交通安全のルーツを訪ねて「谷保天満宮」へ
今では交通安全を神社にお祈りするのは、ごく普通のこと。でも、よく考えてみれば、ガソリン・エンジンで動くクルマが発明されたのは、わずか130年ほど前のことです。それに対して神社は、はるか昔から存在しています。
明治時代に、初めての“自動車の交通安全”が祈願されたという、いわば“交通安全祈願発祥の地”となる神社が国立にあります。今回は神社の人に、その当時のことを聞いてきました。
甲州街道沿いの東日本最古の天満宮
やってきたのは国道20号線(甲州街道)を新宿からくだり、日野バイパス(国道20号)が左折していくところを直進して、東京都道256号(甲州街道)をわずかに進んだ先にある信号「谷保天満宮前」。南武線の「谷保駅」からも歩いて、ほんの数分にある谷保天満宮です。気を付けないといけないのは、駅は「やほ駅」と読みますが、天満宮は「やぼ天満宮」と呼ぶこと。実のところ、古くの地名は「やぼ」だったのですが、駅名が「やほ」になってしまったため、今では「やほ」が強く浸透してしまっているとか。
- 参道から階段を下った先にあるのが本殿。隣にお守りなどを販売する社務所があって、その2階が宝物殿(公開は日曜・祝日の10時~15時)となる。
甲州街道に面した駐車場にクルマを止めて、谷保天満宮の奥に進んでゆきます。谷保天満宮は、社そう(境内の林)が東京都の天然記念物になっており、左手には約1千坪の梅林もあるそうです。そして参道の突き当りにある階段を下りて右手に本殿が。驚くのは、ニワトリが放し飼いになっていること。そして、牛の像にも驚きます。どうやら宝物殿には国の重要文化財である「木造獅子狛犬」も展示されているとか。歴史ある神社といった雰囲気がぷんぷんとします。
- 不思議なことに神社内にはニワトリが放し飼いになっていました。
- 牛の像があるのは道真公と牛の間に神秘的な伝説がいくつもあることが理由。
「谷保天満宮は東日本で、最も古い天満宮であり、関東の三大天神のひとつとなります。谷保、湯島、亀戸の三社ですね」と説明してくれたのは谷保天満宮の菊地茂さんです。
天満宮とは、菅原道真公を祭る神社のこと。谷保天満宮は菅原道真公の三男である道武公が延喜3年(903年)の菅原道真公没を悲しみ、道真公の像を鎮座したのが起源となっています。つまり、1000年以上も前からある神社ということです。本殿の前に、牛の像があるのも道真公と牛の間に神秘的な伝説がいくつもあることが理由とか。ちなみに道真公は学問の神様であり、雷神さまとも同一視されています。
- 神社のことや日本で初めての自動車による遠乗り会を説明してくれた菊地茂さん。
日本初のドライブの目的地になった谷保天満宮
谷保天満宮が「日本の交通安全祈願発祥の地」となったのは、明治41年(1908年)に日本初の自動車でのドライブツアーの目的地になったからというのが理由です。
ガソリン・エンジンの自動車は、ゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツが1885~1886年に発明したもので、明治41年(1908年)ごろといえば、まだ発明から20年ほど。日本には、ほんの数えられるほどの数しか存在しなかったという、世界最先端の技術の乗り物です。そんな自動車を所有する人たちを集めての遠乗り会が、皇族である有栖川宮威仁(たけひと)親王殿下のお声がけで実施されたのです。遠乗り会を今風に言えばドライブツアーになるでしょう。
当時の新聞(東京朝日新聞 明治41年8月2日)を見ると「自動車遠征隊 大将自らハンドルを執り給ふ 日本には始めての壮遊」の大見出しの後に、「有栖川宮殿下の自動車乗用御奨励のお志しにもとづき東京において自動車に趣味を有する人々は昨一日甲州街道の立川まで遠乗会を催した」という記載があります。つまり、イベントは8月1日の開催です。
「谷保天満宮は、甲州街道に面しており、江戸時代から参勤交代での休憩場所になっていました。また、甲州街道を下っていくと、この先は多摩川の渡し場になっており、クルマでは、ここから先に行けなかったんですね。そういうことも谷保天満宮が目的地になった理由だと思います」と菊地さんは説明します。
- 有栖川宮殿下とダラック号。運転席の人物が有栖川宮殿下となる。
スタート地点となったのは、午前8時半の日比谷公園。そこに参加者は集まってから、有栖川宮邸に参上して、遠乗り会がスタートします。
参加した車両は、およそ11台。殿下のダラック号を筆頭に、ハンバー号、東京自働車製作所製作車第4号(別名・タクリー号)、同7号、同8号、フォード号、マセソン号、フヒヤツト号、ハアパー号、クレメント号と続きます。
有栖川宮殿下のダラック号は、35馬力の英国製の車両で、価格は1万5000円。鈍色の詰襟にハンチング姿の殿下が自らハンドルを握り、先頭を走ったと記事には紹介されています。また、当時として珍しい自動車が、しかも11台ほども連なって走るということで、沿道には国旗を掲げた人々があちこちに見られたそうです。
