ルノー誕生――フランスの革新者 (1899年)

よくわかる自動車歴史館 第109話

ドイツ人が発明し、フランス人が発展させた

1985年、西ドイツは自動車誕生100周年記念行事を開催した。初めて自動車を造ったカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーの偉業を記念する式典である。しかし、それより1年早く、フランスは独自に自動車100周年を祝っていた。フランスでは、ドラマール・ドブットヴィルとレオン・マランダンが自動車を発明したと信じる人が今も多い。

ドラマール・ドブットヴィルとレオン・マランダンが製作したという四輪自動車。フランスではこのクルマが「世界初のガソリン自動車」とされている。

真相はともかく、自動車の生産と販売を行って産業の基盤を築いたのは、間違いなくベンツとダイムラーである。ただし、自動車を発展させて現代にも続く仕組みを完成させたのは、確かにフランス人だった。

初期の自動車は馬車を模したスタイルで、エンジンの置き場所には苦心した。座席の下部か後方にエンジンを搭載するしかない。チェーンを介して後輪を駆動する、いわゆるRR方式である。このレイアウトだと必然的に着座位置は高くなり、安定性には支障が生じる。この問題に解決策を与えたのは、フランス人のエミール・ルヴァソールだった。エンジンと乗員の関係を上下から水平に変えたのである。

エンジンをフロントに置き、クラッチとギアを使って後方に駆動力を伝えるのだ。システム・パナールと呼ばれる方式で、現代のFRも同じ考え方の延長にある。重心を低くしただけでなく、前輪に荷重がかかることによって操縦性も向上した。システム・パナールの優秀性は認められ、ダイムラーも1887年にこの方式を採用した。

パナール・エ・ルヴァソールのフロントエンジン車。写真は1984年のパリ~ルーアン・トライアルに参加した車両で、ダイムラーのV2エンジンを搭載していた。

ルヴァソールの発明によって、自動車の設計の自由度が飛躍的に高まった。しかし、まだ十分ではない。駆動力伝達の機構は旧態依然としていて、効率の悪いものだった。革新的な技術を開発したのがルイ・ルノーである。1899年当時、彼はまだ21歳の青年だった。

画期的な駆動装置を持っていたヴォワチュレット

ルノー家は、パリ郊外のビヤンクールでボタン製造業を営む裕福な一家だった。四男として生まれたルイは勉強嫌いの劣等生で、何度もスペリングのテストに落第していた。取りえといえば、機械いじりが得意だったことだけである。父親は学業成績には落胆したが、息子の能力に光るものを見つけたようだ。古いパナールエンジンを買い与え、好きに触らせた。

アトリエにて作業に打ち込む、若かりしころのルイ・ルノー。

14歳のルイは小屋にこもってエンジンの研究に没頭する。その後兵役につくと、射撃練習用の的を自動昇降させる装置や分解式の橋などを作って上官たちを驚かせた。除隊すると、彼は貯金をはたいてド・ディオン・ブートンの三輪自動車を購入し、改造に取り組んだ。車輪を一つ増やし、四輪自動車に作り変える。エンジンもリアからフロントに移し、FR方式に変える大改造をもくろんだ。

システム・パナールを採用したわけだが、ルイは従来の駆動力の伝達方法の欠陥を見抜いていた。ファイナルドライブで使われていたのは、革ベルトとプーリー、あるいはチェーンとスプロケットを用いる方式である。革ベルトではパワーロスが大きく、チェーンは油を大量に飛散させた。どちらも耐久性に問題があり、しばしば切れて走行不能に陥った。

確実に駆動力を伝達するには、鋼鉄製のシャフトが適しているとルイは考えた。現代でも使われている、ベベルギアを使って車軸に動力を伝えるシャフトドライブ方式を発明したのだ。さらに、3段ギアボックスで最適な速度を選べるようにした。トップは直結のダイレクトドライブとなっており、リバースギアも内蔵する画期的な機構だった。

3段ギアボックスをはじめとしたドライブトレインの図面(右)と、ルノー初の自動車であるヴォワチュレット タイプA(左)。運転しているのはルイ・ルノーその人である。

ルイは発明家を志していたようで、自ら自動車を製造しようとは考えていなかった。しかし、兄のマルセルは事業として将来性があると考える。ド・ディオン・ブートンを改造したモデルは年末に完成し、クリスマスパーティーで友人たちに披露された。試乗を希望する者を横に乗せて走ると、帰ってくるなりポケットから金を取り出して机の上に置いた。予約金である。ほかにも試乗希望者が殺到し、その夜のうちに12台の注文が入ってしまった。

