「SUBARU」へ社名変更! 「富士重工業」の歴史をたどる

さる5月12日(木)、富士重工業の臨時取締役会で、2017年4月1日から社名を「株式会社SUBARU」に変更することが決議されました。

今まで「スバル」は、富士重工業が生産するクルマのブランド名で、社名ではなかったのです。世界中で親しまれている「SUBARU」の名を社名にすることで、スバルブランドをより磨いていこうとするものだと考えられます。

では、この富士重工業改め「SUBARU」という会社は、今までどんな歩みをたどってきたのでしょうか? その歴史を簡単に振り返ってみます。

スバルの起源は飛行機メーカーだった!

スバルの歴史をたどって行くと、その起源は今からおよそ100年前の1917年に設立された「飛行機研究所」。第一次世界大戦のまっただ中に、軍用機メーカーとしてその歴史をスタートさせました。翌年、「中島飛行機製作所」に名称を変更。一時「日本飛行機製作所」に改組しますが、再び「中島飛行機製作所」となり、戦後まで軍用機製造を続けました。

1945年に第二次世界大戦が終戦を迎えると、富士産業株式会社として平和産業へ舵取りを図ろうとしますが、GHQが4大財閥に準じるものとして解体を命じ、12社に分割されてしまいます。

その12社のうちのひとつ、富士自動車工業が自動車開発に乗り出したことが、自動車メーカーとしての始まりです。富士自動車工業、富士工業、大宮富士工業、東京富士産業、宇都宮車輛の5社が共同出資し、1953年に「富士重工業」が誕生し、スバルブランドのクルマが生まれます。現在も使われている6つの星が輝くエンブレム「六連星」は、この5社と富士重工業を表すものです。

幻の乗用車「P-1」。そしてスバル360へ

スバルが最初に開発したのは、1954年の「P-1」という小型乗用車でした。「スバル・1500」の名で市販を視野に入れたものでしたが、生産設備や販売網づくりに莫大な資金を要することから、商品化は中止に……。小型トラック「T-10」も計画されましたが、こちらも試作車が数台作られたのみで市販には至りませんでした。

スバル初の市販車は、コードネーム「K-10」こと「スバル・360」です。P-1の開発も行い、のちに日本自動車殿堂に入る百瀬晋六氏によって考案・開発された軽自動車で、1958年に発売されました。このクルマはそれまで高嶺の花だった「自動車」という存在を、一般家庭に普及させる大きな原動力となりました。

スバル・360

スバル・360はRR(リヤエンジン・後輪駆動)を採用していましたが、百瀬氏はFF(フロントエンジン・前輪駆動)を理想的な小型乗用車のレイアウトと考えており、スバル360の開発でもFFが候補に上がっていたそうです。当時はドライブシャフトの等速ジョイントが技術的に難しかったために、RRを採用したと言われています。FFを採用した乗用車は、1966年に発売された、「スバル・1000」で実現しました。余談ですが、百瀬氏は、シトロエン・DS19に心酔していたと言われており、ハイドロニューマチック・サスペンションも検討していたそうです。

スバル・1000

ユニークかつ実直な設計で独自のクルマづくりを続ける

スバル・1000は、日本初のFF乗用車であると同時に、現在まで続くスバルのアイデンティティ「水平対抗エンジン(ボクサーエンジン)」を初めて採用したクルマでもありました。1971年にはレオーネを発売。このクルマは、乗用車タイプで初めて4WDを追加したモデルとして、歴史に名を残しています。2世代目のレオーネでは、ターボエンジンと4WDを組み合わせ、現在のスバル車のスタイルを確立。1989年にレガシィが、1992年にインプレッサが登場すると、「スバル=スポーティ4WD」のイメージを確固たるものにしました。現在もそのスタイルを貫いています。

レガシィ(初代モデル)

フォレスターやアウトバック、エクシーガ、レヴォーグなど、バリエーションは増えましたが、地道に技術を積み重ね、走りの質感の高いクルマを追求する姿勢は、百瀬氏が築いたスバル・360の時代と変わっていないと言えるでしょう。

2017年度は、スバル史上で初めて世界販売台数が100万台に達する見込みです。水平対向エンジンのスバル1000登場から50年、来年には飛行機研究所設立から100年を迎え、日本の「富士重工業」から世界の「SUBARU」へと、これからますます発展していくことでしょう。

(木谷宗義+ノオト)

[ガズー編集部]