタは21世紀の環境問題にひとつの答えを出すハイブリッドシステムを開発した」と高らかに宣言した。プレスリリースには約2倍の燃費を実現することと、年内に新型車を発売することが明記されていた。翌日の新聞を見て、小木曽は驚きを隠せなかった。

初代からプリウスの開発に携わった小木曽聡氏

「報道では『燃費がリッター28km』だとか『価格がカローラの50万円高』とか言われていました。記者発表でははっきりとした数字は出していないんですが、記事になってしまうと独り歩きしてしまうんですね。実際にはまだ燃費は28kmに届いていなくて、あのタイミングでは“大丈夫”とは言えませんでした。1997年12月発売というスケジュールはいったん決めていましたが、とても計画通りに進んでいるとは思えなかったので、それについても“目指します”と言っていたんです。確かに1996年末には正式なボディーの試作もできて、冬季の試験もしていましたから、開発は着々と進んではいました。ただ、量産の準備とか品質の確保とか、まだまだやることがたくさん残っている状態です。『難しくなったらスケジュールを変更させてください』という話をしていたんですが、会社が世間に向けて表明してしまった以上、もう変更はできません」

7月には東京臨海副都心でトヨタ環境フォーラムが開かれ、奥田が「トヨタは地球環境の保全を最重要課題と位置づけ、総力を挙げて取り組んでいく」と決意を述べた。コロナにTHSを組み込んだモデルで新技術をアピールする試乗会も行っている。8月までにテストはほぼ完了し、9月からは高岡工場の専用ラインで試作を開始した。エンジニアは工場に常駐し、スムーズに生産するための設計変更に対応する。早い段階から現場でのすり合わせを行っていたので、設計変更は最小限に抑えることができた。

初代トヨタ・プリウスのラインオフ式の様子

COP3で世界中が注目

10月14日、東京・六本木のホテルでプリウスの記者発表会が行われた。注目度は高く、自動車メディアだけでなく一般のマスコミも大挙して押しかけた。通常は2回の発表だが、3回に分けなければ出席希望者を収容できなかったほどの人数である。誇らしげに示された燃費は10・15モードで28km/リッター。“同等のガソリン車の2倍”という約束を見事に達成した。215万円という車両価格は、3月の時点での予想よりむしろ低かった。

初代トヨタ・プリウス

奥田社長のあいさつの後に、開発責任者の内山田竹志が車両説明を行った。退出の際は後席に奥田、助手席に和田明広副社長を乗せて内山田がプリウスを走らせた。EV走行が可能な新世代の自動車であることを報道陣の目に焼きつけるパフォーマンスである。10月22日からの東京モーターショーでは、多くの観客がプリウスをひと目見ようと駆けつけた。さらに、その年の日本カー・オブ・ザ・イヤーでは2位に200票近い大差をつけてグランプリを獲得。12月に開かれたCOP3では、会議参加者を乗せて会場間を移動した。世界中から集まったメディアがプリウスに注目し、トヨタの役員やエンジニアは質問攻めにあった。

「12月10日に無事ラインオフできました。最初は国内だけで、月1000台の企画台数で立ち上げています。初期受注が多めに来たので後で能力を増やして、初代は平均すると月1500台くらいです。売れるかどうかわからなかったので、よく1000台以上売れたなという感じでしたね。もともと2000年のマイナーチェンジで欧米向けにも出そうと考えていたので、発売された後もやることはたくさんありました。初めてのハイブリッドを2年ちょっとで出せたので、次が2000年なら楽だろうと思っていました。でも、ヨーロッパでは高速走行がありますし、アメリカではデスバレーで気温50度になるところを走らなければいけません。それもあって、マイナーチェンジでハイブリッドシステムをゴロッと変えたので、やはり時間は足りませんでしたね」