ルイは自動車生産の資金を持っていなかったが、兄のマルセルとフェルナンが出資して1899年にルノー・フレール(ルノー兄弟)社が設立される。工作機械を導入して生産を開始し、半年で60台のヴォワチュレット(フランス語で小型車の意味)が製品として出荷された。シャフトドライブの特許も認められ、特許料収入が会社の基盤を強化することになる。ビヤンクールには広大な自動車工場が作られていった。

ブローニュ=ビヤンクールに建てられたルノーの工場の様子。写真は1906年の元日に撮影されたもの。

レースで大排気量車相手に勝利を重ねる

ヴォワチュレットが搭載していたのはド・ディオン製の273cc単気筒エンジンで、出力はわずか1.75馬力だった。非力だったが車重は350kgと軽量で、50km/h近いスピードが出たという。ルイは自らステアリングを握り、レースに参加した。フランスでは1894年に世界初の自動車イベント、パリ~ルーアン・トライアルが開催され、都市間レースが盛んになっていた。

1894年に催されたパリ~ルーアン・トライアルの様子。これを機に、フランスでは都市間レースが盛んに行われるようになる。

1899年8月に行われたパリ〜トルーヴィユ間のレースに参加したルイは、平均時速約39km/hという記録で1位タイとなった。マルセルもレースに挑み、兄弟で好成績を挙げることでヴォワチュレットの評判は高まっていった。

レースが人気を集めるようになると、各社は専用のレーシングカーを製作するようになる。ハイパワーを得るために、7リッター、10リッターといった大排気量のエンジンを搭載するモンスターマシンが作られるようになっていった。レースは重量によってクラス分けされるようになり、ルノーは400kg以下のクラスで無敵を誇った。

1902年には独自開発の3.8リッター4気筒エンジンを搭載したマシンでパリ〜ウィーン・レースに参加する。13.7リッターのパナールや国の威信をかけたメルセデスが参戦する中、マルセルのドライブによってルノーが総合優勝を果たす。パワーだけに頼らず、バランスのとれた合理的な設計が勝利したのだ。

しかし、翌年行われたパリ~マドリード・レースで悲劇が起きる。マルセルがタイトコーナーでコースアウトし、事故死したのだ。このレースではほかにも観客と参加者を合わせて10人以上が死亡し、都市間レースは禁じられることになった。レースはクローズドサーキットで行われる時代に移行する。事故以来ルイがステアリングを握ることはなくなっていたが、1906年にル・マンで行われた史上初のグランプリレースであるAFCグランプリでは、ルノーが初代の勝者となった。

1906年に開催されたAFCグランプリの様子。優勝したのは、ハンガリー人のフェレンツ・チースがドライブするルノー・タイプAKだった。

ルノーの評判は高まり、1913年になるとフランス第1位のメーカーに成長した。タクシーやバス・トラックなどの事業にも進出し、生産台数は拡大の一途をたどっていた。第1次世界大戦が始まると砲弾などの軍用品の生産を余儀なくされるが、ルノーは自動車でも戦勝に貢献している。「マルヌのタクシー」と呼ばれる作戦だ。1914年にドイツ軍がパリに迫ったとき、タクシー600台が夜間に6000人の兵士を前線まで運び、ドイツ軍を押し返すことに成功したのだ。

兵員を満載したルノー・タイプAG1。マルヌの戦場へ兵士を運んだことから「マルヌのタクシー」と呼ばれた。

順調な発展を続けているように見えたが、問題も表面化しつつあった。成功体験が災いし、新技術の開発が遅れていたのである。フロントブレーキの採用は1922年になってからで、ラジエーターを強制循環式に変えたのは1929年だった。プジョーが1933年に前輪独立懸架を採用し、シトロエンが1934年にモノコックボディーで前輪駆動のトラクシオン・アヴァンを発表しても、ルノーは旧式のクルマ作りから脱却できないでいた。第2次世界大戦の前には、ルノーはフランス3位のメーカーになっていた。

