中島飛行機の栄光(1953年)
よくわかる 自動車歴史館 第55話
戦略爆撃の第1目標となった武蔵製作所
1944年11月24日、マリアナ諸島を飛び立ったアメリカ軍のB29部隊は、ターゲットナンバー90.17-357を目指した。東京都北多摩郡武蔵野町にあった中島飛行機武蔵製作所である。半年ほど前にアメリカ軍はサイパン島を陥落させ、日本を爆撃する基地を築いていた。東京はB29の航続距離の中に収まることになり、それ以降激しい空襲が続くことになる。武蔵製作所は1945年8月8日まで計9回にわたって爆撃され、壊滅的打撃を受けた。爆撃機数はのべ505機に及び、投下された爆弾は2602.5トンというすさまじさだった。
中島飛行機が戦略爆撃の目標となったのは、日本の戦力を奪うのに最も効果的だったからだ。第2次世界大戦では航空機による戦闘が最も大きな意義を持つようになっており、制空権を得た側が圧倒的に有利な戦いを進めることができた。中島飛行機武蔵製作所では戦闘機や爆撃機のエンジンと機体を組み立てていて、生産能力を奪ってしまえば日本の戦力は大幅にダウンする。日本で1927年から1945年までに生産された3万578機の戦闘機のうち、半数以上の1万6763機が中島飛行機で作られている。アメリカ軍が爆撃の第1目標にしたのは当然だった。
戦争の時代に生まれて兵器となる航空機を生産したが、中島飛行機がその中で培った技術力は戦後に平和な産業で大きく花開くことになる。1953年に誕生した富士重工業は、中島飛行機が離合集散を重ねた末にたどり着いた姿だ。スバルは戦後の日本自動車史の中で重要な位置を占め、水平対向エンジンと四輪駆動を組み合わせたユニークなパワートレインを持つことで世界に知られている。
プリンス自動車も、中島飛行機の技術者たちが多く参加して誕生した会社だ。独立して存在した期間は短かったが、高い技術力によって革新的な名車を生み出した。1957年にデビューしたスカイラインは、今もその名を継ぐモデルが作り続けられている。富士重工もプリンスも、中島飛行機の哲学を継承してクルマ作りに魂を吹き込んだ。優秀な人材を育てた日本最大の航空機メーカーの物語は、一人の先覚者の苦闘から始まる。
軍隊をやめて航空機事業を立ち上げる
1884年(明治17年)に群馬県新田郡尾島村(現在の太田市)の農家に生まれたのが、中島知久平である。長男として家業を継ぐ立場だったが、ロシアなどの三国干渉に憤った彼は、軍人になることを決意する。中学への進学を許されなかった彼は16歳になると家出して上京し、3年後に海軍機関学校に入学した。優秀な成績で卒業した中島は海軍軍人となるが、その時すでに船よりも飛行機に大きな関心を抱いていた。1903年にライト兄弟が初飛行に成功し、その将来性に心を奪われたのである。
当時の飛行機の性能は貧弱なもので、有用な兵器になると考えるものはほとんどいなかった。中島は早くから飛行機の価値を高く評価し、研究を進めていた。彼は海軍大学の選科学生となり、海軍航空術研究委員会に参加した。アメリカに渡り、飛行士のライセンスを取得する。飛行機が必ず国防の主役になるという確信は強まっていったが、軍隊では飛行機を活用しようという動きがなかなか広がらなかった。彼は軍人にとどまるよりも民間で航空機の事業を立ちあげるほうが効率的であると考えるようになった。1917年に海軍を退役し、故郷に飛行機研究所を設立する。
中島はまず機体の製作にとりかかり、失敗を重ねた後にホールスコット120馬力エンジンを搭載した四型でようやく満足のいく製品を作り上げた。性能の高さが評価されて1919年に陸軍から20機の発注を受け、中島飛行機と改称していた飛行機工場は本格的な生産を開始した。1925年には東京に工場を設置し、エンジンの製作も始めた。事業を軌道にのせたところで、中島は政治家に転身する。1930年に衆議院議員に初当選した彼は、後に近衛内閣と東久邇内閣で閣僚を務めることになる。
中島が社長を辞した頃から、国際情勢は騒然とした気配を漂わせていた。日本では戦闘機の生産を強化するため、各航空会社に競争試作をさせるようになった。1932年には、中島飛行機の九一式戦闘機が陸軍に制式採用されている。日中戦争の始まった1937年、陸軍初となる全金属製低翼単葉型の九七式戦闘機が制式機となった。1941年には隼の名で知られる一式戦闘機、1944年には疾風と呼ばれる四式戦闘機が制式採用された。
