独創のGT-R(1969年)

よくわかる 自動車歴史館 第72話

日本グランプリから始まったスカG伝説

1964年の第2回日本グランプリにおいて、ポルシェ904の前を走る生沢 徹のプリンス・スカイラインGT。
1965年型プリンス・スカイライン2000GT。後に圧縮比を落とし、シングルキャブレターとしたGT-Aが登場したことから、既存の仕様のモデルはGT-Bと呼ばれるようになった。
GR8型エンジンを搭載した純レーシングカーのプリンスR380。1966年の第3回日本グランプリにおいて、ポルシェ906との戦いを制して優勝した。

“スカG伝説”が生まれたのは、1964年の第2回日本グランプリだった。1周だけだったが、生沢 徹のドライブするプリンス・スカイラインGTが式場壮吉のポルシェ904の前に出たのである。ピュアスポーツカーを従えて走る雄姿は人々の目に焼き付けられ、このクルマはレースで戦い続けることを宿命づけられた。

前年の第1回日本グランプリにもスカイラインは参戦していたが、この時はノーマル状態のスカイライン1500での出場で、レース用に改造されたライバルに対しまったく勝負にならなかった。「勝てるクルマを作れ!」と指令され、チューニングに取り組んだのが桜井眞一郎だった。彼は初代スカイラインから開発に関わり、1963年に発売された2代目からは開発主管となっていた。その後も7代目までスカイラインに関わることになる。

桜井は1.5リッター直列4気筒エンジンの改良に取り組み、大幅なパワーアップを果たした。すると、2リッタークラスのマシンも仕上げるように指示され、グロリアの直列6気筒エンジンもチューニングした。桜井は、このエンジンをスカイラインに積めば、GTクラスでも勝てるのではないかと考えた。4気筒用のスカイラインには大きな6気筒エンジンは入らなかったが、鼻先を20センチ伸ばして無理やり積みこむことにする。ホモロゲーション取得のために100台が作られ、GT-IIクラスではポルシェには敗れたものの2位から6位までを独占する圧倒的な力を見せつけた。

ホモロゲ用の100台は瞬く間に売り切れ、翌年2月にウェーバー製キャブレターを3連装した125馬力のスカイライン2000GT(S54B)を発売した。一方、レースでの戦いは、プロトタイプレーシングカーのR380に受け継がれる。エンジンはスカイラインGTのG7型をベースにしたGR8型で、ヘッドをDOHC化して200馬力を得ていた。1966年の第3回日本グランプリではワンツーフィニッシュを果たし、その後も後継モデルのR381が1968年の第5回大会で、R382が1969年の第6回大会で優勝している。

車両価格の半分がエンジンだったPGC10

1969年型日産スカイライン2000GT-R
1969年型スカイライン2000GT-Rのインテリア。走りに関係のない装備は省かれており、ヒーターやラジオなどの快適装備は、ことごとくオプション扱いだった。
S20型2リッター直列6気筒DOHCエンジン。市販車では160馬力とされていた最高出力は、レース車では250馬力を超えていた。

第3回日本グランプリでの勝利の直後、1966年8月にプリンス自動車は日産自動車に吸収合併される形で消滅した。しかしスカイラインの開発はそのまま日産で継続され、1968年にはフルモデルチェンジを受け3代目スカイライン(C10)が登場した。CMキャンペーンから「愛のスカイライン」と呼ばれるようになったモデルである。プリンスの1.5リッターエンジンが受け継がれており、実用的なセダンとして十分な性能を備えていた。一方で、スカGの走りを知る人々の中ではスポーツバージョンに期待する声が高まっていた。

2カ月後に2000GTが登場するが、それは想像とは違うクルマだった。6気筒エンジンを搭載していたものの、日産製のL20型だったのである。シングルキャブレター仕様で105馬力という数字は、S54Bを知る者には物足りなかった。待望のマシンは、東京モーターショーで発表された。展示車のノーズに積まれていたエンジンは、R380のGR8型をデチューンしたものだったのである。

1969年2月、日産スカイラインGT-Rが発売された。PGC10のコードネームで呼ばれるこのモデルは、一見すればおとなしい4ドアセダンである。ただ、フロントノーズにはパワフルなS20型エンジンを搭載していた。最高出力160馬力というのは当時としては異例のハイパワーで、何よりもレーシングエンジンの血統を継いでいることが心に響いた。