「21世紀に間にあいました。」という広告のキャッチコピーが、プリウスが新時代を先取りしたクルマであることを印象づけた。G21プロジェクトは見事に実を結んだのである。年が明けて1月のデトロイトモーターショーには、ビッグスリーがこぞって次世代環境車のコンセプトカーを出品した。GMはEVやパラレルハイブリッドの4WDカーを発表し、2001年には生産準備ができると説明した。さらに2004年には燃料電池車も登場させるとの見込みを示す。フォード、クライスラーも同様にハイブリッドのコンセプトカーを会場に並べていた。しかし、実際に市販化されたモデルは1台もない。

クライスラーから出展されたハイブリッドコンセプトモデル、ダッジ・イントレピットESX2

「もともとハイブリッドのコンセプトカーは各社が出していましたから、このときのクルマがどのくらいの完成度だったのかはわかりません。プリウスが出て、少し注目されるようになったことが影響したというのはあるかもしれませんが。欧米のエンジニアと話していてよく聞かれたのは、2モーターを器用に使って複雑に絡み合うシステムをどうやって作ったのかということでした。タスクフォースチームを作って技術者同士が話し合って問題を解決したと話すんですが、なかなか理解してもらえない。欧米の縦割り社会だと、われわれのようなやり方は難しいところがあるようです」

ハイブリッド車の累計販売台数が800万台に

プリウスは発表直後から注目を集め、販売開始から1カ月で月販目標の3倍を超える3500台を受注した。215万円という価格は予想より安かったとはいえ、同クラスのクルマと比べればかなり割高である。それでも注文が殺到したのは、高い環境意識を持ったユーザーからの期待が高かったからだ。

「よく赤字ではないかと言われました。確かに利益率は低くて、開発にかかった資金や設備投資を乗せて計算すればもちろん大赤字です。ただ、目の前の材料費とか生産にかかる費用を適正な範囲で計算すれば、採算はとれています。厳しいことに違いはありませんでしたが、会社はそこにリソースを割いてやらせてくれました。だんだん育っていくのを会社がサポートしてくれたのが、プリウスにとっては非常によかったんじゃないかと思います」

2003年にフルモデルチェンジを行った時は、月5000台の販売を目標に据えた。ところが実際の売れ行きはそれを上回り、グローバルでは1万台以上が販売されるようになる。レオナルド・ディカプリオなどのハリウッドスターがプリウスで乗りつけてレッドカーペットを歩く様子が報じられ、環境意識の高い層に関心が広がっていった。

2代目トヨタ・プリウス

「(初代プリウスは)話題にはなっていてもマーケット的には小さく、メインストリームにはほど遠い状態でした。2代目を出すことが本当に必要なのかという議論もありましたが、アーリーアダプターの声をヒントに次の提案を出しました。ユーザーの話を聞くと、日本でもアメリカでも知識層が反応してくれることがわかってきたんです。ハイブリッドシステムもずいぶん進化して、燃費と走りを両方伸ばす仕組みを入れることができました。プリウスを世の中に普及させてクルマとしてのプレゼンスを上げるという点で、2代目は成功したと思います」

2001年にはミニバンのエスティマにもハイブリッド版が登場する。その後も多くの車種にハイブリッドシステムが搭載されるようになり、カローラやクラウンといったトヨタを代表するモデルにもその波は広がっていった。レクサスでは2006年にGSが初めてハイブリッドシステムを採用し、2007年には最上級セダンのLSにもハイブリッド版が登場する。低燃費だけでなく、モーターの滑らかさや加速力を前面に出し、静かで上質なパワーソースという位置づけとなっている。

2011年にはコンパクトカーのアクアが発売されてベストセラーとなる。プリウスは2015年に4代目が発売され、40km/リッターを超える燃費を実現した。国内で販売されるトヨタ車のほぼ半分がハイブリッド車となり、グローバルでは2015年7月に累計販売台数が800万台に達した。

