「ポニーカー」跳ねる(1964年)

よくわかる 自動車歴史館 第35話

ベビーブーマーに向けたクルマ

ニューヨーク万国博覧会のフォードパビリオンで開催された、フォード・マスタングの発表会の様子。
1965年式フォード・マスタング ファストバック
1965年式フォード・マスタング ファストバックのインテリア。左右対称のダッシュボードのイメージも、マスタングの特徴の一つだった。

フォード・マスタングは、映画の中で印象的な姿を見せていた。1966年の『男と女』では、主人公のジャン・ルイがコンバーチブルを愛車にするとともに、競技用に仕立てたマシンでモンテカルロ・ラリーに出場している。1968年の『ブリット』のカーチェイスは、映画史に残る名シーンだ。サンフランシスコの坂道で、ダッジ・チャージャーと死闘を繰り広げる。音楽もセリフも一切なく、V8エンジンの音だけが響く10分ほどの映像は、今見てもクールだ。

映画のせいもあってマスタングはマッチョなクルマというイメージで受け止められてしまいがちだが、成り立ちは違った。1960年代初頭、アメリカでは戦後生まれの若者が運転免許を取得する時期を迎えていた。いわゆるベビーブーマーである。全世代中で最大のボリュームとなる層に向け、自動車メーカーは新たな商品を開発する必要に迫られていた。それは、コンパクトで低価格でありながら、スポーティーな性能を持つクルマだった。

マスタングは、1964年4月17日にデビューしている。ニューモデルは9月に発表されるのが通例となっていたが、ライバルが動く前に実績を作っておこうという思惑でデビューを早めたといわれる。小型車のファルコンをベースに設計されたが、ロングノーズ、ショートデッキのスポーティーなスタイルはまったく別の魅力を備えていた。

クーペとコンバーチブルがあり、最も安いモデルは2368ドルだった。本体価格を抑えてフルチョイスシステムと称する幅広いオプションを用意し、V8エンジン、オートマチックトランスミッション、パワーステアリングなどを選べるようになっていた。

これによって若者以外からの支持を集めることにも成功し、“T型フォード以来”といわれるほどのヒットを記録した。販売台数は1964年に半年で約12万台、モデルライフが1年フルにあった翌1965年には、新たに加わったファストバックも含めて約56万台に達した。

シェルビーがレースで活躍

フォード・マスタングのライバルとなったシボレー・カマロ。モータースポーツの舞台でもしのぎを削り合うこととなる。
マスタングのレースシーンでの活躍を支えたキャロル・シェルビー。
SCCA Bプロダクションのホモロゲ―ションモデルであるシェルビーGT350。
当時、マスタングの主な活躍の舞台となったのはSCCAトランザムシリーズで、1966年、67年、70年にマニュファクチャラーズタイトルに輝いている。

マスタングのデビューに2週間ほど先駆け、クライスラーからプリマス・バラクーダが発売されている。1967年にはシボレー・カマロ、1970年にはダッジ・チャレンジャーが登場する。これらのクルマは、ポニーカーと呼ばれた。ポニーとは小型の馬のことで、本格的な乗馬を始める前の子供に与えられる。若者が最初に手に入れるクルマを、馬になぞらえたわけだ。コンパクトでスポーティーなボディーでベース価格は2500ドルほど、豊富なオプションで自分好みのクルマに仕立て上げることができる一連のクルマをそう呼んだ。ちなみにマスタングとは、小型の野生馬を意味する。

カマロはマスタングに後れを取ったが、GMにはそれ以前に、ポニーカーの原型となったモデルがあった。1959年に発売されていたシボレー・コルベアをベースに、バケットシートや4段フロアシフトなどでスポーティーに装ったモンザである。このモデルが好評なのを見て、フォードのリー・アイアコッカが指示して作らせたのがマスタングだといわれている。GMも同様に新たな小型スポーティーカーの構想を進めていたが、クレイモデルまで作られていたものの、プロジェクトは中止となった。モンザが十分な競争力を持っていると考えたからだ。しかし、マスタングが登場すると、またたく間にこのマーケットを独占してしまった。