車両価格は150万円で、2000GTの86万円に比べるととてつもなく高価だった。ヒーターもラジオもついていない状態での価格である。エンジンを単体で買うと70万円だったので、車両価格の約半分にあたる。DOHC 4バルブの直列6気筒エンジンは、それほどの価値を持っていたのだ。

この6気筒エンジンには、プリンスの母体である中島飛行機で誉エンジンを設計した中川良一が関わっている。シビアな飛行機の世界でつちかった技術が盛り込まれているのだ。オーバークオリティーといわれるほど余裕を持った設計で、高い耐久性を持っていた。理想を追求するあまり重量は増えてしまったが、市販車では160馬力だった最高出力は、カムシャフトやキャブレターを交換するだけで200馬力をオーバーするポテンシャルを秘めていた。最高出力を発生するのは市販車で7000回転、レースでは9000回転まで回しても壊れなかったという。

固定ボルトが異常に多いことも特徴となっている。通常のヘッドボルトに加え、S20にはブロックを貫通して締め付けるスタッドボルトがあった。L20に比べると、約2倍の本数である。クランクシャフトの固定にも、上下だけでなく左右からのボルトを使った。ブロックの剛性を高めるために、通常では考えられない方法が採用されたのだ。

突出していたのはパワーユニットだけではない。足まわりには、日産がローレルやブルーバードで試みた、前:ストラット、後:セミトレーリングアームというBMWスタイルのサスペンション形式を採用。フロントにディスクブレーキを使い、トランスミッションはポルシェタイプの5段である。いたるところに、考え得る最高のテクノロジーが注ぎ込まれていた。

ハードトップボディーで連勝記録を伸ばす

デビュー戦となった1969年のJAFグランプリにおいて優勝した、篠原孝道のスカイライン2000GT-R。
接戦を繰り広げる日産スカイライン2000GT-Rと、マツダ・カペラロータリークーペ。当時、マツダのロータリーエンジン搭載車はスカイラインのライバルだった。
1972年の富士300kmレースで優勝した、高橋国光のスカイライン2000GT-R。この大会が、GT-Rにとって記念すべき通算50勝目となった。
1991年の全日本ツーリングカー選手権において、星野一義がドライブするスカイラインR32GT-R。1989年に登場したR32世代のGT-Rは、初代と同様に圧倒的な強さを見せた。

GT-Rは当然のように即座にレースに投入された。1969年5月3日のJAFグランプリTSレースがデビュー戦である。辛勝ではあったが勝利をおさめ、ここから破竹の連勝が始まった。同年10月10日の日本グランプリ前座レースでは、1位から8位までを独占する強さを見せている。ソレックスのキャブレターに代えてルーカス製インジェクションが与えられており、250馬力を超えるパワーを絞り出していたようだ。

1970年代に入ると、高橋国光のドライブでさらに強さを発揮するようになる。立ちはだかったのは、マツダの送り込んだロータリーエンジン搭載マシンだ。1970年5月3日のJAFグランプリTSレーシングにファミリア ロータリークーペが現れ、GT-R対ロータリーの対決が始まった。この大会では熟成を深めていたGT-Rがワンツーフィニッシュでファミリアを退け、その後も連勝記録を伸ばした。

ロータリー勢が実力を高めていく中、GT-Rは強力な武器を手に入れる。1970年10月、スカイラインに2ドアハードトップが加わり、GT-RもセダンからハードトップのKPGC10型に変更されたのだ。このボディーはドアの数が少なくなっただけではなく、ホイールベースが70mm短縮されていた。この変更がプラスに働き、GT-Rはコーナリング時のバランスが大幅に向上した。車重も20kg軽量化している。

また、レース用のエンジンにはノーマルとは違う素材がふんだんに使われるようになった。コンロッドやバルブはもちろん、ボルトに至るまで軽量なチタン材が用いられた。KPGC10は1971年3月7日の鈴鹿でデビューし、クラス優勝を果たした。通算37連勝である。その後もGT-Rはロータリー勢との戦いを繰り広げ、ねばり強く勝利を重ねていった。解釈や数え方で多少の増減はあるが、50に限りなく迫る連勝記録を打ち立てたのは間違いない。3年もの間、GT-Rは無敵だった。

1972年にスカイラインはフルモデルチェンジされる。「ケンとメリーのスカイライン」というCMから、“ケンメリ”の通称で親しまれたモデルである。GT-Rを期待する声は強く、翌年1月にハードトップ2000GT−Rがラインナップに加わった。S20エンジンを受け継ぎ、迫力のあるオーバーフェンダーを装備していた。しかし、このモデルがサーキットを走ることはなかった。ボディーが大型化して重量も増加し、ロータリー勢と戦えるだけの性能が得られなかったからだ。

