世界を駆けた六連星――スバルWRCの戦い(1995年)

よくわかる 自動車歴史館 第84話

圧倒的な知名度を誇ったサファリラリー

1957年の豪州一周ラリーに参戦するトヨペット・クラウン。この競技は19日間の日程で約1万7000kmの距離を走破するという過酷なものだった。
1970年のサファリラリーで優勝を遂げたエドガー・ハーマン/ハンス・シュラー組の日産ブルーバード510。日産は1979年から1983年にかけて4連覇を果たすなど、サファリで活躍を見せた。
トヨタは1983年8月の1000湖ラリーから、WRCにセリカ ツインカムターボを投入。サファリラリーでは1984年から1986年まで、3連覇を果たしている。

1963年の第1回日本グランプリは、自動車レースを一気にメジャーなものにした。サーキットで勝利を得ることが販売促進にもつながることを知り、各メーカーは本腰でマシンを開発するようになった。ただ、日本の自動車会社がモータースポーツに取り組んだのは、これが初めてではない。最初の舞台はサーキットではなく、広大な大地だった。

1957年、トヨタはクラウンをオーストラリアに持ち込み、全長1万7000kmの過酷なラリーに出場し、完走する。翌年、今度は日産がダットサン210で同じラリーに参戦。クラス優勝を果たした。耐久性の高さを広くアピールするためには、ラリーで好成績をあげることが効果的であると考えたのだ。

日産は1963年からアフリカのサファリラリーに出場し、1970年にブルーバード510で総合優勝。翌年もフェアレディ240Zで連勝を遂げる。日産の活躍は大きな話題となり、『栄光への5000キロ』という映画まで作られた。この様子を見て、他のメーカーもサファリラリーへの参戦を始める。まずは、三菱がギャランで1974年に優勝。1984年にはトヨタ・セリカが初参戦でいきなり優勝し、1986年まで3連覇を果たす。その後もサファリでは日本車が強みを見せ続けていった。

サファリラリーは1953年に始まった長い歴史を持つ大会で、ラリー・モンテカルロ、RACラリーとともに世界3大ラリーと呼ばれている。ただ、ヨーロッパで行われている競技と比べると、さまざまな面で異なる特徴があった。コースの中には砂漠地帯が広がり、豪雨に見舞われると一転して泥の中を進まなければならなくなる。野生動物の生息地でもあるため、アニマルガードが必須のパーツだ。

国際自動車連盟(FIA)は、1973年から世界各国で独立して行われていたラリーを統合する。これが世界ラリー選手権(WRC)で、各国で行われたラリーイベントの成績によって年間チャンピオンが決められるようになった。最初はマシンの製造メーカーが競うマニュファクチャラーズタイトルだけだったが、1979年からはドライバーズタイトルも設けられた。各大会で得たポイントの合計で順位が決まるので、それぞれの国の流儀で開催されてきたラリーも、次第に規格化されていく。ところが、サファリラリーのように特殊な要素を持つイベントは規格に収まりきらないところがあり、2002年を最後にWRCのカレンダーから外されてしまった。

日本車の存在感が高まった1990年代

グループB規定の導入によりWRCは大いに盛り上がったが、1985年以降は深刻な事故が続発。1986年シーズンを最後に、WRCのトップカテゴリーはグループAで競われることとなった。写真は1984年に活躍したアウディ・クワトロ。
1989年の1000湖ラリーを走るランチア・デルタ。グループA時代の前半はランチアが圧倒的な強さを披露し、1987年から1992年まで、6年連続でマニュファクチャラーズタイトルに輝いている。
長年にわたりWRCに参戦してきたトヨタでは、1990年にカルロス・サインツがドライバーズタイトルを獲得。1993年には、日本メーカーとして初のマニュファクチャラーズタイトルに輝いている。写真は1990年に活躍したセリカGT-FOUR。
1979年当時のスバル・レオーネスイングバック。サファリラリーには1.6リッターエンジンの4WDモデルが投入された。

WRCが始まってからも、最初のうちは個々の大会に対するスポット参戦が可能で、年間タイトルには関心のない日本メーカーもサファリラリーへの挑戦を続けていた。様相が変わったのは、1987年に車両規定が変わってからだ。それまでWRCのトップカテゴリーだったグループBでは、連続する12カ月で200台を製造すればホモロゲーションが得られることになっており、ほとんどプロトタイプと化した競技車両によって、異次元の戦いが繰り広げられた。行き過ぎたハイパワー化で悲惨な事故が発生し、1987年からはより市販車に近いグループA規定が適用されることになる。