陸軍の主力戦闘機は、中島飛行機が生産を担うことになった。対して海軍では三菱重工業の九六式艦上戦闘機が制式採用され、1940年から零戦こと零式艦上戦闘機が主力戦闘機となった。ただ、零戦が搭載していたエンジンは中島飛行機製の空冷星形14気筒「栄」である。さらに中島飛行機は機体のライセンス生産も行い、1万425機のうち6割以上の6545機が中島製だった。
戦争が終わると、軍需工場である中島飛行機は生産を中止した。もっともB29の爆撃によって工場は破壊しつくされており、生産能力はほとんどないに等しかった。終戦の翌日には定款を変更して富士産業株式会社と改称し、平和産業への転換を模索する。しかし、GHQから4大財閥に準ずるものとして解体命令を受け、解散を余儀なくされた。
自動車製造に転身した技術者たち
富士産業は12社に分けられ、それぞれ民需転換を図っていく。ただ、GHQは航空機の研究・生産を禁じており、他分野に進出しなければならなかった。戦災を免れた機械を使い、鍋や釜、乳母車などを作って当座の糧とした。最先端の技術を担っていたエンジニアたちの中には、片手間仕事に飽きたらない者も多かった。太田工場と三鷹工場では、スクーターの製造に乗り出す。残っていた爆撃機「銀河」の尾輪を利用し、135cc単気筒エンジンを載せたモデルを試作した。ラビットと名付けられて量産化されると、手軽な乗りものとして人気を博した。
「隼」などの生産を請け負っていた立川飛行機の技術者たちは、電気自動車「たま」を製造していた。燃料事情の悪い中で一定の需要があったが、バッテリー価格の高騰などからガソリン自動車への転換を図ることになる。中島飛行機の荻窪工場を母体とする富士精密工業と提携し、1952年にプリンス自動車が誕生した。技術部門を主導したのは、中島飛行機で「誉」エンジンの設計主任を務めた中川良一である。
1952年に初のガソリン自動車となったプリンス・セダンを発売し、本格的な自動車会社としての歩みを始める。1957年に発売したスカイラインは、セミモノコックボディーに前輪ダブルウィッシュボーン、後輪ド・ディオンアクスルを採用する意欲的な設計で、1.5リッターエンジンの搭載により、最高速度125km/hを誇った。モデルチェンジした2代目モデルは、1964年に第2回日本グランプリでポルシェとデッドヒートを繰り広げたことで今も記憶に残る。プリンス自動車は1966年に日産自動車に合流し、その精神を後に伝えている。
1950年にぼっ発した朝鮮戦争を契機に、GHQの占領政策は一変した。財閥解体の動きを緩和し、戦争遂行のために日本の工場を活用する方針をとったのである。1952年にサンフランシスコ講和条約が発行すると、接収していた土地や建物の返還も始まった。解体されていた中島飛行機の再合同への機運が高まる。1953年に富士工業(太田、三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)、大宮富士工業(大宮工場)、東京富士産業(旧・中島飛行機・本社)、宇都宮車輛(宇都宮工場)の5社が出資して富士重工業株式会社が誕生した。
富士重工は練習機ビーチクラフトT-34メンターのライセンス生産を請け負った。航空機製造への復帰を果たしたのだ。1954年に富士重工は5社を吸収する形で完全な合同を実現する。スバルのマークとなっている六連星は、この経緯を表したものである。
「誉」エンジンの改造を担当していたエンジニアの百瀬晋六は、伊勢崎工場が母体となった富士自動車工業でバスボディーの設計を始めた。モノコックボディーを採用したリアエンジンバスで、残っていたジュラルミンの薄板にリベットを打って仕上げていた。飛行機を作ることはできなかったが、同じような技術でバスを作ったのである。
1952年からは小型乗用車の開発がスタートした。バスの需要はそのうちに頭打ちになると予測し、大きく伸びる可能性のある乗用車を会社の柱にしようと考えたのだ。軽量化が最優先事項だった戦闘機のモノコックボディー技術を生かしたのは当然だが、乗り心地や操縦安定性という飛行機にはなかった項目では苦労を重ねた。エンジンは、富士精密で作っていた1.5リッターを使うことにした。しかし、ブリヂストンの資本が入っていた富士精密はプリンス自動車と合併することになり、エンジンの供給が受けられなくなった。
