1989年という特異点(1989年)
よくわかる 自動車歴史館 第37話
ハイテクで世界に衝撃を与えたGT-R
日本車が世界一になったのは、1980年である。ただし、これは自動車生産台数の話だ。品質や性能が評価されたからこそ世界中で売れるようになったわけだが、それは価格とセットになった価値でしかない。ステータスの面では、メルセデス・ベンツやBMW、ジャガーといったヨーロッパの高級車に水をあけられていた。
名実ともにトップクラスに肩を並べたのは、それから9年後である。1989年は、日本車にとって特別な年となった。世界をリードするクルマが、続々と登場したのである。
まずは8月、日産がスカイラインGT-Rを発売した。1969年のPGC10型から始まる“最速グレード”を示すGT-Rのバッジは久しく途絶えていたが、16年ぶりに復活した。
R32型と呼ばれる新GT-Rは、最新のテクノロジーを備えていた。エンジンは2.6リッター直列6気筒で、ツインターボによって280psの最高出力を得ていた。当時はエンジン出力の“自主規制”が行われていたので280psに抑えられたが、レース用にチューニングしたものでは、800psを超えることもあった。
高出力を支えたのは、ハイテクで武装した足まわりである。駆動方式はATTESA(アテーサ)E-TSと名付けられた電子制御トルクスプリット4WDを採用し、前後輪のトルクを0:100から50:50まで自動的に無段階で変化させた。また、HICASと呼ばれる四輪操舵(そうだ)機構も採用している。高速時には安定性を高めるために後輪を同位相方向に操舵し、コーナリング時には逆位相に操舵して回頭性を高める。車速や舵角をセンシングして電子制御し、最適な操舵を実現する機構だ。ハイパワーと電子制御の組み合わせで高性能を実現するという最先端の技術が、世界に先駆けて試みられていたのである。
R32 GT-Rはレースでも無敵を誇り、国内選手権のJTC(全日本ツーリングカー選手権)はあまりの性能差で事実上のワンメイクレースになってしまった。このモデルは国内専用で輸出はされなかったが、ハイテクを駆使して高性能を得たGT-Rは世界中の自動車メーカーに衝撃を与えた。
ライトウェイトスポーツを復活させたロードスター
それに続き、9月にデビューしたのがユーノス・ロードスターである。ユーノスというのは当時マツダが展開していた販売チャンネルで、海外にはマツダMX-5の名で輸出された。車名の示すとおり、1.6リッター120psの4気筒エンジンを積む小型のオープン2シーターである。GT-Rのように特別なメカニズムを備えていたわけではないが、このクルマが世界に与えた影響は甚大なものだった。自動車の新たな可能性を掘り起こしたからである。
1950年代から60年代にかけて、MGやトライアンフ、ロータスなどが魅力的なオープンスポーツを製造していた。日本にも、ダットサン・フェアレディやホンダのSシリーズがあった。しかし、その後このライトウェイトスポーツといわれるジャンルはほとんど死滅してしまう。1980年代にもオープンカーは存在していたが、メルセデス・ベンツSLやシボレー・コルベット コンバーチブルなどの大型高級車ばかりだった。マツダは、衰退していたジャンルに向けて、総力をあげて新車を開発したのである。
80年代には小型車のFF化が進んでいたが、マツダはわざわざ新しくコンパクトなFRのプラットフォームを作った。FFになったファミリアのシャシーを流用する案もあったが、ハンドリングを重視して妥協しなかったのだ。サスペンションは前後ともにダブルウィッシュボーンを採用し、ボンネットをアルミニウム製にするなど軽量化にもこだわった。ライトウェイトスポーツを復活させるために、FRで優れた足まわりを持つ軽量なクルマを作ろうと考えたのだ。しかも、価格は170万円というリーズナブルなものだった。
マツダの無謀な挑戦を、世界中の自動車メーカーは冷ややかに見守っていた。成功するはずがないと思っていたのである。しかし、ユーノス・ロードスターはマツダさえも予測しなかった大ヒットを記録することになった。自動車を意のままに操るという爽快な楽しさは、洋の東西を問わずクルマ好きをとりこにした。オープンカーの爽快さとスポーツカーの軽快なフットワークを人々に思い起こさせたのだ。