ケンメリGT-Rの製造はわずか4カ月で終了し、総生産台数は197台にとどまった。1973年になるとオイルショックが発生し、スポーツカーは逆風にさらされることになる。GT-Rの名は、次の代のモデルになっても封印されたままだった。良質な実用車としてのスカイラインは売り上げを伸ばしたが、レースでの活躍は過去のものとなった。

1989年、8代目スカイラインのR32になってGT-Rが復活する。FRベースの可変4WDシステムと4輪操舵(そうだ)というハイテクで武装した画期的なモデルだった。R33、R34とこの路線が続いたが、2002年に生産が終了した。2007年に登場したのは、スカイラインの名を冠さず単にGT-Rを車名とするモデルである。ハイテクにはさらに磨きがかかり、素のままでもサーキットで戦えるポテンシャルを持つ。野生の荒削りな激しさを持っていたPGC10とはアプローチの仕方は異なるが、GT-Rは常に独創的なモデルであり続けている。

1969年の出来事

topics 1

日産フェアレディZが北米で大人気

フェアレディの歴史は、1960年代までさかのぼることができる。ダットサン・スポーツに1.2リッターエンジンを与えたモデルだ。ミュージカルの『マイ・フェア・レディ』にちなんだ命名だが、当時の表記はフェアレデーだった。

もともと北米向けに作られたもので、2代目になっても多くが輸出された。最終的には2リッターエンジンを搭載し、日本車として初めて200km/hを超えたクルマとされている。

1969年に登場したニューモデルは、フェアレディZという名前に改称。アルファベット一文字が加わっただけだが、中身は大きく変わっていた。以前のモデルは、他車から流用したフレームにボディーをかぶせたオープンカーだったが、Zはモノコックボディーに4輪独立サスペンションという高度な技術が用いられていた。

ロングノーズ・ショートデッキのスポーツカーらしいスタイルも、好意的に迎えられた。ヨーロッパのライバルと同等の性能を備えながら価格は格段に安く、北米市場で人気を博した。Zカーとして親しまれたこのモデルは、日産のイメージ向上にも貢献したのである。

topics 2

空冷FFのホンダ1300発売

本田宗一郎は、信念のエンジニアだった。中でも、エンジンの理想は空冷であるとの考えは強固なものだった。構造が簡単で耐久性があり、メンテナンスも容易である。コストも安く、複雑で部品点数の多い水冷よりも優れていることを疑わなかった。

二輪車で空冷エンジンの技術を磨いた実績と自信がある。四輪車でも軽自動車のN360で空冷エンジンを採用し、ヒット作に仕立てあげた。本格的な小型車に進出するにあたっても、この技術を使うのは当然だった。

ホンダは1969年に空冷エンジンのFF車という意欲的なモデルを発売する。一体式二重空冷という凝ったメカニズムの1.3リッターを搭載したホンダ1300である。ところが、開発者の意に反してこのクルマは期待ほど売れず、経営に大きな影響が出た。

宗一郎はなおも空冷にこだわったが、排ガス規制に対応できないという指摘を受け入れ、若いエンジニアに開発を任せた。空冷が技術としては合理的だという主張は曲げなかったが、1973年に社長の座を辞して後進に道を譲った。

topics 3

アポロが月面着陸

1959年にソ連が世界初の宇宙衛星スプートニクを打ち上げたことは、アメリカに大きなショックを与えた。宇宙開発競争に負けただけでなく、ミサイル技術に直結する人工衛星で後れをとったことは軍事面でも劣勢に立たされることを意味していた。

1961年、ケネディ大統領は1960年代中に人間を月に送ると声明を発表し、巻き返しを宣言した。アメリカ航空宇宙局(NASA)によって策定された有人宇宙飛行のプロジェクトがアポロ計画である。

1969年7月16日にサターンV型ロケットによってアポロ11号が打ち上げられ、19日に月周回軌道に入った。20日に司令船コロンビアから着陸船イーグルが切り離されて月面の静かの海に着陸した。

初めて月面に足跡を記したアームストロング船長は、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という名言を残した。第一歩は、左足だった。

【編集協力・素材提供】
(株)webCG http://www.webcg.net/

[ガズー編集部]

MORIZO on the Road