独自の道を行く。 [13代目クラウン 寺師エグゼクティブチーフエンジニア](1/3)

クラウンというクルマについて、今さら説明する必要はないだろう。
登場から50余年。トヨタを、いや日本を代表する高級車として君臨し続け、誰もが知る存在だ。
そのクラウンの13代目にあたるニューモデルが、2月18日に発表される。
先代「ZERO CROWN」が、プラットフォームやエンジンからすべてを一新して登場し、強いインパクトを与えたのに比べると、13代目は一見、地味なモデルチェンジに見える。
目に付くのは、新たにハイブリッド版が登場することくらいだ。
しかし、あのクラウンのフルモデルチェンジである。新しい何かがあるはずだ。
いったい、どこがどう変わったのか。私たち編集部は、トヨタ本社テクニカルセンターに寺師茂樹エグゼクティブチーフエンジニアを訪ね、話を聞いた。
そして分かったのは、13代目クラウンには、目には見えない大きな変革が詰め込まれていること。
そこには “これからの高級車”の、新しい提案があったのである。

何でも分解して知りたがった子ども時代。

寺師 茂樹
寺師 茂樹
1955年、兵庫県生まれ。
大学では計測工学を専攻。
1980年、トヨタ自動車に入社。
実験部を経て、95年から製品企画部門へ。
2000年から米国トヨタに駐在。
アバロン、ソラーラなどの開発に携わる。
2005年に帰国し、クラウンのチーフエンジニアとなる。アメリカ暮らしで「絆が深まった」という家族は、妻と娘2人。最近の趣味はウォーキング。毎日、とにかく良く歩く。
「歩くのは、考えごとをするのにいい」とのこと。

私は1955年生まれです。1955年が何の年かというと、初代クラウンが発売された年。50年経って、そのクルマを開発することになるのですから、不思議な縁を感じます。

でも、子どもの頃の私は、将来クルマを創ることになるなんて思いもせず、与えられたオモチャを片端から分解するような子どもでした。きっと好奇心が強かったのでしょう。何でもとことん調べていましたね。

大学生になってからは、クルマに強く興味を持つようになりました。当時人気のあったセリカ・リフトバックが欲しくて、一生懸命にアルバイトをした覚えがありますよ。でも結局、足りなくて、同じセリカでもクーペしか買えなかったのですが。
そして、1980年にトヨタに入社しました。大きな声では言えませんが、大学の成績は良くなかったし、たまたま拾ってもらったんですよ(笑)。まあ、トヨタ自動車も当時は今ほどの人気企業ではなかったですしね(笑)。

寺師 茂樹
寺師 茂樹
1955年、兵庫県生まれ。
大学では計測工学を専攻。
1980年、トヨタ自動車に入社。
実験部を経て、95年から製品企画部門へ。
2000年から米国トヨタに駐在。
アバロン、ソラーラなどの開発に携わる。
2005年に帰国し、クラウンのチーフエンジニアとなる。アメリカ暮らしで「絆が深まった」という家族は、妻と娘2人。最近の趣味はウォーキング。毎日、とにかく良く歩く。
「歩くのは、考えごとをするのにいい」とのこと。

快適性の研究に没頭。

入社すると私は、実験部で快適性を追求する研究に従事しました。いわゆるNVH(ノイズ・バイブレーション・ハーシュネス)の研究です。

クルマは、いろいろなところから音や振動が出ます。どこからどんな原因で出ているのか、クルマを分解し、一つひとつ部品や設定を変えながら検証していくのです。
音や振動は、目に見えません。そして、数値に現れたとしても、それがすべてではない分野です。たとえば騒音計で音が出ていても、気にならない場合もあれば、その逆もあります。また、同じ音でもその人の年齢などによって感じ方が違います。
そうしたことを突き詰めて調べ、考え、改善していく。古い実験室でコツコツやっていましたが、子どもの頃、オモチャを分解して調べていたのと、基本は同じなんですよ。自分に向いた仕事だと思っていましたね。
ですから、1995年に製品企画の部門へ異動と告げられたときにはショックでした。

製品企画部門への異動を希望する人は多いのですが、私は製品企画でクルマ全体の開発を広く担当するよりも、一つの技術を突き詰めたかった。私は独自の道を行こう、将来は実験部を背負って立つ、それくらいの気持ちでいたので、そのときは異動が残念でしたね。