人気を高めるのに、レースでの活躍も一役買った。立役者は、キャロル・シェルビーである。レーシングドライバーとしてルマンやF1に参戦した彼は、引退後にレース活動や車両の開発を手掛けるシェルビー・アメリカンを設立した。1962年にはイギリスのACカーズのオープン2シータースポーツにフォードのV8エンジンを載せたコブラを作り出している。マスタングのイメージ向上のため、フォードはシェルビーにレース用の車両製作を依頼した。

SCCA(全米スポーツカー協会)のBプロダクションでレースを行うには、100台以上を製造販売することがホモロゲーション取得の条件となる。そのために用意されたのがシェルビー・マスタングGT350だ。サスペンションを強化し、ボンネットをFRP製にするなどして軽量化を施したほか、レースの規定に合わせ、リアシートを取り除いて2シーターに仕立てていた。エンジンには4.7リッターのV8を搭載し、ボルグワーナーの4段マニュアルトランスミッションが組み合わされた。

もくろみどおりレースでは上位を独占し、マスタングは高性能車のイメージを確立する。GT350自体も人気となり、1965年に562台が生産された。翌1966年にはレンタカー会社のハーツから1000台の発注を受けたこともあり、生産台数は2380台に達した。

マッスルカー時代のパワー競争

1969年式フォード・マスタング
1970年式シボレー・カマロ
1974年に登場したフォード・マスタングII
2013年12月に発表された新型フォード・マスタング

カマロが発表されたのは、1966年9月26日である。この頃のマスタングのベース価格が2510ドルだったのに対し2466ドルと安価で、ボディーサイズはわずかに大きかった。しかし、販売面ではマスタングをはるかに下回る。シボレーが販売促進のために考えたのは、やはりレースで好成績をあげることだった。打倒シェルビー・マスタングを掲げて作られたのが、Z28である。このモデルの活躍もあって販売が伸び、1967年には20万台以上を販売した。ただ、この年マスタングは40万台以上の販売を記録しており、なかなか差は縮まらなかった。

シェルビー・マスタングの売れ行きは引き続き好調だったが、クルマの仕立ては少しずつ変わっていった。1965年モデルでは剛性向上のための補強など、速く走るために多くの改造が施されていた。ただ、外見上はノーマルモデルとさほど変わらない。1966年モデルでは性能の向上だけに血道を上げるのではなく、見た目のよさや快適さなどに重点を置いた結果、前年を大きく上回る台数を販売した。この結果をふまえ、シェルビー・マスタングはより快適でより豪華な仕様へと変わっていった。1968年からは、生産の拠点もフォードのお膝元に移される。

マスタングは1969年、カマロは1970年にモデルチェンジされ、ボディーは大型化し、エンジンパワーが増大した。時代はマッスルカーの流行を迎えていたのだ。一方では、ハイパワー車の存在を危うくする事態が進みつつあった。1967年から排ガス規制が始まり、安全基準も厳しくなっていた。野放図なパワー競争は不可能になっていく。

1972年の規制によるダメージは、とりわけ大きかった。最高で375馬力だったマスタングのパワーは275馬力まで落とされ、カマロZ28は360馬力から255馬力までダウンした。販売台数も目に見えて低下した。1966年には60万台を売り上げたマスタングは、1972年には7万5000台しか売れなかった。

これを受け、1974年に登場したマスタングIIは一気にコンパクト化。搭載されたエンジンは、直列4気筒とV型6気筒だけだった。初めてV8エンジンの設定が消滅したのである。マッスルカーの時代を経て、パワーよりも外見でスポーティーさを表現する方法が定着したのだ。

2014年4月17日、全米3カ所でマスタング50周年を祝うイベントが行われた。西海岸のラスベガス・スピードウェイと東海岸のシャーロット・スピードウェイに数千台のマスタングが集まり、ニューヨークでは50年前と同様に、エンパイアステートビルの86階にある展望台に実車が展示された。バラクーダは1974年に生産が終了し、カマロ、チャレンジャーはともに一時期生産が中断されている。ポニーカーの時代からブランドを継続させてきたのは、マスタングだけである。

1964年の出来事

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ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー開始

