【モータースポーツ大百科】ル・マン24時間耐久レース(後編)

1982年にグループCレギュレーションが発効すると、この規則に従ったレーシングカーでポルシェ、ランチア、ジャガー、マツダ、日産、トヨタ、メルセデス・ベンツ(ザウバー)らが続々とル・マンに参戦し、伝統の耐久レースは華々しい時代を迎えた。

1987年大会で優勝したポルシェ962C。グループC時代の前半、ポルシェ956とその改良モデルである962Cは、まさに無敵の強さを誇った。

グループCが成功した最大の理由が、燃料の使用量のみを制限するシンプルな車両規則にあったことは世界耐久選手権(WEC)の回で述べたとおりだが、ル・マンはこのように多くの自動車メーカーに受け入れられるレギュレーションが策定されると賑(にぎ)わい、逆に失敗するとレース全体が地味な雰囲気に包まれるという歴史を繰り返してきた。例えば、FIAの主導でエンジンが3.5リッター自然吸気に一本化された90年代前半は、プジョーとトヨタを除く自動車メーカーがそろって撤退する事態を招き、ル・マンを主催する西部自動車クラブ(ACO)はエントリーをかき集めるために東奔西走を強いられた。かと思えば、90年代半ばに生まれたGT1レギュレーションのもとでは、一時は5大メーカーが激突する盛況ぶりを見せた。もっとも、これは先述した「ACOの東奔西走」の結果で、低迷期に手っ取り早く参戦車両をそろえるためにロードカーベースのレーシングカーを受け入れる枠を設定したところ、これが意外にも自動車メーカーから好評を博したというのだから、ケガの功名というよりほかにない。

GT1レギュレーションのもと、1995年に優勝したマクラーレンF1 GTR。ドライバーはヤニック・ダルマス、J.J.レート、関谷正徳の3人で、関谷は日本人として初のル・マンウィナーとなった。

2000年以降はアウディを中心とするプロトタイプカーによる戦いが繰り広げられるようになり、そのライバルとしてプジョー、トヨタ、ポルシェなどが登場。2015年には日産も復帰し、アウディ、トヨタ、ポルシェとともに4メーカーの激突が演じられることになった。こうした成功は、WECとの連動、使用する燃料量やハイブリッドシステムの放出エネルギーによってパフォーマンスを規制する、巧妙な車両規則の導入によってもたらされたものといえる。

2000年以降のル・マンではアウディが圧倒的な強さを見せている。写真は2004年に優勝したアウディR8。この時は日本人の荒 聖治もドライバーを務めた。

今後のル・マンはどうなっていくのだろうか?自動車技術の発展に貢献するという創設当初の理念に立ち返れば、やはりできるだけ多様な自動車技術を受け入れる車両規則を維持していくことがまず重要になるはずだ。これはまた、多くの自動車メーカーが参戦しやすい状況を整えるという意味からも、軽んじるわけにはいかないテーマである。また、グループCや現行の車両規則がそうであったように、環境問題に留意した思想も忘れるわけにはいかない。

トヨタは2012年からル・マン24時間耐久レースに復帰。2013年大会では2位、2014年大会では3位入賞を果たしている。

いずれにせよ、これまで何度も危機に直面しながら、そのたびに不死鳥のごとくよみがえってこられたのは、やはりル・マンが世界中で愛されている証拠といえる。そうした人々の思いがあり、レースを主催するACOがその気持ちに応える思いを持ち続ける限り、これからもル・マンは多くの観客で賑わうことだろう。

(文=大谷達也)

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[ガズ―編集部]

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