グループB時代には影の薄かった日本メーカーも、規定変更を受けて新たな挑戦を始めた。中でもトヨタの動きは早かった。年間5000台の生産を必要とするグループAのカテゴリーにぴったり適合する、セリカGT-FOURを持っていたからだ。1989年にはチームにカルロス・サインツが加わり、ユハ・カンクネンとともに強力なドライバー体制を築いた。

1993年、トヨタは念願のマニュファクチャラーズタイトルを獲得する。これが日本のメーカーとしては初のWRC制覇だった。トヨタは翌年もWRCを制したほか、ドライバーズ部門でも1993年、1994年とトヨタのドライバーがタイトルを獲得。WRCでの日本車の存在感は強まり、世界の強豪として認められるようになった。このころになると、ライバルはヨーロッパ車ではなくなり、日本車同士がしのぎを削る状況が生まれていた。当時、ラリーで活躍していたもう一つの日本車メーカーが、富士重工業(スバル)である。

スバルによる海外でのモータースポーツ参戦の歴史をひも解くと、第1回日本グランプリにスバル360で出場したテストドライバーの小関典幸が、1970年にメキシコで行われているバハ500にプライベート参戦している。メーカーとしては1973年にオーストラリアのサザンクロスラリー、1977年にロンドン〜シドニーマラソンに出場。そして1980年、いよいよサファリラリーに初挑戦した。

日本メーカーの中でも遅れての参加だったが、そこには画期的な意義があった。走ったのはレオーネ4WDだったのである。FRが常識だったラリーの世界に、乗用車型4WDを持ち込んだのだ。アウディがクワトロを投入するのは1981年であり、それより1年早いデビューだった。

レオーネはスバル1000から発展したスバルff1の後継車にあたる。スバルは東北電力からの要望で、1971年にこのクルマを4WD化したモデルを試作。水平対向エンジンと4WDを組み合わせたスバル独自のシステムは、この時に生まれている。レオーネは商用車のエステートバンに4WDを採用し、1975年からはセダンにも4WDモデルを追加した。4WD乗用車のジャンルで、世界に先駆けたのだ。

経営危機を乗り越えて勝利をつかむ

1989年に登場した初代スバル・レガシィ。写真はターボエンジンを搭載したスポーツグレードのRS。
1993年のニュージーランドラリーの様子。この大会でレガシィは初優勝を果たす。
レガシィの後継モデルとして投入されたインプレッサ。デビュー戦となった1000湖ラリーでは2位入賞を果たしている。
三菱はそれまでのギャランに代わり、1993年にランサーエボリューションをWRCに投入。1995年のスウェディッシュラリーではケネス・エリクソンのドライブにより優勝を果たす。以降、ランエボはインプレッサとしのぎを削る好敵手となった。
1995年の最終戦、ウェールズラリーGBの表彰式の様子。この年、スバルはマニュファクチャラーズタイトルを獲得。エースドライバーのコリン・マクレーもドライバーズタイトルに輝いている。

ラリーへの挑戦は、4WDモデルのポテンシャルをはっきりと見せつけた。レオーネが搭載していたのはわずか68馬力のエンジンだったが、トラクションのよさのおかげで走りやすく、いきなりクラス優勝を遂げる。スバルはその後もレオーネでの参戦を続け、実績を重ねていった。WRCへの本格的なチャレンジを始めたのは、レガシィがラインナップに加わってからである。水平対向エンジンと4WDのシステムを磨きあげたモデルで、スバルの技術力を世に知らしめたのがレガシィだった。販売開始前に10万km連続走行スピード記録のトライアルを行い、223.345km/hの世界記録を樹立している。WRCでも、この性能が十分に発揮されると期待された。

1990年のサファリがデビュー戦である。6台が出場し、総合6位が最高成績だった。この年は5つのラリーに出て、最高順位は1000湖ラリーの4位にとどまっている。この年のマニュファクチャラーズタイトルを取ったのはランチアである。デルタ インテグラーレの戦闘力が高く、トヨタ・セリカGT-FOURがそれと競り合っていた。レガシィには時間が必要だった。

しかし、悠長に構えていられるような状況ではなかった。富士重工は赤字を抱えており、経営危機が報じられていたのである。巨額な資金を必要とするWRCへの参加は、真っ先に切り捨てられてもおかしくなかった。活動継続の力となったのは、世界中のスバルディーラーから集められたWRC援助金である。スバルのスポーツディビジョンであるSTIがチューニングしたモデルを販売し、利益の一部をWRCの活動資金に充てたのだ。WRCで好成績をあげれば、販売成績も向上する。どちらにもメリットのあるシステムだった。

