<自動車人物伝>豊田英二…トヨタ中興の祖

よくわかる 自動車歴史館 第25話

G1型の不具合修正で自動車を学ぶ

1967年、石田退三の後を継いで社長となっていた中川不器男が急死し、豊田英二が新しい社長に就任した。喜一郎の従弟にあたる英二がトヨタのトップになるということで、就任記者会見では記者から“新社長は豊田家の人間だから選ばれたのか”と質問が飛んだ。英二は “私としては適任だから選ばれたのだと思う”と冷静に答えたが、新聞には「豊田家への大政奉還」などという見出しがおどった。副社長だった英二が昇格するのはごく普通の人事だが、創業家からの久しぶりの登板とあってマスコミは騒ぎ立てた。

前年にカローラを発売し、トヨタは日本のモータリゼーションの先頭を走っていた。クラウン、コロナを含め、戦後に乗用車の開発を主導したのは英二である。彼は豊田佐吉の弟平吉の長男で、喜一郎より19歳若い。豊田自動織機製作所の中に喜一郎が自動車製作部門を作った1933年、彼は東京帝国大学に入学している。工学部機械工学科で学んだ英二を、喜一郎が放っておくはずはなかった。卒業後すぐに豊田自動織機製作所に入社させ、東京・芝浦に研究所を作るように命じた。

ここで技術者たちとエンジンの分解・組み立てなどをして経験を積み、1937年に本社に移って監査改良部に配属される。G1型トラックを売り出したばかりで不良品が続出しており、故障に対応しながら不具合を修正していく必要があった。英二は現場で自動車を学んでいったのである。挙母工場ができると第二機械工場の責任者になり、大野耐一とともにジャスト・イン・タイムの生産方式を作り上げていく。しかし、時代は戦争に向かいつつあり、軍の管理下に置かれた工場では部品の調達もままならなくなった。

デトロイト視察で自信を得る

戦争が終わり、自動車の生産と販売を再び自由にできるようになった。ドッジライン不況のあおりでトヨタは危機に陥るが、その中でも将来に向けた準備を進めていた。フォードとの技術提携の道を探っていたのである。話がまとまる寸前に朝鮮戦争がぼっ発し、米政府からの通達で破談になったが、実習生の派遣は認められた。1950年7月、英二は米国に渡った。

当時フォードでは日産8000台という大量生産を行っていた。トヨタはわずか日産40台である。圧倒的な規模の差があり、学ぶことは多いはずだった。デトロイト周辺の工場をくまなくまわり、オートマチックトランスミッションの組み立て実習にも参加した。鍛造工場やベアリング工場、バルブリフター工場など、部品の生産現場も訪れた。フォードだけでなく、クライスラーの工場も見学した。3カ月ほど滞在し、英二が得た結論は驚くべきものだった。

著書『決断 私の履歴書』の中で、英二はこう語っている。
「デトロイトの工場を見て感じたのは、『デトロイトではトヨタの知らないことはやっていない』ということだった」
技術面では、自動車の先進国であるアメリカに負けていない。しかし、規模ではとてつもない格差がある。その差を埋めるのが、これからの英二の仕事だった。

帰国すると、朝鮮特需でトヨタは危機を脱し、工場はフル稼働していた。フォードでの経験を踏まえ、英二が提言したのは輸送のコストダウンである。物の移動を工夫するだけで人手が節約できることを目の当たりにしていたので、早速実行に移したのだ。特需によって資金繰りに余裕ができ、研究開発に金を使うことができるようになった。喜一郎が自動車を志した時の夢である、国産乗用車の開発に全力を注ぐことができる環境が整った。

その矢先の1952年、社長復帰が内定していた喜一郎が急死する。後を追うように利三郎も他界した。英二が豊田家とトヨタを率いなければならない状況になったのだ。

モータリゼーションを起こしたカローラ

喜一郎が亡くなる前、英二はすでに新しい乗用車の開発に着手していた。1947年にSA型、1951年にSF型が発売されていたが、欧米の自動車に対抗できる水準には達していなかった。1952年1月4日、車体工場次長だった中村健也を呼び出し、本格的な乗用車の開発を命じたのである。社運を懸けた大プロジェクトが始まった。喜一郎の発案で、車名はクラウンと決まっていた。

翌年技術部門の組織変更が行われ、主査室が設置された。中村は初代主査となり、“エンジン、車両の設計から生産準備までを総合して推進”する役割を担うことになった。妥協を嫌う中村は高いクオリティーを要求した。1953年に完成した第1次試作車で公道上の試験走行を繰り返し、耐久試験やシャシー試験などで得た結果をフィードバックして改造を重ねた。

