「システム・パナール」という発明(1891年)

よくわかる 自動車歴史館 第26話

リアにエンジンを置いた初期の自動車

自動車にとって、駆動方式はその性能を左右する大きな要素だ。最大の重量物であるエンジンの搭載位置は、運動性能に決定的な影響を与える。大きく分けて、駆動方式は5つある。現代のクルマで最も多く採用されているFF(フロントエンジン・フロントドライブ)は、車体の前方にエンジンを置き、前輪を駆動する方式だ。主要な機構がボディー前部のスペースに収まるので、室内スペースを広くとれるメリットがある。

以前は主流だったFR(フロントエンジン・リアドライブ)は、エンジンは前方にあるものの駆動輪は後輪で、間をプロペラシャフトでつなぐ。駆動輪と操舵(そうだ)輪が分かれることでハンドリングがよく、高級車やスポーツカーに多く採用されている。大きなトラクションを得られるRR(リアエンジン・リアドライブ)は、以前はよく見られた方式である。現在では少なくなったが、ポルシェ911はこの方式を守り続けている。

MR(ミドシップエンジン・リアドライブ)は重量物を中心に持ってくるために高い運動性能を得ることができ、レーシングカーや高性能スポーツカーに採用されている。ただ、室内のスペースが犠牲にされるのは仕方がない。4WD(四輪駆動)は、前輪と後輪のすべてを駆動する方式だ。以前はオフロードカーによく用いられた方式だが、最近では乗用車でも多く採用されている。

自動車が誕生した時から、技術者にとってエンジンの搭載位置は悩みの種だった。1886年にカール・ベンツが世界初の特許を得た三輪自動車のパテント・モトール・ヴァーゲンは、車両重量自体はわずか263kgである。しかし、その3分の1以上にあたる96kgがエンジンの重さだった。ベンツは座席の後ろに単気筒エンジンを置き、ローラーチェーンで後輪に動力を伝達した。

ゴットリープ・ダイムラーが初の四輪自動車を製作した時、ボディーは馬車会社に発注した。自動車は馬車に代わるものとして発想されており、当時としては自然な方法だったはずだ。彼は馬車の後席の下部に穴を開け、エンジンの置き場所を作った。方法に差はあったが、初期の自動車はMRないしRRの駆動方式を採用していたのである。

  • ベンツ・パテント・モートルヴァーゲン(1885年)
  • ダイムラー・シュトゥルラートヴァーゲン(1889年)

垂直を水平に展開する画期的なアイデア

​1889年、ダイムラーはパリ万博にV型2気筒エンジンを搭載したシュトールラート・ヴァーゲンを出品する。それを機に、フランスでも自動車事業を起こそうという動きが始まった。ルネ・パナールとエミール・ルヴァソールが設立したパナール・エ・ルヴァソールは、ダイムラーの製造権を取得していたエデュアール・サラザンから委託されてエンジンを製造していた。そんな折にサラザンが急死し、製造権は妻のルイーズが継承する。その後彼女はエミール・ルヴァソールと結婚し、パナール・エ・ルヴァソールがダイムラーのライセンシーとなったのである。

  • パナールとルヴァソール
  • ​ルイーズ・サラザン

後発のメーカーは、まずはベンツやダイムラーを模倣して自動車を作った。巨大なエンジンの上に座席を置くので重心が高く、安定性には大きな問題があった。パナール・エ・ルヴァソールの第1号車は、前後背中合わせに座席を配した“ドザド”と呼ばれる形式だった。エンジンは座席の間、ホイールベースのほぼ中央に置かれていた。乗員は全員背中のすぐ下にエンジンを背負う形になり、騒音や振動に悩まされることになる。それを不満に思ったルヴァソールは、画期的なアイデアを思いつく。エンジンと座席を垂直に積み上げていたのを、水平方向に展開したのだ。

