ル・マン――マツダの孤独な戦い(1991年)
よくわかる 自動車歴史館 第70話
無念な結果から始まった挑戦
1991年6月22日午後4時、フランス北西部に位置するサルトサーキットでル・マン24時間レースがスタートした。本命と目されたのは前年優勝車のジャガーXJR12で、圧倒的な予選タイムを見せつけたメルセデス・ベンツC11が対抗馬に挙げられた。熟成を重ねたポルシェ962Cも多数がエントリーしており、侮れない力を持っている。
この時点で、マツダ787Bに注目している者は、ほとんどいなかった。日本のテレビ中継でも、ジャガー対メルセデス・ベンツの構図ばかりが強調され、マツダに関してはおまけのように言及されるにすぎなかった。それはある意味当然のことだった。マツダチームは善戦をたたえられることはあっても、優勝を争う力を見せたことはなかったのだ。前年のレースは、惨敗と言ってもいいほどの成績だった。
1923年に始まるル・マン24時間レースにロータリーエンジンが登場したのは、1970年のことだった。ベルギー人がシェブロンB16にマツダの10A型エンジンを搭載して出場したのだ。日本のチームが参加したのは、1973年のシグマオートモーティブが初めてである。マツダとしての参戦は翌1974年で、ディーラーのマツダオート東京がシグマオートモーティブとジョイントする形での出場だった。
マツダオート東京チームは名称をマツダスピードに変更し、1979年にル・マン再挑戦を果たす。前年に発売されたRX-7をベースにしたもので、2ローター13B型エンジンの最高出力はわずか235馬力という非力なマシンだった。倍以上のパワーを持つ強豪たちを相手にしなくてはならず、レースに不慣れなこともあって予選通過を逃すという無念の結果となった。
レシプロエンジンにはない困難に立ち向かう
翌年は参加せずに2年間で体制を整え、1981年は2台体制でル・マンに臨んでいる。この時はアパレルメーカーのJUNがメインスポンサーとなり、派手な宣伝を展開して注目を集めた。しかし、予選は突破したものの2台ともリタイアの憂き目に遭う。経験がものをいうル・マンでは、走り切ることですら難事業なのだ。翌年ようやく初完走を果たし、1983年にはグループCジュニア規定にのっとった717Cを投入した。1986年からはエンジンが3ローターとなり、1987年のマツダ757は総合7位入賞という好成績を挙げる。
それでも、マツダはル・マンの主役からは遠かった。優勝争いはポルシェ、ジャガー、メルセデス・ベンツの3強によって争われており、マツダは自分たちが立てた目標をクリアすることに力を注いでいただけだった。エンジン出力もシャシーも、ヨーロッパの強豪に対抗し得る水準には届いていなかった。
マツダは、孤独な戦いを強いられていた。ロータリーエンジンを搭載したマシンで参戦しているのは、ル・マンからはるかに離れた日本の地方都市にある中堅自動車会社だけだった。レシプロエンジンが数十年にわたるノウハウを蓄積してきたのに対し、ロータリーエンジンを開発しているのはマツダだけなのだ。
ロータリーエンジンをレーシングカーに搭載するには、レシプロエンジンとは異なる問題が発生する。出力を上げるのも簡単にはいかない。レシプロエンジンはボアとストロークを比較的自由に変えられるが、多くのバリエーションを持たないマツダは654ccのローターの数を増やすことで対応することが求められた。1988年から採用された4ローターでも、レシプロエンジン陣営とは100馬力以上の差があった。
放熱量が大きいことも設計の困難度を増した。ラジエーターやオイルクーラーを大型化せざるを得ず、補機類のスペース確保に苦労が多い。エンジンまわりに熱がこもりやすく、実際に高温が原因で不具合を起こし、リタイアに追い込まれたケースもあった。また、エンジンをシャシーの強度を担う構造部材として使うことができないのも、不利な条件だ。コスワースDFVの登場とともに考案された、エンジンをシャシーの一部に代用することで軽量化を図るという方法をとることが難しいのだ。ロータリーエンジンはローターハウジングとサイドハウジングを重ねた構造で、ねじり剛性が弱いという宿命を抱えている。無理に力をかければ、オイル漏れなどのトラブルを起こしかねない。
もちろん、ロータリーエンジンのアドバンテージもある。エンジン自体がコンパクトで、部品点数が少なく軽量だ。往復運動がなくすべてが回転運動なので、高回転化しやすい。そして何よりも重要な点は、耐久性に優れていることだ。1967年に発売された世界初の量産ロータリーエンジン車コスモスポーツは、翌年ニュルブルクリンクで行われた84時間耐久レースのマラソン・デ・ラ・ルートに参加した。ポルシェやBMW、ランチアなどのワークスチームを相手に、初出場ながら4位という好成績を得ている。
