富士スピードウェイの思い出(前編)

鈴鹿サーキットから4年後の1966年に、富士スピードウェイは開業した。多くの紆余(うよ)曲折を経て建設された富士は、鈴鹿と対照的な性格を持ち、以後半世紀にわたり「東の富士、西の鈴鹿」と呼ばれ、日本を代表する国際レーシングコースの地位を守ってきた。何よりの特徴は、超高速タイプの広大なレイアウト。計画の発端がアメリカ式のオーバルトラックを想定したものだったからだ。しかし静岡県御殿場市近郊の駿東郡小山町という丘陵地のため、完全なオーバルの建造は難しく、中・高速コーナーを組み合わせたロードサーキットの形に落ち着いた。それでもアメリカ式を目指した名残が、超高速の右曲がり30度バンクだった。

富士スピードウェイでの初の四輪レースとなった、第4回クラブマンレース富士大会の様子。完成当時のピットやパドックのさまを知ることができる。

それも非常に特殊。バンクといえば、直線の終わりで外側が大きく持ち上がるのが普通だが、富士はまったく違う。約1.7kmに及ぶメインストレートの終わりは少し下り坂になっていて、その先いきなり右の谷に向かって内側がドンと落ち込むのだ。ここへ最高速のまま全開で突入するのは、よほど度胸がないと難しい。トッププロでも一瞬「エイヤ~ッ」と叫んだし、きつく歯を食いしばるためマウスピースを使った者も少なくない。僕もFJ1300で走ったことがあるが、とてもブレーキを踏まずには進入できず、こわごわ下段をたどるのがやっとだった。そこに澄んだ排気音が轟(とどろ)いたので見上げると、ワークスチームのクルマが“上空”をカッ飛んで行った。

1968年の日本グランプリにおいて、1コーナーのバンクを走るツーリングカーレースの競技車両。その斜度の大きさから「30度バンク」と呼ばれた。

ここを過ぎても中速以上のコーナーが連続し、本格的にブレーキを踏むのはヘアピンの入り口だけ。そこからは最終コーナーを抜けてメインストレート、そしてバンクの終わりまでアクセル全開。だからレーシングカーも最高速を最重視して、1971年から行われた富士グランチャンピオン(GC)シリーズなどでは、わざわざそれ専用のスペシャルボディーが次々と製作された。このことからもわかるように、フォーミュラを軸として発展した鈴鹿に対し、富士では早くからツーリングカーとレーシングスポーツカーのイベントが盛んに開催され、鈴鹿から舞台を移した60年代の日本GPではトヨタ、日産に加え、強力なプライベートチームだったタキ・レーシングのポルシェが華やかにしのぎを削った。また、スカイラインGT-Rとサバンナ・ロータリーの死闘も、富士の歴史の重要な一コマとして、今に至るも語り伝えられている。

1969年の日本グランプリの様子。1968年、1969年は、トヨタ、日産、タキ・レーシングのいわゆる「TNT対決」が注目を集めたが、両年ともに日産が制した。

それがGCに生まれ変わったのは、第1次石油危機が原因で、メーカーが大規模な活動から撤退したのに対し、プライベート系を大きく育てようという目的から。これを機にマーチ、ローラ、シェヴロンなどヨーロッパ製のレーシングカーや、BMWやハートなどのエンジンが大量に輸入され、日本のコンストラクターに強い刺激をもたらした。そんな数々の名場面の背景として霊峰富士を仰ぎ見ながら、広い観戦エリアを歩きまわる東日本のファンにとって、富士スピードウェイは、くめども尽きぬ夢の泉だった。

1971年から1989年まで、長年にわたり開催され続けた富士グランチャンピオンシリーズ。同時期のフォーミュラレースとともに、多くのレーシングドライバーやコンストラクターを育んだ。

(文=熊倉重春)

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[ガズ―編集部]