1993年のニュージーランドラリーでレガシィは念願の初優勝を果たす。そして満を持して投入されたのが、ラリーでの勝利を意識して開発されたインプレッサだ。デビュー戦の1000湖ラリーではアリ・バタネンのドライブでいきなり2位を獲得し、ポテンシャルの高さを見せつけた。インプレッサはレガシィよりも一回り小さいボディーで軽量化を実現し、ホイールベースを短くしてハンドリング性能を高めていた。

1994年、スバルチームにカルロス・サインツが加入した。コリン・マクレーとのコンビで、チャンピオンを狙う体制が整ったのである。サインツは初戦のモンテカルロで3位に入り、優れた適応能力を披露した。アクロポリスラリーでインプレッサに初勝利をもたらした彼は、年間ドライバーズランキングで2位となった。マニュファクチャラーズタイトルでもスバルは2位に入り、世界制覇が近いことを予感させたのである。

1995年のシーズンは、モンテカルロでのサインツ圧勝で幕を開けた。幸先のいいスタートだったが、次戦のスウェーデンでは全車エンジンブローという最悪の結果が待っていた。この年からエンジン性能を制限するエアリストリクターの内径が38mmから34mmに縮小されており、それに対応したパーツの軽量化が耐久性に問題を生じさせていたのだ。急いで対策パーツを組み込んだものの、不安を抱えたまま走り続けることになる。

エンジニアの努力のかいあって、その後同様のトラブルは発生しなかった。ラスト2戦は3位までをインプレッサが占めるというパーフェクトな勝利を収め、三菱との戦いを制したスバルはマニュファクチャラーズタイトルを獲得する。ドライバーズ部門でもマクレー1位、サインツ2位という結果で、スバルはダブルタイトルに輝いた。

スバルは1996年、1997年もマニュファクチャラーズタイトルを取り、その後も好成績をあげ続ける。WRCでの名声は揺るぎないものになり、六連星はラリーファンの目に焼き付けられた。現在のスバルは、小規模ながら独自のメカニズムを持つ自動車会社として世界中から認められる存在となっている。今日におけるスバルの人気は、WRCでの水際立った活躍によって確立したのだ。

1995年の出来事

topics 1

GMとの合作車トヨタ・キャバリエ発表

1981年に始まった日本車の対米輸出“自主規制”は、1993年にようやく撤廃された。現地生産の拡大によって、輸出を規制する必要性は低下していた。

自動車輸出をめぐる日米紛争は落ち着いたかに見えたが、アメリカの自動車会社には不満が残っていた。日本でアメリカ車の販売を伸ばすことが、重要な目標となっていたのだ。

1995年、トヨタはGMの人気車であるシボレー・キャバリエをベースとしたモデルの販売を発表する。翌年1月から販売が開始され、所ジョージをCMキャラクターに起用して大々的に宣伝した。

日本に導入されたのは2.4リッターエンジンを搭載した最上級モデルで、動力性能や価格にはそれなりの評価があった。しかし、内装の仕上げなどは日本車のクオリティーに及ばない部分もあり、2000年に販売が打ち切られた。

topics 2

ホンダCR-V発売でライトクロカンがブームに

RVブームに乗り遅れたホンダは、1994年にオデッセイを発売してヒットを飛ばし、ようやく他メーカーと肩を並べた。勢いに乗って投入したのがライトクロカンのCR-Vである。

シビックのプラットフォームをベースにし、車高を上げてSUV的なプロポーションに仕上げたが、スタイルは都会的な雰囲気を持っていた。名前の由来は、Comfortable Runabout Vehicleである。

前年にトヨタからRAV4が発売されており、乗用車的な使い勝手を持つコンパクトなクロスオーバーSUVが人気となった。後にスバル・フォレスター、日産エクストレイルなどが発売されている。

ホンダは新しい路線を「クリエイティブ・ムーバー」と名づけ、1996年にステップワゴンやS-MXを発売してラインナップを充実させていった。

topics 3

Windows95発売

マイクロソフトはMS-DOSでIBM互換パソコンのOS市場を独占していた。それに対し、アップルは独自のMacOSを採用し、グラフィックユーザーインターフェイス(GUI)の使いやすさで人気を得ていた。

マイクロソフトは1991年にWindows3.0を発表し、GUIの市場に参入したが、使い勝手は十分なものとはいえず、インターネットへの接続機能も貧弱だった。

1995年、マイクロソフトは新OSのWindows95を発表する。報道で大きく取り上げられたこともあり、期待は大きくふくらんでいた。日本での発売日となった11月23日には秋葉原などで前日から大行列ができ、午前0時に向けてカウントダウンイベントが行われた。

パソコンのOSをめぐる競争はその後も続き、新バージョンが発表されるたびに深夜の行列が繰り返された。しかし、次第に騒動は沈静化し、OSの主戦場はスマートフォンに移っている。

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[ガズ―編集部]

MORIZO on the Road