ルヴァソールは、エンジンを乗員の前方に搭載した。前輪に荷重をかけることによって操向性を向上させることが目的だったといわれるが、これによってエンジンの上に人が乗らなくてすむようになったのである。エンジンの後ろにクラッチ、ギアが並び、一直線に伝えられた駆動力が後輪に達する。ギアはむき出しでディファレンシャルはまだなかったが、現代のFR車と変わらないシステムが誕生したのだ。1891年のことである。1886年のベンツの発明から5年後、自動車の根幹をなすメカニズムはフランス人の着想によって作り出された。

これがシステム・パナールと呼ばれているわけだが、パナールは経営面の指揮をとっていた人物で、前述のとおり開発したのはルヴァソールである。彼の柔軟な思考から生まれた発明が、自動車の歴史を大きく進めることになった。

  • パナール・エ・ルヴァソール第1号車
  • ​パナール・エ・ルヴァソール(1891年)

優位性を証明したモータースポーツでの活躍

ルヴァソールは、システム・パナールの優位性を証明するために、レースに挑んだ。フランス人は早くから自動車で競争することに興味を抱き、1894年に世界初のモータースポーツイベントであるパリ-ルーアン・トライアルが開催された。レースではなく、優秀性を競う催しという位置づけである。この頃はまだガソリン自動車の優位が確定していたわけではなく、蒸気自動車や電気自動車もエントリーしていた。

実際にスタートラインに並んだのはガソリン車14台と蒸気車6台で、126km先のゴールにパナール・エ・ルヴァソールは3番目に到達した。1着はド・ディオン・ブートンの蒸気車だったが、窯たき要員を載せる必要のないガソリン車の簡便さが評価されて総合順位が入れ替わった。パナール・エ・ルヴァソールとプジョーが1位とされ、システム・パナールの優秀さを広く示すことになった。翌年行われたパリとボルドーを往復するレースでは、エミール・ルヴァソール自身のドライブで見事1着になっている。

システム・パナールは、ついに本家であるダイムラーも採用するところとなった。1897年のフェニックスは、直列2気筒エンジンをフロントに積み、4段ギアボックスを介して後輪を駆動した。さらに、1901年にはダイムラーからメルセデスが登場する。はしご型フレームの前方に35psの強力な直列4気筒エンジンを積み、4段ギアボックスを備えていた。電気式の点火を採用し、ハニカム状のラジエーターも付いた。操舵は斜めに据えられたステアリングホイールで行うようになっていて、一見して近代的な成り立ちの自動車である。メルセデスはレースでも大きな成功を収め、その設計思想は広く受け入れられていった。

エミール・ルヴァソールはレースでクラッシュしたことが原因となり、54歳の若さでなくなってしまう。その後のパナール・エ・ルヴァソールは、高級車メーカーとして発展していった。また、1920年代から30年代にかけては速度記録に挑戦し、いくつかのレコードを樹立している。大きく方針を変えたのは、第2次世界大戦後である。自動車は大衆の移動手段として広まっており、パナール・エ・ルヴァソールもその波に乗ることを選んだ。

1946年に発表されたディナは、アルミニウム合金製のモノコックボディーに空冷水平対向2気筒エンジンを備えたFF車だった。軽量なボディーで凝ったメカニズムを持つディナは、先進的なクルマとして高い評価を受けた。しかし、それは同時に価格が高くなってしまうことを意味する。安価なルノー4CVなどと比べると、大衆車としては競争力に欠けていた。

1955年、パナール・エ・ルヴァソールはシトロエンと業務提携を結ぶ。その後もPL17、CDなどの意欲的なモデルを発表するが、1965年に完全にシトロエンに吸収されてしまった。その後は軍用車両ブランドとして残ったが、乗用車の生産は終了した。現在では、パナール・エ・ルヴァソールの新車に乗ることはかなわない。それでも、生産されているすべてのクルマには、システム・パナールという発明の恩恵を受けた機構が今も備わっているのだ。