この成功を見て、ヨーロッパの自動車メーカーもコンパクトなオープンスポーツを次々に作り始める。BMW Z3、ローバーMG-F、フィアット・バルケッタなどだ。少し上のクラスでは、メルセデス・ベンツSLKやポルシェ・ボクスターなどが登場した。世界の自動車作りのトレンドを、日本のメーカーがリードしたのである。ユーノス・ロードスターの累計生産台数は2000年に53万1890台に達し、「世界で最も多く生産された2人乗り小型オープンスポーツカー」としてギネスブックに認定された。
レクサスが高級車の定義を変えた
10月、トヨタは大型高級サルーンのセルシオを発売した。クラウンを大きく上回るサイズで、4リッターのV8エンジンを搭載するモデルである。洗練されたデザインと電子制御で実現したソフトな乗り心地が高い評価を受け、この年のカー・オブ・ザ・イヤーにも選ばれた。ただ、アメリカではすでにこのモデルの販売が始まっていた。もともとは、北米中心への輸出専用車として企画されていたのである。海外では、レクサスLS400というモデル名で販売された。
1980年代、アメリカのマーケットを日本車が席巻していた。ガソリン代の高騰によって燃費の悪いアメリカ車が敬遠され、小型で品質のいい日本車がシェアを伸ばした。トヨタはカローラとクレシーダ(日本名マークII)で攻勢をかけ、ピックアップトラックのハイラックスも投入していた。アメリカでは、優れた大衆車とトラックを製造するメーカーとして人気を集めていたのだ。しかし、この時期は急激な円高が進行して利益率が下がり、格安な韓国車が市場の底辺を侵食し始めていた。トヨタは戦略の練り直しを迫られ、ターゲットの上級移行を模索していた。
しかし、高級車の市場はヨーロッパ勢に押さえられていた。そして、そもそもトヨタは輸出すべき高級サルーンを持っていなかった。クラウンは国内専用車として開発されたモデルで、アメリカ市場は考慮していない。まったく新しいプレステージカーを開発する必要があった。メカニズム、デザインともに経験のない分野である。1983年頃からさまざまな検討が始まり、1986年に開発計画が正式に決定された。「トヨタの50年に及ぶ自動車製造上の経験を生かし、究極的な高級車を製造する」と高らかに宣言したのである。
モデルの開発は進んだが、もうひとつ解決しなくてはならない問題があった。大衆車のイメージの強いTOYOTAブランドは、高級車の販売チャンネルとしてはふさわしくない。メルセデス・ベンツやBMWに対抗しうる新たなブランドを構築する必要があった。全米から第1期として100のディーラーが選定され、レクサスのモデルを販売することになった。
LS400はアメリカのヤッピー(「young urban professionals」の略、都会で暮らす若手のビジネスマン)たちに熱狂的に迎えられた。時速160マイルでも安心して走ることができ、燃費性能も優れている。何よりも、比類のない静粛性は驚異的だった。J.D.パワー社の新車購入ユーザーの品質評価では、いきなりメルセデス・ベンツをしのいでトップとなった。広告キャンペーンでは“完璧への飽くなき追求”という言葉が使われていたが、それが事実であると認められたのである。レクサスは“世界の高級車の定義を変えた”とまで評されることになった。
1980年代は、日本車が世界に目を向け、先達(せんだつ)たちに追いつこうと努力して飛躍的に性能を伸ばした時代である。世の中はバブル景気で潤い、日本中が活気にあふれていた。その勢いが1989年に結実し、“日本車のヴィンテージイヤー”と呼ばれる特異点となった。日本車は、世界から追いかけられる存在になったのである。
1989年の出来事
topics 1
メルセデス・ベンツがルマンで37年ぶりに優勝
1955年のルマン24時間レースで、モータースポーツ史上に残る大惨事が発生した。きっかけは、マイク・ホーソーンのジャガーがピットインのために急減速したことだった。後ろを走っていたオースチン・ヒーレーが追突を避けるために進路変更し、そこにピエール・ルヴェーのメルセデス・ベンツ300SLRが接触する。マシンは宙を舞い、グランドスタンドのすぐ前に落下した。観客席に炎上したマシンの一部が飛び込み、80人以上の死者を出した。