1955年の元旦、クラウンの1号車がラインオフした。観音開きのドアを持つ独自のデザインとフロントに独立懸架サスペンションを採用した乗り心地のよさが評判となり、初年度に2752台を生産する。翌年10月には月産1000台を超え、かつて喜一郎が目標としていた月産500台の2倍の規模となった。1957年10月には米国トヨタを設立し、クラウンのサンプル輸出を行ってアメリカ進出の足がかりを築いた。

クラウンは1.5リッターのエンジンを搭載していたが、それより小さい1リッターエンジンを積んだコロナを1957年に発売している。当時はタクシー需要が大きく、小型タクシー用途に応えるためにもこのクラスのモデルが必要だった。乗用車は2車種となったが、まだオーナードライバーがクルマを買うのは簡単ではなかった。それでも、英二は近い将来誰もがクルマを所有する時代が訪れることを確信していた。

1966年11月、トヨタはカローラを発売した。その年はたった2カ月で1万2000台を売り、翌年は16万台を出荷する大ヒットとなった。ようやく日本のモータリゼーションが進展し始めたのである。
「カローラはモータリゼーションの波に乗ったという見方もあるが、私はカローラでモータリゼーションを起こそうと思い、実際に起こしたと思っている」(『決断 私の履歴書』)
強烈な自負の言葉だ。カローラの生産のために、トヨタはエンジンと組み立ての工場を新設していた。もしクルマが売れなければ過剰設備になり、経営は悪化する。先を見通した決断だったのだ。

英二が社長に就任したのはその翌年である。喜一郎が抱いた乗用車の夢を大きくふくらませ、大会社となったトヨタのトップに立ったのだ。その後自動車業界は排出ガス規制や石油危機で大きな波に見舞われるが、英二は社長在任中の15年を「順風満帆だった」と表現している。多少の波風ではびくともしないほど、揺るぎない体制を築き上げていたからこその感想だろう。

1982年、トヨタは32年ぶりに工販合併を果たした。1950年の経営危機で分離された自工と自販が再び一つの会社になったのだ。世界一への道は整えられた。英二は新たに設立されたトヨタ自動車株式会社の会長になり、社長には喜一郎の長男である章一郎を指名した。
「昭和57年6月30日をもってトヨタ自動車の戦後は終りました。そして、7月1日から新しい第一歩が始まりました」
新生トヨタの発足にあたり、英二が全従業員に送ったメッセージである。その末尾は力強い言葉で結ばれている。
「本然の姿にかえり、持てる力をフルに発揮して、新しい未来を切りひらくために努力しようではありませんか」

[ 提供元:日本経済新聞デジタルメディア ]

※本資料は、様々な書籍、資料を元に編集しております。
トヨタ自動車が公式に発表している内容については、トヨタ75年史をご参照ください。

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(参考書籍、資料)
『トヨタ経営の源流―創業者・喜一郎の人と事業』佐藤義信、『豊田喜一郎―夜明けへの挑戦』木本正次、『トヨタを創った男 豊田喜一郎』野口均、『豊田佐吉とトヨタ源流の男たち』小栗照夫、『裸の神谷正太郎―先見と挑戦のトヨタ戦略』鈴木敏男・関口正弘、『賣る―小説神谷正太郎』松山善三、『石田退三 危機の決断 1950トヨタクライシス』大和田怜、『石田退三語録』石田退三・池田政次郎、『闘志乃王冠―石田退三伝』岡戸武平、『トヨタ生産方式の創始者 大野耐一の記録』熊澤光正、『トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして』大野耐一、『トヨタ式「改善」の進め方―最強の現場をつくり上げる!』若松義人、『決断 - 私の履歴書』豊田英二、『豊田英二語録』豊田英二研究会、『小説 日銀管理』本所次郎、『ザ・ハウス・オブ・トヨタ 自動車王 豊田一族の150年』佐藤正明、『トヨタ自動車の研究――その足跡をたどる――』岡崎宏司・熊野学・桂木洋二・畔柳俊雄・遠藤徹、『苦難の歴史 国産車づくりへの挑戦』桂木洋二、『国産乗用車60年の軌跡』松下宏・桂木洋二、ウェブサイト「トヨタ自動車 75年史 もっといいクルマをつくろうよ」トヨタ自動車

[ガズー編集部]