いつか別れが訪れる、その日まで。幼少期の記憶を内包したいすゞ ・117クーペ XC
若い世代のクルマ好きにとって、いすゞというメーカーはトラックを生産しているイメージが強いかもしれない。しかしある程度の年齢を重ねたクルマ好きなら、いすゞが販売していたあらゆる乗用車の車名を挙げられるに違いない。ベレット、117クーペ、ジェミニ、ピアッツァ、ピアッツァネロ…。「街の遊撃手」の名コピーとともに、数台のジェミニがパリの街中を踊っているかのように可憐に走るCMを鮮明に覚えている人もいるはずだ。
その中でもいすゞ ・117クーペといえば、ジョルジェット・ジウジアーロ氏がデザインを手掛けたことは有名だ。日本車でありながら、どこか欧州車の雰囲気を漂わせるのも気のせいではないように思う。そんな117クーペは、1966年のスイス・ジュネーブショーでショーカーが発表され、日本では1968年から販売が開始された。しかも驚くべきことに、当初はハンドメイドだったのだ!当時のいすゞが、月産50台程度しか生産できないことを承知の上でハンドメイドにこだわった。それは、ジウジアーロ氏のデザインを忠実に再現しようとした、いすゞにとって最大限の敬意の表れなのかもしれない。
搭載される1.6L直列4気筒DOHCエンジンは、いすゞとしては初のツインカムエンジンとなる。オーナー氏の愛車となった117クーペは、ハンドメイド体制から脱却し、量産化にこぎつけたモデルの限りなく最後の時期に生産されている。オーナー氏が所有する「XC」グレードには、本来であれば1.8LツインキャブレターSOHCエンジンが搭載されているが、現在はDOHCエンジンに換装されている。それについては後述したいと思う。
オーナー氏といすゞ ・117クーペの出会いは40年前に遡る。それはあのスーパーカーブームだ。他の少年たちと同様にランボルギーニ・ミウラやカウンタックにも惹かれたが、何より心を奪われたのは、いすゞ 117クーペだった。そして、大人になったオーナー氏は、心ときめく日常の足となるクルマを探していた。あるとき、117クーペが手の届く存在であることに気づく。幸運なことに、程度良好な個体を見初めることができた。それがいまの愛車だ。1977年式117クーペ XC。SOHCエンジンを搭載したMT車。丸目4灯は、一見するとハンドメイドモデルの時代からそのまま引き継がれているように見えるが、オーナー氏曰く、微妙に表情が異なるという。
通常、経年劣化でダッシュボードが割れている個体が多いにも関わらず、この117クーペは原型を留めていた。その他、シートの状態も良好で、保管状態が良かったことを伺わせたため、購入を決意した。
少年時代からの憧れを現実にしたオーナー氏だが、ここで新たな戦い(?)を強いられることになった。それは周囲からの視線だ。オーナー氏にとって、街中で注目を浴びることは好ましいことではないという。しかし、これほど流麗なフォルムを纏った117クーペが街中を走っていたら、クルマ好きなら思わず振り返ざるを得ないはずだ。対照的に、助手席に座る美しい奥様はそんな周囲の視線を気に留めることはないという。もしかしたら、周囲の視線は奥様に注がれているのかもしれない。
手に入れてから20年ほどになる117クーペだが、他の旧車同様、維持には相応の苦労が伴う。20数年前に購入したローバーミニをはじめとする他の愛車同様に、登録抹消してガレージで眠っていた時期もある。「ガンメタルグリーン」という名のボディカラーは分かっていても、色を調合する際に必須となるカラーコードが分からない。メーカーに問い合わせたところ、既に資料が処分されてデータがないという。そうなると、必然的に職人の経験と勘に頼ることになる。
さらに悩ましいのは部品の欠品だ。エンジンが壊れたときは、廃車にすることも考えたそうだ。あるとき、ボディは痛んでいるものの、AT車でDOHCエンジン仕様の個体をネットオークションで見つけて購入。ミッションとエンジンを載せ換え、見事に復活を果たした。その後はトラブルフリー。コンピューターはMT車用のままだが、今のところ問題はないそうだ。
オーナー氏と、この117クーペにとって幸運だったのは、いすゞ車のメンテナンスに長けたスペシャリストが近所に移転してきたことだ。例えば、スターターが故障したとする。当然、部品はない。そこでトヨタのリビルト品を流用して対処してくれるなど、スペシャリストならではの知識と経験を活かした対応が近所で受けられるのは何より心強いという。
117クーペに乗るときには音楽は聴かない。エンジンの心地良いハミングが最高のBGMだそうだ。オーナー氏に愛車のもっとも気に入っているポイントを伺ってみたところ「ステッキ式のサイドブレーキ」という答えだった。レバー式やフット式とは異なる、現代ではほとんど見掛けなくなったステッキ式のレバーを動かす瞬間の手応えが堪えられないようだ。また、ジウジアーロ氏デザインの「スカッキエーラホイール」もお気に入りのポイントだ。
壊れた箇所は直すが、モディファイやチューニングの類は行わない。コンディションを維持することが最優先だと語る。
オーナー氏が小学生だった頃に出会った、当時の117クーペに近づけたいという思いが強い印象を持った。ベテランのクルマ好きには懐かしいシートカバー(トヨタ製)が被されていたり、「水中花のシフトノブ」を装着したこともあるという。
長きに渡りこの117クーペに深い愛情を注いできたオーナー氏だが、そう遠くない未来に別れが訪れることを心のどこかで予感している姿が印象的だった。
近距離の走行であればまったく問題ないが、数時間走っていると、ふとしたときに目の前の7連メーターばかり見ていることに気づく。「油温は大丈夫か?水温は大丈夫か?そうだ、油圧と電流はどうだろうか…」。117クーペが現役だった時代は、メーターの数が多ければ多いほどステイタスだった。しかし、その豊富な情報量ゆえ、愛車のコンディションがあまりにも素直に「識別できて」しまうのだ。それゆえ、オーナー氏自身も「何だか純粋に運転を楽しめないな」と感じることがあるという。
もちろん、まだまだ乗り続けるつもりだし、手放すつもりはないと語る。同時に、いつか117クーペの方から「もういいよ。いままでありがとう」と無言のメッセージが発せられることを本能的に分かっているように思えてならない。人もクルマも、年齢を重ねるごとに体力の衰えを実感するタイミングがいつか必ず訪れるものだ。そんな、どこか別れを予感させる「無言のメッセージ」から意識を逸らすべく、オーナー氏が少年時代に出会った原体験そのものの117クーペのイメージをこの個体に重ねているのかもしれない。
いかなるオーナーもいつかは愛車との別れのときが訪れる。それはある日突然やってくるかもしれない。しかし、多くのオーナーはその事実から目を逸らしている。つまり、心の準備ができていないということだ。だが、それを責めるべきではない。旧車のオーナーになるということは、少なからず「清濁併せ呑む度量」が求められる。現代のクルマでは決して味わうことができない刺激や快楽が得られる反面、突然の破綻や別れと表意一体なのだ。「合法的麻薬」という解釈は大げさではないように思う。それほど中毒性も秘めていることは間違いないからだ。
「愛車との暮らしは永遠ではない」。そういった気持ちでクルマと接することで初めて気づく愛おしさのような感情が湧きあがってくるように思えてならないのだ。
(編集: vehiclenaviMAGAZINE編集部 / 撮影: 古宮こうき)
[ガズー編集部]
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