この事故を受け、首位を走っていたメルセデスチームは夜半過ぎになってレース中止を決定する。そしてルマンからの撤退だけでなく、すべてのモータースポーツから手を引いた。ようやく復帰したのは、1980年代になってからである。
1989年のルマンには、シルバーアローカラーのザウバー・メルセデスがC9で参戦し、1-2フィニッシュを飾った。メルセデスチームがルマンで優勝したのは1952年以来であり、実に37年ぶりの勝利だった。この年のWSPCシリーズでは、8戦中7勝をあげるという圧倒的な強さを見せつけた。
1999年、メルセデスチームは自信を持ってニューマシンCLRでルマンに挑んだ。しかし、このマシンは3度にわたってダウンフォースを失い、宙を舞って落下した。幸いなことに犠牲者は出なかったが、チームは棄権を決断する。それ以来、ルマン24時間レースにメルセデス・ベンツは姿を現していない。
topics 2
昭和が終わり平成に
1988年9月19日、昭和天皇は吹上御所の寝室で激しく吐血し、日本赤十字社から血液輸送車が急行した。侍医長らが駆けつけて深夜の皇居周辺は騒然とし、翌日からメディアが過剰ともいえる報道合戦を繰り広げた。
皇居前をはじめ各地に記帳所が設けられ、病気平癒を願う人々が列をなした。記帳者は1週間で235万人にのぼったという。世の中は“自粛ムード”一色になり、いわゆる歌舞音曲が控えられる傾向が広がった。日産セフィーロのCMで「みなさん、お元気ですか?」というセリフが失礼に当たるとして音声が消されるなどの事態も起きた。
3万1000ccに達する輸血もあって病状は一時回復し、笑顔で話せるようになった。闘病は111日間に及んだが、1989年1月7日の早朝、天皇は崩御する。昭和は64年で幕を閉じた。
同じ日の午後2時半過ぎ、小渕恵三官房長官が会見を開いて新しい元号「平成」を発表した。『史記』五帝本紀の〈内平外成(内平らかに外成る)〉、『書経』大禹謨の〈地平天成(地平らかに天成る)〉から取られ、「国の内外にも天地にも平和が達成される」との願いを込めたと説明した。
平成元年となった2月24日、大喪の礼が執り行われ、163カ国から元首級55人を含む人々が参列した。
topics 3
ベルリンの壁崩壊
1945年にドイツが連合国に降伏すると、アメリカ、イギリス、フランスが占領した西ドイツと、ソ連が占領した東ドイツに分断された。首都ベルリンも分割統治されたが、全体が東ドイツの中に位置していたので、連合国管理地域である西ベルリンは、あたかも西ドイツの飛び地のような形になってしまった。
ソ連の統治を嫌う東ドイツ国民は、西ベルリンに逃亡するようになった。年間数万から数十万人の国民が流出する事態に至り、東ドイツは壁の建設を決定する。1961年から建設が始まり、1975年に完成した。総延長は、155kmに及ぶ。壁が作られても西側に亡命しようとするものは後を絶たず、乗り越えようとして射殺された者も多い。
1980年代に入るとポーランドで「連帯」による民主化運動が始まり、東側諸国の盟主であるソ連でもゴルバチョフによる改革が進んだ。1989年になるとハンガリーで「汎ヨーロッパ・ピクニック」と称してオーストリアに越境する運動が始まった。混乱の中で東ドイツ政府は11月9日に旅行自由化の政令を発表し、東ベルリン市民が検問所に殺到する。翌日になると興奮した人々がハンマーやつるはしを持って集まり、長い間東と西を分けていた壁はあっけなく崩壊した。
翌1990年には東ドイツで自由選挙が行われ、ドイツ統一を主張する勢力が勝利する。その後周辺国を交えて交渉が進み、10月3日、ついにドイツは再統一された。1991年にはソビエト連邦も崩壊し、東西対立で成り立っていた世界の構造は大きく転換していく。
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[ガズー編集部]
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