代わりに大宮富士工業で開発していた同じ1.5リッターのL4型を採用し、試作車P-1が完成する。スバル1500と名付けられて市販化目前となっていたが、最終段階で計画は頓挫した。大規模な資本投資が必要な生産化のめどが立たず、スバル1500は“幻の名車”となってしまった。完成車は富士精密製のエンジンを搭載したモデルも含めて20台が作られており、タクシーとして使われたものもある。大学の研究室や自動車会社が集まって開催された“遠乗り会”にも参加し、高い評価を受けた。
P-1の代わりに浮上したのが、軽自動車K-10計画だった。百瀬が中心となって開発が進められ、1958年にスバル360が発売された。フルモノコックの超軽量ボディーには、航空機製造で培われた技術が応用されているといわれる。安価で実用性の高いスバル360は大人気となり、日本のモータリゼーションを推進する役割を担った。中島飛行機の栄光の歴史は、日本の自動車産業の礎となったのである。
1953年の出来事
topics 1
サファリラリー初開催
1969年公開の映画『栄光への5000キロ』は、サファリラリーを描いた作品である。日産ブルーバードで参戦するフリーのレーシングドライバー五代高行を石原裕次郎が演じ、アフリカロケを敢行した。
サファリラリーは灼熱(しゃくねつ)のサバンナを駆け抜け、スコールでぬかるむ悪路を走らなければならない過酷なコースで知られ、クルマの耐久性が試されることになる。日本でも知名度が高く、各メーカーが参戦して技術力をアピールした。日産は1966年に初めてクラス優勝しており、これが映画の題材となっている。
サファリラリーが初開催されたのは、1953年である。エリザベス女王の即位を記念して催されたもので、当時イギリス植民地だったケニア、ウガンダ、タンザニアにコースが設定された。
1973年からはWRCイベントのひとつとして開催された。日本勢が活躍したラリーとしても知られており、トヨタ、日産、三菱、スバルが優勝している。ただ費用がかかることもあり、2003年からはWRCのカレンダーから外されている。
topics 2
トヨペット・スーパー発売
戦後、トヨタはサイドバルブのS型エンジンを開発し、1947年に小型乗用車SA型を発売する。バックボーンフレームを採用し、流線型のボディーを持った先進的なモデルだった。全国からの公募で選ばれたトヨペットという愛称が付けられていた。
S型エンジンはSB型トラックなどにも搭載され、乗用車ではSD型、SF型などが作られることになる。しかし、1.0リッターで30馬力に満たないパワーでは、当時の基準でも物足りなかった。
1953年に、新たなエンジンが登場する。1.5リッターOHVのR型エンジンである。最高出力は48馬力とS型から飛躍的に増大したが、燃費性能も高かった。このエンジンを搭載した4ドアセダンが、トヨペット・スーパーである。
ラダーフレームに四輪リーフリジッドという堅牢(けんろう)な構成で、頑丈さを求めたタクシー業界からの要求に応えた。ボディー架装は2種類あり、RHK型とRHN型に分かれる。
R型エンジンは初代クラウンにも搭載され、その後排気量アップやバルブ機構の変更などを受け、大きく形を変えて1993年まで製造された。
topics 3
NHKがテレビ本放送開始
1926年、浜松高等工業学校の助教授だった高柳健次郎が、世界で初めてブラウン管による電送画像の受像実験に成功する。画面に映し出されたのは、「イ」という文字だった。
テレビ放送が始まったのは、それから27年後の1953年である。2月1日の午後2時、東京・内幸町のスタジオからNHKが開局式典を放送した。続いて舞台劇の『道行初音旅』を中継し、アイゼンハワーのアメリカ大統領就任を伝えるニュース映画が流された。
午後4時から6時半まで中断し、午後9時に放送が終了した。NHKにはテレビカメラが5台しかなく、録画装置がなかったので映画のほかはすべて生放送だった。
同じ年の8月28日、日本テレビがテレビ放送を開始する。それに先立って繁華街に街頭テレビを設置しており、高級品だったテレビを買えない庶民も番組を楽しめるようにした。翌日にはプロ野球の巨人対阪神戦を中継し、1954年2月にはプロレス実況を伝えた。
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[ガズ―編集部]
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