- 街道に並ぶ参加車両。11台ほどのクルマが並ぶのは当時としては、非常に珍しいことのはず。
- 出発地の日比谷公園には参加した車両を見に、たくさんの人が集まったということです。
- 砂煙をあげて疾走する自動車。後ろの方に川のようなものが見えます。
スタートから2時間ほどかけて、約7里(約27㎞)を走り、午前11時には立川にある多摩川の河川敷に到着。小休憩の後に1里(約3.9㎞)ほど甲州街道を戻って藪村の天満宮へ。「谷保(やぼ)のことを地元の人がヤブとなまったので、記事に藪村となったのでしょう」と菊地さん。ここが現在の谷保天満宮になります。その梅林で昼食会が開かれました。
- 谷保天満宮の梅林の中に設置された食卓。右手前が有栖川宮殿下。夏の強い日差しを梅が遮っています。
東京朝日新聞によると「此処には既に立食場のもうけが出来ているので一同付近を流れている清水で出発以来の汗とホコリを拭ひにわか作りの食卓についた」とあります。食卓が設けられたのは、今も残る梅林の中。ここで殿下から賜れたお弁当をサイダーなどと一緒に味わったというのです。
- 現在の谷保天満宮の梅林で当時とほとんど変わっていないとか。ただし、取材が12月ということで、寂しい風景となってしまいました。
- 谷保天満宮の梅林の中に残る石碑。「有栖川威仁(たけひと)親王殿下台臨記念」と刻まれています。
この昼食会では陸軍の長岡少将によって「これからは軍隊にも自動車を使いたい」とい演説が行われます。続いて、矢野恒太氏(第一生命保険の創業者であり、明治・大正にかけて生命保険業界の基礎を築いた実業家)から「自動車倶楽部の設立」の発案があり、早速、その場で承認されました。帰りには「オートモビル・クラブ・ジャパン」の頭文字「ACJ」を青地に白く抜いた旗を翻したというのですから、きっと、もともとクラブ創設の根回しがあったのでしょう。また、矢野氏は「いかにしたら自動車を安く作ることができるかを研究するのは刻下の急務である」との言葉も。日本の自動車産業は、こうした先人たちの熱意によって生まれたのでしょう。
面白いのは、矢野氏らの演説の途中でカミナリが鳴り出したということ。一同は、あわてて谷保天満宮の拝殿に移ったというのです。ちなみに天満宮が祭るのは、雷神さまである道真公。まるで「せっかく寄ったのだから、拝んでゆきなさい」と、呼び寄せたかのようなタイミングでの雷鳴です。
「遠乗り会で拝殿に来たのですから、当然、参加したみなさまは道中の無事を祈ったはずです」と菊地さん。大規模なドライブが行われるのは日本で初めてなのですから、ここで祈願された交通安全祈願をもって“日本の交通安全発祥の地”というのも納得できる話。もちろん、参拝を済ませた面々は、この後2時間ほどのドライブで無事に都心部に戻ったということです。
クルマのお祓いは予約なし(お正月など繁忙期除く)
谷保天満宮は“交通安全祈願発祥の地”ですから、当然のようにクルマの交通安全祈願もやっていますし、お守りも用意されています。予約は必要なしで、朝10時から夕方4時までの受付。もちろんお正月のような繁忙期はNG。御祈祷の玉串料(クルマの場合、20分ほどで5000円~)は、のし袋に包んで持参しましょう。交通安全絵馬(500円)、交通安全キーホルダー(600円)、交通安全ステッカー(300円)などが用意されています。
- 谷保天満宮で用意されている絵馬や交通安全キーホルダーなど。
現代のクルマであれば日比谷から谷保天満宮のある国立まで甲州街道が空いていれば、1時間もかからないはず。110年ほど前の日本初のドライブに思いを馳せながら、同じルートを走るのも、なかなかにおつなもの。クルマ好きには見逃せないドライブスポットと言えるでしょう。
- 遠乗り会へ参加する車両を見学する人々。カンカン帽をかぶるのが当時の流行だったようです。
- 街道に並ぶ参加車両。スーツ姿の人は、遠乗り会へ参加している人々。
- 途中では、何度かの休憩が挟まれたとか。修繕車と貨物運搬車もそれぞれ1台ずつ参加しています。
- 1900年代初頭ということでタイヤには、まだ白いゴムが使われていました。
- 途中での休憩の様子でしょうか。クルマを降りて、直射日光を避けられる場所に集まっているのでしょうか。
- 撮影した場所の向こう側は河川敷のよう。目的地であった立川の河川敷かもしれません。
- 谷保天満宮の梅林の中の食卓の様子。奥の正面が有栖川宮殿下の席となります。
(取材・文・写真:鈴木ケンイチ 資料・写真提供:谷保天満宮・村井達哉 編集:ミノシマタカコ+ノオト)
<関連リンク>
谷保天満宮
http://www.yabotenmangu.or.jp/
[ガズー編集部]
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