  • ​パナール・ディナ(1946年)
  • パナールPL17(1955年)

1891年の出来事

topics 1 プジョーがガソリン自動車販売開始

プジョーはフランス中部の小さな町モンベリアールでコーヒーミルからコルセットの骨格まで、さまざまな種類の工業製品を製造してきた会社である。一族のひとりとして生まれたアルマン・プジョーは、イギリス留学時に見た自転車に魅せられ、帰国後に自ら生産に乗り出した。現在も作り続けられているプジョーの自転車は、1888年にデビューしている。 アルマンは自転車製造で得た技術を生かし、蒸気機関を搭載した三輪車を開発する。それは失敗に終わったが、今度はガソリン自動車の製造を試みることになる。エミール・エ・ルヴァソールから、ダイムラー・エンジンの提供を受けることになったのだ。機械技術に優れるルヴァソールは、自転車製造のノウハウを持つプジョーと組むことで手際よく開発を進められると考えた。 1891年、プジョーは“ヴィザヴィ”と呼ばれる向かい合わせの座席を備えた4人乗り自動車を生産し、販売を開始した。このモデルは、1994年までに64台が生産されている。パナール・エ・ルヴァソールも独自に自動車の生産を始めており、フランスの自動車産業はこの2社の競争によって発展していくことになる。

topics2 ニコラウス・オットー死去

ガソリン自動車誕生に大きな役割を果たしたのが、ニコラウス・アウグスト・オットーである。彼は4ストロークエンジンを初めて実用化し、1876年に特許を取得した。現在もガソリンエンジンの概念は、オットー・サイクルという名前で呼ばれている。 フランスのエティエンヌ・ルノワールによって開発が進められていたガスエンジンに興味を持ったオットーは、自ら内燃機関の研究を始めた。1867年にはパリ万博に試作品を出品している。彼の元に 工場長として迎えられたのが、ゴットリープ・ダイムラーだった。彼はヴィルヘルム・マイバッハとともに改良を重ね、4ストロークエンジンを完成させた。特許を得たのはオットーであったため、ダイムラーは会社を辞めて独自に研究を重ね、改良型の4ストロークエンジンを完成させた。 一方、カール・ベンツはオットーの特許に抵触しないことを重視し、2ストロークエンジンを研究テーマに選んでいた。しかし、1884年にオットーの特許無効を求める訴訟が起こされたのを機に、彼も4ストロークエンジンの開発に向かった。そして1886年、パテント・モトール・ヴァーゲンが完成した。 4ストロークエンジンを搭載した自動車が実用化したのを見届け、1891年、オットーは59歳で永眠した。

topics3 シベリア鉄道着工

シベリア鉄道はモスクワからウラジオストクまでを結ぶ路線で、総延長は9000km以上に及ぶ。始発から終着まで乗り続けるには、約1週間を要する。 シベリアは古来モンゴル系やツングース系の民族が暮らす土地だったが、中世になるとロシア人が進出する。コサック兵による侵攻が行われ、17世紀に入るとシベリアはロシア領となった。1860年には極東の沿海州を清から獲得し、ウラジオストクが建設された。日本海に臨む不凍港であり、戦略的な拠点として重視された。地名はロシア語で“東方を支配する”という意味を持つ。 首都のモスクワとウラジオストクを鉄道で結ぶ構想は、1850年頃から生まれていた。巨額な投資を必要とする大規模な工事となるため、なかなか計画は具体化しなかったが、1891年にアレクサンドル3世が工事開始の勅諭を発する。1904年に一応の完成を見るが、難工事となったバイカル湖の区間の工事を終えて全線が開通したのはロシア革命前年の1916年だった。 空路よりはるかに安かったので、1970年代には横浜か新潟から船でウラジオストクに行き、シベリア鉄道でヨーロッパを目指す若者が多かった。モスクワとウラジオストクを結ぶロシア号は、現在は隔日で運行されている。

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[ガズ―編集部]

MORIZO on the Road