4代目トヨタ・プリウス

「基幹技術を“手の内化”してきたことが、今につながっています。同じ人がずっと会社の中にいて、技術を全部“目利き”していることが大きいですね。次に必要な技術開発もできるし、サプライヤーさんともしっかり話ができるわけです。会社の中に、実際の生産までわかる人間がいるということは、開発にとってはとても助かることなんです。2014年に出した燃料電池車のMIRAI(ミライ)にも、プリウスでの経験がずいぶん役に立っているんですよ。20年やってきたからこそ、何をするべきかが先回りしてわかるんです。自分としても、若い時に開発に携わって最初は七転八倒しましたけれど、プリウスを手がけたことが今に生きていると感じています」

関連トピックス

topics 1
トヨタ・アクア

2010年のデトロイトモーターショーに、トヨタ最小となるハイブリッドカーコンセプトのFT-CHが出品された。これが2011年12月にアクアとして市販化される。初代プリウス以来となる5ナンバーサイズのハイブリッド車で、プリウス譲りのTHS-IIを小型化・改良したシステムを搭載していた。

燃費はJC08モードで35.4km/リッターを達成し、マイナーチェンジで37.0km/リッターまで高められた。価格は169万円からとなっており、コンパクトなハイブリッドカーが欲しいというユーザーの声に応えた。

チーフエンジニアは初代プリウスから一貫してハイブリッドカーの開発に携わってきた小木曽聡。コンセプトは「2020年のコンパクトカー」で、1993年以来の技術の蓄積を注ぎ込んだ。

北米ではプリウスCの名で販売されており、プリウスファミリーの一員であることがよくわかる。小木曽はアメリカでプリウスを売り上げナンバーワンにすることを目標に掲げていたが、カリフォルニア州ではプリウスとプリウスα、プリウスCを合わせてトップセールスを1年ほど続けた。

トヨタ・アクア

topics2
トヨタ・ミライ

トヨタでは燃料電池車(FCV)の研究を1992年から始め、2002年にクルーガーをベースとしたFCHVを発売した。自社開発のFCスタックを搭載しており、35MPaのタンクに充てんされた高圧水素を使ってモーターに電力を供給した。

発売といっても、日本とアメリカでリースの形で官庁に貸し出されたのみで、一般向けの販売は行われなかった。本当の意味での、世界初の市販燃料電池車となったのは、2014年に発売されたトヨタ・ミライである。水素タンクは70MPaと2倍の高圧となり、FCスタックは大幅に性能が向上してサイズがコンパクトになった。

ハイブリッドカーに続いてFCVでもトヨタが初の量産を手がけることになった。価格は723万6000円で、リース料の月額が120万円だったFCHVより格段に手に入れやすくなっている。今のところ官公庁や企業の需要が多いものの、もちろん個人で買うことも可能だ。

航続距離は約650km(JC08モード走行)とされているので長距離走行もできるが、まだ全国に水素ステーションが設置されているわけではない。2020年の東京オリンピックでは、水素社会をアピールするためにミライをオフィシャルカーとして利用する構想もあるという。

量産型燃料電池車トヨタ・MIRAI(ミライ)

(文中敬称略、肩書は当時のもの)


小木曽聡(おぎそ さとし)
1961年、東京生まれ。1983年トヨタ自動車入社。シャシー設計部で主にFF車のサスペンションの設計などを担当。プラットフォームの先行開発を経て、1993年、G21プロジェクトの立ち上げに参加。初代プリウスから2代目、3代目、そしてプリウスα、プリウスPHVまですべての製品企画・開発に携わる。途中、iQの開発も担当。アクアの開発においても2007年の企画段階から一貫して開発責任者として開発を陣頭指揮。チーフエンジニアとして次世代環境車(HV/PHV/EV/FCV)を担当し、2013年4月より常務役員。2015年6月に、アドヴィックス社長に就任。


<プリウス誕生秘話>
第1回 21世紀のクルマを提案せよ (1993年9月~1994年11月)
第2回 想定外の“ハイブリッド指令” (1994年12月~1995年8月)
第3回 49日間の苦闘 (1995年11月~1996年12月)
第4回 21世紀に間にあった! (1997年3月~1997年12月)

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[ガズ―編集部]