戦争末期、連合軍によって解放されたフランスにおいて、ルイ・ルノーはナチスの傀儡(かいらい)だったヴィシー政権に協力姿勢を示したとして捕らえられ、1944年に獄中死する。戦後になるとドゴール将軍の司令でルノーは国有化された。過酷な運命だが、ルノーは逆境をはねのけて再生する。1946年に発表された4CVは合理的な設計でヒット作となり、100万台以上が生産された。1961年の4(キャトル)、1972年の5(サンク)が大成功を収め、ルノーは小型車を得意とするメーカーとして高い評価を受けた。ヴォワチュレットの伝統は、今も守られているのだ。

ブローニュ=ビヤンクールに位置する、今日のルノー本社の様子。

関連トピックス

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ルノー4CV

第2次世界大戦後、1946年にルノーは自動車生産を再開するが、旧式の戦前モデルは商品性に乏しかった。新たな主力車種として構想されたのは、小型で経済的なクルマである。戦争で疲弊したフランスは、豪華な高級車より合理的な大衆車を必要としていた。

採用されたのは、研究部門にいたフェルナン・ピカールによって1940年から進められていたプロジェクトである。1942年には最初の試作車が完成し、ロードテストも行われていた。丸みを帯びた小さなボディーで、リアに17馬力の760cc直列4気筒OHVエンジンを搭載する。

1946年のパリサロンで一般公開されると、あまりの小ささに人々は戸惑った。しかし、乗ってみるとRR方式を生かしたパッケージングの恩恵で室内空間は広く、560kgの軽量ボディーは小さなエンジンでも軽々と走った。

瞬く間に評判は広がり、注文が殺到して3年分ものバックオーダーを抱えることになる。1954年にはルノーの年産は20万台に達し、フランス1位の座に返り咲いた。優れた設計の情報は日本にも届き、日野自動車によってノックダウン生産が行われることになった。

ルノー4CV。日本では日野自動車によってノックダウン生産され、タクシーとして活躍した。

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ルノー4

4CVは依然として高い人気を保っていたが、1950年代も半ばになると旧態化は隠せなくなっていった。後継車のメカニズムとして選ばれたのは、RRとは逆のFF方式である。シトロエンの人気モデル2CVを徹底的に研究し、2ボックスのハッチバックスタイルとすることで優位性を主張した。

4CVでは荷室容量の小ささが弱点だったが、4は商用車的なスタイルで大きな空間を確保した。簡素ながら実用性に優れ、大衆車市場で成功を収めた。インテリアは鉄板がむき出しでガラスはすべて平面という割り切った作りである。

シートは布張りの安っぽい作りだったが、座り心地は意外に良好だった。フランスではまごうことなき実用車だったが、日本ではレトロなデザインのオシャレなクルマだと受け止められて人気を博した。

荷室を拡大した商用車やレジャー用に仕立てたモデルなど、さまざまなバリエーションがある。国内外から根強い需要があり、1992年まで生産が続けられた。

ルノー4の最初期モデル。日本でも「4」のフランス語読みである「キャトル」の呼び名で親しまれている。

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ルノー5

1970年になると、ルノーは4、6、8、10、12、16と、6つの車種をそろえるようになる。750ccから1.6リッターまでをカバーするラインナップだったが、若い世代向けのベーシックカーが欠けていた。4をベースに新鮮なスタイルを持つモデルとして誕生したのが5である。

のどかな雰囲気を持つ4とは対照的に、シャープな面で構成されたボディーは若々しさを感じさせた。最初に3ドアしか用意されなかったのも異例である。ファミリー向けではなく、個人ユースの若者を狙ったのだ。

後に5ドアバージョンが追加され、当初は782ccと956ccだけだったエンジンも次第に拡大されていった。アルピーヌが手がけたスポーツバージョンも登場する。1978年のパリサロンには、WRCに出場するためのモデルとして5ターボが出展された。

シルエットは同じでも中身は別物で、強力なエンジンをミドに搭載していた。リアフェンダーは大きくふくらみ、迫力のあるスタイルを持つ。ホモロゲーションのためにわずか1300台が生産され、マニアから支持を集めた。

若者向けのベーシックカーとして登場したルノー5。当初は写真の3ドアハッチバックだけだった。

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[ガズ―編集部]

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