ロータリーエンジンの耐久性の高さは評判となり、ヨーロッパやアメリカではプライベーターがマツダのエンジンを購入してマシンを仕立てることが流行した。レシプロエンジンはレースごとにオーバーホールする必要があったが、ロータリーエンジンは1年間使い続けてもほとんど壊れなかったからだ。
最後の戦いでロータリーが勝利
日本では1960年代にトヨタ、日産、タキ・レーシングが覇を争うスポーツカーレースが盛り上がりを見せた。しかし、1970年代に入ると排ガス問題やオイルショックの影響でワークスチームが次々に撤退し、モータースポーツは冬の時代を迎えていた。1983年にホンダがF1に復帰し、ようやくレースに目が向けられるようになってきた。F1と並ぶ人気を誇っていたル・マン24時間レースには、トヨタと日産も参戦した。
1980年代のル・マンはポルシェの時代だった。936、956、962といったターボマシンが猛威をふるい、1981年から7年連続で優勝している。1988年にポルシェの牙城を崩したのが、7リッターの大排気量自然吸気エンジンで挑んだジャガーだった。1989年は、前年にル・マンに復帰したメルセデス・ベンツがワンツーフィニッシュを飾る。6位までをメルセデス・ベンツ、ポルシェ、ジャガーが占め、マツダの最高位が7位だった。
1990年のル・マンは、良くも悪くも日本チームが目立つ大会となった。日産は3チーム5台のワークスチームで臨み、トヨタも3台体制で万全を期した。バブルの残り香で、日本企業のステッカーが貼られたプライベート・ポルシェ勢も大挙して出場した。その中で、優勝候補の一角に挙げられていたのが日産である。メルセデス・ベンツが欠場を決めており、全力でル・マンに取り組んだ日産が勝つチャンスは大きいと考えられた。しかし、日産のマシンにはトラブルが相次ぎ、決勝では5位に終わった。それでも6位に入ったトヨタチームとともに、これまでの最高位だったマツダの7位という記録を破ったことになる。
マツダチームは、最高位が20位という散々な結果だった。しかもそれは旧型のマシンであり、満を持して投入した最新型の787は2台ともリタイアに終わった。しかし、これは勝利を目指して全力を尽くした結果だった。表面的には惨敗であっても、マツダチームは手応えをつかんでいた。
翌年の再挑戦を期したが、問題が残っていた。レギュレーションが変更され、1991年からは3.5リッターのレシプロエンジンしか使用できなくなることになっていたのだ。多くのチームで開発が間に合わず、旧規定と新規定のマシンが混走することが1990年の終わりになって決定した。ひと安心したが、ロータリーエンジンで挑戦できるのは、間違いなく最後となる。改良を加えた787Bで、ル・マンに最後の戦いを挑む。
トヨタと日産が欠場する中、1991年の予選では、やはりメルセデス・ベンツが速さを見せた。3分31秒270のタイムをたたき出し、マツダで最速だった55号車の3分43秒503に10秒以上の大差をつけた。しかし、予選とは違い、レースでは耐久性がカギとなる。19番グリッドからスタートした55号車は、2時間後には9位にまでポジションを上げていた。予想されていたとおり、マツダはジャガーと互角の戦いを繰り広げることになった。89周目に2台のジャガーを抜き、マツダ55号車は4位となった。抜きつ抜かれつの末にジャガー35号車をかわしたのは、深夜3時のことである。しかし、メルセデス・ベンツはさらに4周前を走っていた。
マツダが浮上したのを見て、メルセデスチームに動揺が走った。予想もしていなかった伏兵の登場に戦略の見直しを迫られたのだ。ここでリードを広げようとペースを上げたことが裏目に出た。午前4時、2位を走っていたマシンに駆動系のトラブルが発生し、ピットで時間を費やすことになる。代わって2位となったマツダの55号車はペースを緩めず、その後もメルセデスチームにプレッシャーをかけ続けた。そして2日目の正午過ぎ、ピットエリアで異変が起きる。メルセデスのマシンがリアから煙を出しており、ピットアウトできずにいるというのだ。そのマシンは、トップを走っていた1号車だった。