その年に発売されたクルマの中から最も優秀なモデルを選ぶカー・オブ・ザ・イヤーというイベントは、1964年にヨーロッパで始まった。ヨーロッパの5カ国以上で年間5000台以上が販売されることがノミネートの条件で、ごく少数が作られる特殊なモデルは対象とならない。

主催するのはイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、スペイン、スウェーデンの7カ国で自動車雑誌を発行しているメディアで、国や自動車メーカーは関わらない。

1964年の第1回ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーに選ばれたのは、ローバー2000だった。1963年に発売された中型乗用車で、2000ccの直列4気筒エンジンを搭載していた。1968年に登場した3500cc V8エンジン搭載モデルは、ローバー3500と呼ばれる。

ド・ディオン・アクスルやインボードブレーキを採用した先進的な設計を取り入れていて、選ばれた理由として“優れた乗り心地とハンドリング”が挙げられていた。この時に次点だったのがメルセデス・ベンツ600、3位はヒルマン・インプだった。

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ホンダがアメリカで「ナイセストピープル・キャンペーン」

1959年、ホンダはロサンゼルスにアメリカン・ホンダ・モーターを設立する。国内での基盤が固まったので、次の段階として世界に乗り出す拠点を作る。東南アジアのほうが有望な市場であるとの報告があったが、世界一の市場であるアメリカで成功することが必要だと考えた。

しかし、アメリカは難しい市場だった。そもそも、オートバイは年間5、6万台しか売れない。自動車大国であり、モーターサイクルはレジャーやレースで使うものだと思われていた。しかも、オートバイはアウトローが乗るものというイメージが流布していた。

それでもホンダの製品はオイル漏れがなく信頼性が高いということで、1961年には月間1000台の販売を達成する。さらに売れ行きを伸ばすために考えられたのが、広告戦略である。1963年、ホンダはこれまでにないキャンペーンを始める。

キャッチコピーは「You meet the nicest people on a Honda(素晴らしき人々、ホンダに乗る)」で、ポスターには主婦や若いカップルなどの“ナイセストピープル”がスーパーカブに乗る姿が描かれた。これまではオートバイとは無縁と思われてきた普通の人たちで、手軽な移動手段であることを印象づけたのだ。

1964年4月、ホンダは勝負をかけた。アカデミー賞のテレビ放送のスポンサーになり、90秒のCM2本を流したのだ。かけられた広告費は30万ドル(約1億円)と、実に年間広告予算の半分に相当した。このキャンペーンが功を奏してホンダは全米に知られるオートバイメーカーとなり、売り上げを爆発的に伸ばすことになる。

topics 3

東海道新幹線開通

東海道は律令時代の行政区画である五畿七道のひとつで、三重県から茨城県に至る太平洋沿岸の地方である。諸国の国府を結ぶ道を指す言葉でもあり、江戸時代に五街道が定められて基幹街道とされた。日本橋を起点とし、京都までを結ぶ。明治になると国道が指定され、国道1号は東海道をなぞる形になっている。

鉄道の建設も行われ、1889年に新橋駅から神戸駅までの路線が開通した。東海道本線にあたるもので、所要時間は20時間5分だった。全線が電化されたのは1956年で、所要時間は7時間30分まで短縮されている。しかし、需要の伸びはこうした輸送力の拡大を上回るものだった。そこで高速鉄道の新線が計画され、1959年に着工。東京オリンピック直前の1964年に東海道新幹線が開業した。

当初、東京と新大阪を結ぶ「ひかり」の所要時間は4時間ちょうどだったが、翌1965年には3時間10分に短縮された。最高速度は210km/hである。1992年には「のぞみ」が登場し、所要時間は2時間30分になった。2007年にN700系が投入され、2時間25分にまで短縮された。最高速度は270km/hである。

新幹線は山陽、上越、北陸、東北、九州の各路線が開業し、6路線となった。山形、秋田は在来線を改軌したミニ新幹線である。現在、中央新幹線の構想が進められていて、設計速度505km/hのリニアモーターカーを使って67分で東京-大阪間を結ぶ予定になっている。

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[ガズー編集部]

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