スーパーカー今昔物語(前編)

スーパーカーの元祖ともいうべき、ランボルギーニ・ミウラ。1966年3月に発表された。
ミウラの車体中央に、横置きで搭載された4リッターV12 DOHCエンジン。最高出力350psを発生する。
ミウラの後継モデルとして誕生したランボルギーニ・カウンタック。最高速300km/hを豪語した。
カウンタックのライバルとなったフェラーリ365GT4/BB。フェラーリが初めて12気筒エンジンをミドに搭載したモデルだった。
3リッターのV8エンジンを搭載した308GTシリーズ。クローズドボディー版が308GTB、デタッチャブルトップ版が308GTSと呼ばれた。

“スーパーカー”という単語そのものは、どうやらかなり古くから使われていたようだ。けれども、日本人のわれわれがスーパーカーという場合、それは60年代半ばに誕生したイタリアンエキゾチックカーを由来とする、一連の“マルチシリンダーエンジン・ミドシップ”の2シーター・ロードカーを指す(ということに、ここではしておきたい)。

どうしてミドシップに限定するのかというと、われわれが思うスーパーカーとは性能がスーパーなだけではなく、いや、それにも増して、スタイリングがスーパーでなければならない、と思うからだ。エンジンをドライバーの後ろに積めば、必然的に平べったくてフツウのクルマとはまるで異なるスタイリングとなる。性能とカタチが非日常的であることが、スーパーカーのスーパーたるゆえんだと考えたい。

始まりは、ランボルギーニ・ミウラだった。60年代も半ばにさしかかると、ヨーロッパのみならずアメリカでもモータースポーツが興隆の兆しをみせ、巨大メーカーの参戦が相次ぎ、人々の“高性能モデル”への欲求が高まっていた。

同じころ、トラクター生産をはじめとした機械事業で財を成し、カーマニアでもあったフェルッチョ・ランボルギーニによって設立されたサンタアガタ・ボロネーゼの新興メーカーは、当初、性能と快適さでフェラーリを上回る高性能GTの生産を目指していた。ところが、65年のトリノショーにおいて、突如、自社製V12 DOHCエンジンをミドに横置きしたベアシャシーを発表。いよいよランボルギーニもモーターレーシングへ参戦か、と思わせたが……。

翌年の同ショーに、ランボルギーニが持ち込んだのは、ミウラと名付けられた美しいベルトーネ製スタイリングのイタリアン・ベルリネッタであった。マルチシリンダーエンジンのミドシップ・ロードカーといえば、過去にレーシングカー転用モデルが数例あるのみだったから、いきなりロードカーとして登場したこのV12ミドシップカーに、当時の人々が驚愕(きょうがく)したことは想像に難くない。

ミウラの誕生をきっかけにして、フェラーリはディノとBBシリーズを、デ・トマソはマングスタやパンテーラを、マセラティはボーラ&メラクを、相次いでリリース。ランボルギーニもまた、ミウラの後継モデルとして、未来志向のスタイリングをまとったカウンタックを発表するに至って、大排気量エンジン・ミドシップの2シーターモデルが、高級車のいちジャンル=スーパーカー・カテゴリーとして確立されてゆく。

もっとも、スーパーカーの黎明(れいめい)期は受難の時代でもあった。70年代になると、オイルショックや排出ガス規制によって、高性能車ビジネスにも暗雲が垂れ込め、事実、フェラーリ社、ランボルギーニ社ともに、ロードカービジネスの運営はカリスマ創始者の手を離れる事態となっていた。

70年代半ば以降ともなると、スーパーカービジネスといってももはや“ほそぼそ”としたもので、唯一、フェラーリが、スーパーカー民主化の旗頭となるV8ミドシップの308GTシリーズをディノの後継として発表し、何とかビジネスとしての体裁を保つのみ。ランボルギーニは倒産の憂き目に合っているし、他のブランドも軒並み有名無実と化していた。

同じころ、日本ではマンガ“サーキットの狼”をきっかけにして、空前のスーパーカーブームが勃発(ぼっぱつ)する。スーパーカーにとって70年代とは“華の時代”であったかのようなイメージがわれわれ日本人にはあるが、実際には“暗黒の時代”を余儀なくされていたのだった。あの頃に、今のようなライセンスビジネスが確立されていれば、スーパーカーメーカーももっと潤って、一息つけていたのかもしれない。いや、ライセンス許可などの概念がなかったからこそ、ブームは途方もなく広がったというべきか。

(文=西川 淳)

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[ガズ―編集部]

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