午後1時4分、マツダの55号車がコントロールラインを通過した。スタートから20時間余り、ついにトップに立ったのだ。その後もマツダのマシンはトラブルの兆候さえ見せず、3台が走りきった。日本のレーシングカーが、そしてロータリーエンジンを搭載したマシンが、初めてル・マンの栄冠をつかんだのである。
「多くの自動車会社が諦めて去って行った中で、マツダだけが執念を持ち続けていたロータリーエンジンによって、1923年以来、レシプロエンジンだけのル・マンの歴史の中に新しい歴史を創った。これは単なるレースの勝利とは異なった大きな意義を持つ」 勝利の報に接して、ロータリーエンジンの生みの親ともいうべき山本健一氏が記した万感の思いである。
1991年の出来事
topics 1
アンフィニRX-7発売
1973年のオイルショックで、マツダは苦境に陥った。ガソリン価格の高騰でロータリーエンジンの燃費の悪さが嫌われ、極度の販売不振に直面したのだ。経営が悪化し、メインバンクから役員が送り込まれる事態に至った。
しかし、復活のきっかけとなったのもロータリーエンジンだった。1978年に発売されたRX-7は12A型2ローターエンジンを搭載し、スポーティーな外観と相まって“プアマンズポルシェ”と呼ばれてアメリカで人気となった。弱点の燃費も、以前のエンジンより40%改善されていた。
1985年に2代目となり、ルマンで優勝を遂げた1991年に3代目のモデルが発売された。2代目まではマツダ・サバンナRX-7という名だったが、モデルチェンジを機にアンフィニRX-7となった。1989年にマツダは5チャンネル体制の販売戦略を始めており、RX-7はアンフィニ店専売モデルとなったからだ。
アンフィニ店では、ほかにMS-6、MS-8などが販売されていた。1996年にアンフィニ店はユーノス店と統合され、アンフィニRX-7はマツダRX-7へと再び名前が変わった。
topics 2
AT限定運転免許制度始まる
日本の運転免許は国家資格となっていて、道路交通法によって規定されている。各都道府県の公安委員会が交付し、これを持たずに自動車を運転することはできない。練習のための仮免許、一般的な第一種免許、業務用の第二種免許がある。
第一種免許の中にも16歳で取得できる原付免許から21歳で取得資格を得る大型免許までいくつかの種類があり、通常は普通免許が運転免許と呼ばれる。さらに1991年に加えられた規定が、トランスミッションの区別による分類である。
従来はマニュアルトランスミッションを使う技術を取得することが義務付けられていたが、オートマチックトランスミッション限定の運転免許が新たに設けられた。クラッチペダルのないクルマがAT車とされており、2ペダルであれば機構的にはロボタイズドMTと分類されるクルマでも運転が許される。
2010年から運転免許取得者に占めるAT限定免許の割合が半数を超えはじめ、2013年の段階では、AT限定が55%となっている。
topics 3
湾岸戦争ぼっ発
1990年8月2日、イラク軍がクウェートへの侵攻を開始し、瞬く間に全土を占領して8日には併合を宣言した。イラクは1988年までイランと8年にわたって戦争状態にあり、莫大(ばくだい)な戦費を浪費したため財政危機に直面していた。石油を売って外貨を獲得するには、増産を続けて原油価格下落の原因のひとつとなっているクウェートが障害となっていた。
イランとクウェートの間にはそれまでにも領有権をめぐる争いがあった。それでも実力行使に出ることは予想されていなかったが、サダム・フセインは機甲師団10万人に出動命令を下した。国際社会の反発は強く、国連安全保障理事会は即座に撤退を求める決議を採択した。イラクは強硬な姿勢を崩さず、クウェートにいた外国人を自国の軍事施設に監禁して“人間の盾”を築いて抵抗した。
アメリカ軍はサウジアラビアに部隊を展開し、諸国に参戦を呼びかけて34カ国による多国籍軍が結成された。1991年1月17日、イラクへの攻撃が開始される。戦力の差は明白で、2月27日にはクウェートが解放された。3月3日に停戦協定が結ばれ、戦争は終結した。
日本は多国籍軍には参加せず、135億ドルの戦費を負担した。政府の姿勢についてはさまざまな議論が巻き起こり、反戦デモが行われた。この戦争の余波で、マツダチームは2月に予定されていたポール・リカール・サーキットでのテスト走行がキャンセルとなり、マシンの開発に不安を残すことになった。
【編集協力・素材提供】
(株)webCG http://www.webcg.net/
[ガズー編集部]
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