わたしの自動車史(後編) ― 大川 悠 ―

初代プリンス・グロリア
シトロエン2CV
プジョー20
ルノー16

1965年秋、日々の生活は暗かった。東京、中野のアパートでどう生きるか悩んでいた。中学時代にクルマを運転した私は、祖父が車をプリンス・スカイライン、初代グロリア、やはり初代のセドリックと買い換えるたびに、高校生の分際でそれを乗り回していた。だが孫に社用車を平気で使わせることに象徴される奔放経営がたたり、私が大学に入った頃、会社は銀行管理となっていた。
一挙に生活は苦しくなり、同時に学業に対する気持ちも離れていた。この頃、大学には退学届を出し、アパートの一室で、これからどうやって生きるか、迷っていた。最新版の『CG』(当時はCARグラフィック)が手元に届いたのはそんなときである。実は編集者に知り合いがいた関係で、『CG』は創刊時から送られていたし、鈴鹿での日本GP取材のお手伝いもするなど、何かと縁があった。
人生に迷っていた私の目に、その『CG』の最後のページにあった「編集部員募集」の告知が飛び込んできた。暗闇の中に光明を見つけたような気持ちだった。あわてて近くの公衆電話にかけより、指示されるがまま数日後に千駄ヶ谷にあった編集部を訪れた。1965年10月、22歳のとき、私の人生は導かれた。

16歳で免許を取ってプリンス・グロリアを乗り回していた高校生はその頃から同時に、どうしようもないフランスかぶれだった。よく理解もできないのにサルトルやボーヴォワールの世界に引かれ、ヌーヴェルヴァーグの映画に浸るために何時間も映画館の暗闇で過ごした。とても恥ずかしいことだが、その世界を気取って黒いセーターを着込んでブラックのグロリアを運転していた。
そのフランスかぶれを卒業できぬまま、69年、最初に買ったのが2馬力、つまりシトロエン2CVである。初めてのクルマはこれでなくてはならない。前からそう思い込んでいた。このクルマには精神生活や人生哲学の全てに通じる理想や自由があるような、そんな錯覚をいだいていた。就職するなり早くして家庭を持って社会的責任があるというのに、中古の2馬力を勝手に買って帰ったとき、家内は暗い顔をした。無理もない。その時の2馬力の値段は、当時の年収にほとんど近かったからだ。会社の別部門の役員から「なんでお前はそんなばかな行動をするんだ」と怒られたのを今でも覚えている。

そうやってクルマと仕事との長い旅が始まった。2馬力はプジョー204に変わったり、ルノー16へと変化したりした。いつもいつも古いフランス車はこわれてばかりいて、お金もない私にとっては悪戦苦闘の連続だった。だが、そうやって単なる移動道具を超えたような、独特の個性を持ったクルマと過ごすうちに、私のクルマに対する考えもまた変化してきた。走ったり、乗ったり、機械として分析したり、趣味の対象として愛するのではなく、こういったクルマたちが生まれ、受け入れられ、使われている社会や、その背後にある文化や人間の心の方に次第に関心が移るようになっていった。

私の心は次第に『CG』的な世界とは違う、人とクルマとの織りなす場を求めるようになった。そしてそれが『NAVI』(※)という場に着地するのだが、それはまた別の物語である。

※……大川氏が初代編集長を務めた新しい自動車雑誌。1984年創刊。

【編集協力・素材提供】
(株)webCG http://www.webcg.net/

[ガズ―編集部]