日本グランプリの思い出(後編) ―津々見友彦―

パドックエリアは若者の社交場

1964年の第2回 日本グランプリの様子
プリンス・スカイライン2000GT(1964年)
プリンスR380(1966年)

第1回 日本グランプリの翌年、1964年には第2回 日本グランプリが同じ鈴鹿サーキットでさらに華々しく開催された。

各メーカーチームは、二輪経験者を中心にドライバー陣を強化。その内容は、トヨタは田村三夫、北原豪彦、日産は田中健二郎、鈴木誠一、プリンスは砂子義一、大石秀夫、生沢徹、富士重工は大久保力、スズキは望月修、マツダは片山義美、三菱は加藤爽平、横山徹らというものだった。加えて四輪育ちのドライビングマニアも積極的に採用された。トヨタでは式場壮吉選手に加え、その後鬼才ぶりを発揮する浮谷東次郎選手、『間違いだらけのクルマ選び』で有名となる杉江博愛(徳大寺有恒)選手を起用。杉江選手はコロナ勢では上位に入るなど、走りのセンスも光っていた。一方、日産は宇田川武良、三井平八郎、松井英男など、NDC(日本ダットサンクラブ)からのメンバーが主体だったが、私もオーディションに合格。晴れて日産ワークス入りを果たし、「ブルーバード」で出場することとなった。

有名人の姿も多かった。第1回から活躍していたVAN(ヴァンヂャケット)の石津祐介氏は、三菱ワークスから参加。日産には新進気鋭のジャズ作曲家、三保敬太郎氏がいた。また、有名な写真家、早崎治氏も「ミニクーパー」で参戦していた。
さらに後年になると、いすゞからロック歌手のミッキー・カーチス氏が「ベレット」で参加。トヨタからは福沢諭吉の孫でギリシャ系の母親をもち、ファッションデザイナーでもある福沢幸雄氏が参戦し、抜群のドライビングセンスで大変な人気を博した。
観客も多彩だった。パドックではニコルのファッションデザイナーである松田光弘氏をはじめ、ファッションモデルや一流のミュージシャンなどが見かけられ、一大社交場のように華やかだった。それほど、当時モータースポーツは珍しく、また、最新のイベントだったのだ。

今でも語られるのが、生沢選手の駆る「スカイライン2000GT」と、プリンスキラーとしてトヨタが送り込んだとされる、式場選手の「ポルシェ904」との劇的な争いだ。ふたりの、貴公子のように毛並みの良い容姿も手伝い、大注目されたレースだった。
第1回グランプリで惨敗したプリンスの怒りのリベンジマシンは、1.5リッターセダンのフロントノーズを無理やり伸ばし、2リッターエンジンを詰め込んだ秘密兵器だった。誰しもがスカイラインの勝利を信じたが、本格的レーシングマシンとツーリングカーとの差は大きく、一度だけ生沢選手が前に出るものの、優勝は式場選手の904。スカイライン2000GTは2位に砂子選手、3位に生沢選手という結果となった。が、このバトルで一大人気となった2000GTが、後々「スカイライン2000GT-R」に育つのだ。
一方、脚光を浴びたポルシェ904はその後「906」へと進化。プリンスは904を超えるマシンとして、軽量なミドシップマシン「R380」を開発。本格的なレーシングマシンの時代が始まる。

メーカーの威信をかけた激闘

第3回 日本グランプリのひとコマ。手前の「プリンスR380」に乗り込むのは、優勝した砂子義一選手。
第4回 日本グランプリにて、接戦を繰り広げる「プリンスR380-II」と「ポルシェ906」
トヨタ7(1968年)
富士グランチャンピオンレース(1973年)(C)FSW

1966年の第3回 日本グランプリは、鈴鹿から富士スピードウェイに舞台を変えて開催。日産は高橋、北野、黒澤、長谷見、都平選手を二輪から投入し、ドライバー陣の強化を図る。特殊ツーリングカーと呼ばれるクラスで優勝した須田選手のプリンス・スカイライン2000GTと、2位の浅岡選手の「ベレット1600GT」の対決が見ものだった。GPはプロトタイプと呼ばれるR380やポルシェ906、フロントエンジンの「トヨタ2000GT」によって行われ、砂子選手のプリンスR380が念願の優勝を果たす。

1967年の第4回 日本グランプリも富士スピードウェイで開催された。プリンスは日産に吸収されており、GPでは「日産380-II」とポルシェ906が対峙(たいじ)。ライバルとなったのはかつての同僚、生沢選手だった。生沢選手はR380-IIの高橋国光選手と共にスピンするがいち早く脱出し、優勝を遂げる。また、このレースにはダイハツも純レーシングカーの「P5」で参加。GPのメインはプロトタイプマシンに移行し、1968年の第5回大会からは、トヨタ、日産、タキレーシング(T.N.T.)による三つ巴の時代が来るのだ。特に第5回大会では、5.5リッターシボレーエンジン、可動ウイングの「怪鳥」こと「日産R381」、3リッターの「トヨタ7」、アメリカンV8の大排気量マシン「ローラT70」などが迫力のバトルを展開。北野選手のR381が優勝を飾る。富士スピードウェイには11万人もの観客が入り、レースが終わっても4時間以上サーキットから出られないほどであった。テレビも高視聴率に沸いた。

日産は1969年にも6リッターV12エンジンの「R382」を投入し、トヨタとタキレーシングを退けて連覇を遂げる。ところが、1970年の日本グランプリでは5リッターターボでリベンジをもくろむトヨタをしり目に、日産は公害対策を理由にGP不参加を決定。トヨタもやむなくレース欠場を決め、日本グランプリそのものも中止となってしまった。

こうしてトヨタ・日産対決による日本グランプリは終焉(しゅうえん)し、それに代わってグランチャンピオン(GC)シリーズが1971年から富士で開催される。一方、日本グランプリはフォーミュラカーによるレースとして継続。オイルショックの後、モータースポーツは冬の時代を経て、ヨーロッパのようにフォーミュラマシン(F2)による全日本選手権が開幕し、本格的なフォーミュラ時代がやって来る。

日産の高橋、長谷見、北野選手、トヨタの鮒子田、私こと津々見、見崎選手などといったワークスドライバーたちに加え、高原敬武、酒井正、風戸裕選手などを擁するプライベートチームが活躍する時代に入り、モータースポーツはより高い人気のビッグイベントへと成長するのだ。

1960年代の日本グランプリは、ちょうどモータリゼーションが日本で勢いを増し、住まいは3畳一間でもクルマは持ちたいというクルマ至上の世相と重なっていた。日本の経済力が高まるとともにカーメーカーも活況となり、トヨタも日産も惜しみなくモータースポーツに資源を投入できた良い時代だった。今のモータースポーツの基礎はこの時代に醸成されたのだ。

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[ガズ―編集部]

MORIZO on the Road