鈴鹿サーキット小史(後編)

半世紀以上にわたり、鈴鹿サーキットではあらゆる種類のイベントが開催されてきた。世界選手権や全日本選手権などトップクラスのレースもあれば、“8の字”を東西に分割したショートコースでのクラブレースも盛んで、ここからドライバーだけでなく、レース技術者も多く巣立った。早くからソーラーカー・レースも開催されてきたし、燃費競争も注目された。

さらにモータースポーツだけでなく、敷地内に本格的なホテルを建てたほか、遊園地の施設も着々と拡充させてきた(メーカー系だけあって、遊具の大半も自社技術で開発)。温泉も掘り当てた。うまい店も多い。そのすべてにおいて、企画や運営の中心に鈴鹿サーキット自身が深く関わっているのも見逃せない特徴だ。何に関しても“鈴鹿スタイル”なのだが、「クルマの楽しみを広く訴える」というホンダイズムが、その奥に強く息づいている。だから安全運転教室やレーシングスクールにも、ブレない芯がきっちり貫かれている。

サーキット以外にも遊園地やホテル、スパなど、さまざまな施設が付帯している鈴鹿サーキット。季節ごとのイベントも開催されており、夏には花火大会も行われる。

技術の進化につれて、年々コーナリングスピードは上がる。その先手を打つように、レーシングコースには綿密な改修が重ねられてきた。高い集中力を要求する第1~2コーナー、意外な落とし穴デグナー・カーブ、イン側とアウト側で路面の摩擦係数が違ったスプーン・カーブ、度胸一発の超高速130Rなどが次々と姿を変えた。全体の基本形は創業時から変わっていないが、細かく観察すると、元のままの部分はほとんどない。その多くは、敷地面積や地形の制約のため、走路そのものを内側にずらし、相対的にアウト側のランオフエリアを拡大する苦心の作だった(改修前の130RでFL550と“ブルドッグ”ことホンダ・シティ ターボIIを全損にしたことがある僕としては、今みたいに広いランオフエリアなど夢のようだ)。最も大きく変わったのは、最終コーナーにシケインが新設されたこと。それまでは130Rを立ち上がると、そのまま第1コーナーまで踏みっぱなしの超高速セクションだったのだが、今度はシケインへの突っ込みが新しいドラマの舞台になった。

2012年のF1日本グランプリにおいて、最終コーナー手前のシケインを走るフェリペ・マッサのフェラーリ。

付帯設備もずいぶん立派に育ったが、特に進歩したのはコミュニケーション・システム。40年ほど前まで場内放送のブースにはモニターなどなかったから、見えないところのことは話せない。そこでレーシングカーが勾配を駆け上ってデグナーめがけ消えていくと、メインスタンドのアナウンサーが「それでは西コース、お願いします」と叫ぶ。それを受けてヘアピンで待ちかまえたもう一人のアナウンサーが「はいッ、先頭グループが今、ヘアピンに突入しました」と実況を続ける。そういえば、ヘアピンの出口にあった西コースのピットも、今はバックストレートに移っている。あ、そうだ、76年までは、メインストレートとピットロードを仕切るウォールもガードレールもなかったなあ。

1970年の全日本鈴鹿300kmの様子。奥に見えるピットエリアに注目。当時は、ピットとコースの間にはフェンスも何もなかったのだ。

そんな変遷を重ねながら、当初1周6.004kmだった国際レーシングコースは、今では5.807km(二輪の場合は専用のシケインを含んで5.821km)。運営会社も、モータースポーツランドという名称で始まってから長くホンダランドを名乗っていたが、F1に参戦するメーカー名そのままではということか鈴鹿サーキットランドに変わり、今では同じホンダ系列のツインリンクもてぎ(栃木県)を経営統合してモビリティランドという社名になっている。しかし、その奥に燃えるたいまつはどんな烈風にも負けず燃え続け、今この瞬間にも鈴鹿では、世界を目指す若者たちが切磋琢磨(せっさたくま)の汗を流している。今も昔も鈴鹿サーキットは、日本モータースポーツ界の“虎の穴”なのだ。

2012年9月に開催された鈴鹿サーキット50周年アニバーサリーデーの様子。二輪、四輪問わず、世界中から往年の名選手が集い、鈴鹿の50周年を祝った。

(文=熊倉重春)

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[ガズ―編集部]