サーキットの狼にスーパーカー消しゴム、昭和を彩った熱狂的な社会現象・・・実体験カーカルチャー<昭和編>

  • 昭和から平成に流行った懐かしい漫画やおもちゃ

ようやく窓から差し込む日差しにも春を感じ、2024年のカーミーティングも間もなくシーズンインとなる。

今年も各地でたくさんの愛車やそのオーナーさんとお会いできることを楽しみにしているが、新シーズンを迎えるにあたりご用意したのがこのコラム。昭和、平成、そして令和まで、クルマを中心としたブームやカルチャーを3回に分けて振り返っていきたいと思う。

第1回目となる今回は『昭和』。
昭和は1926年から1989年までの62年間と14日と長い期間に及ぶが、GAZOO愛車広場の取材陣では(おそらく)最年長となる筆者は、たのきんトリオやとんねるず、ダウンタウンなどと同様の『新人類世代』。今に至るクルマ好き人生の起点となった小中学生時代を1970年代に過ごしている。

当時の記憶としてうっすらと覚えているのはテレビで生放送されたアポロ11号の月着陸(1969年)や、ワイドショーで連日取り上げられていた大阪万博(1970年)の様子。小学校の教室では仮面ライダーや帰ってきたウルトラマンに登場した怪獣や怪人の話題で盛り上がり、放課後は近所に開店したセブン-イレブンで仮面ライダースナックを買い漁り、出てきたカードの絵柄に一喜一憂。まさに“20世紀少年”で描かれた世界を過ごしていた。

厳しい排ガス規制により、革新が進んだ1970年代

  • ホンダ・シビックCVCC(B-SH)
  • ホンダ・シビックCVCC(B-SH)のエンジン

マスキー法1975年規制の合格第1号となったのはホンダのCVCCエンジン。それを搭載したシビックは1973年に発売され国内外で大ヒットとなった。

じつはこの1970年代は第1次オイルショックと排ガス規制の強化が重なり、スカイラインGT-Rをはじめとして、日本のスポーツカーが続々と生産中止になっていった時代。
同時に、厳しい排ガス規制をクリアするためにキャブレターから電子制御へのイノベーションが進むなど、自動車が大きな転換期を迎えた時期でもある。

  • トヨタ・スプリンタートレノ(TE27)
  • Truenoのロゴ

とはいえ小学生にはそんな実感はもちろんなく、クルマは子供にとって大人の象徴であり、憧れの存在だった。

路上駐車も当たり前だった当時の通学路は毎日がモーターショー状態で、展示車(!?)のなかでとくに私のお気に入りだったのが、深緑のトヨタ・スプリンタートレノ(TE27)と白いマツダ・コスモAP(CD22)の2台。
ちなみにTE27のリヤにあるエンブレムの『Trueno』を“トレノ”とは読めず、ずっと「トルエノ」という車名だと思っていたことはナイショである(笑)。

「サーキットの狼」で一気に火が付いたスーパーカーブーム

  • 1973年式 ロータス ヨーロッパ スペシャル

    2020年にトヨタ博物館で開催された『池沢早人師トーク&サーキットの狼ミーティング』に参加していた風吹裕矢仕様の1973年式 ロータス ヨーロッパ スペシャル

そしてこの時代のクルマ文化を振り返るうえで、決して外すことができないのが「スーパーカーブーム」だ。ネット上では1976年ごろをピークに3、4年間に起こった社会現象で、そのキッカケは少年ジャンプで連載されていた『サーキットの狼』……ということになっている。

しかし当時ブームの真っ只中を経験した自身の実感は、ちょっと違う感じだった気がする。もちろん50年近くも前のことなので記憶も曖昧なのだが、ブームの火種のようなものは1970年代前半にすでにあり、それが『サーキットの狼』の連載開始で一気に火が着いたってイメージ。

このあたりは、当時をリアルタイムで過ごしたGAZOO読者のみなさんにもぜひご意見を伺ってみたいところだ。

  • ランボルギーニ・カウンタック
  • トヨタ博物館の展示車両

2020年にトヨタ博物館で開催された『池沢早人師トーク&サーキットの狼ミーティング』に参加していたスーパーカーと、トヨタ博物館の展示車両

とにもかくにもそのブームの勢いは凄まじく、風吹裕矢や早瀬佐近が操るロータス・ヨーロッパやポルシェ911を撮影しようと少年たちはカメラを携え自転車を漕いで東奔西走。

全国各地ではスーパーカーショーが開催され、1977年に東京都の晴海で開催されたイベントには4日間で46万人もが来場したという。これは今年の東京オートサロン(3日間)の約2倍だから、いかにすごい数かがわかるはずだ。

もちろん私が住んでいた千葉県の新興住宅地も例外でなく、近所のデパートの屋上やスーパーマーケット前の広場でも毎週のように小規模なスーパーカーショーが行われていたものだ。

ただしこの手の地方イベントのカーラインアップは2軍レベル。カウンタックかポルシェターボあたりがいればいい方で、あとは数合わせ的にフェアレディZ(S30)やVWビートルなどまでがスーパーカーとして展示されていたような気がする…(笑)。

スーパーカー消しゴムは小中学生の必須アイテムだった

  • スーパーカー消しゴム

    色や形、大きさもさまざまだった『スーパーカー消しゴム』

またスーパーカーブームの派生的に、当時の小中学生の必須アイテムとなっていたのがスーパーカー消しゴムだ。名称は“消しゴム”となってはいるが、それで字を消した記憶はまったくないし、果たして消せたのかも不明だが、男子の筆箱には例外なくお気に入りのマシンが数台収まっていたものだ。

で、そんな使えない消しゴムでなにをするのかというと、それは友人とのバトルだ。

その方法はノートにコースを書いてレースを行うほか、ぶつけ合って相手のマシンを場外に押し出すというもので、どちらもマシンの動力として使用していたのがノック式ボールペンのバネの反動。勝利のためにより強力なバネのボールペンを探す一方で、バネを取り出し伸ばしてから組み直すなど、各々独自のチューニングも施しながら休み時間にバトルを楽しんでいたものだ。

ほかにも当時は下敷きとしてお気に入りの写真や雑誌の切り抜きを入れたクリアケースを使うのが小中学生のトレンド。私は兄が買ってきた少年ジャンプのグラビアを飾った“ナナサンカレラRS”のページを切り取って入れていたと思う。

「バリバリ伝説」がけん引した1980年代の空前のバイクブーム

  • ヤマハ・RZ250R
  • ヤマハ・RZ250R

当時、筆者(ライター川崎)が当時乗っていた愛車ヤマハRZ250R

そんなスーパーカーブームも一気に収束し、ブームを牽引してきたサーキットの狼も1979年に連載終了。スーパーカーに熱狂した我々の世代は1980年代に高校生となり、次なるターゲットとなったのがバイクだった。こちらも大ブームのきっかけとなったのが、頭文字Dの作者しげの秀一が1983年から少年マガジンで連載した“バリバリ伝説”。

それまでバイク=暴走族だったのが峠の走り屋という新たなイメージに変化。主人公の巨摩 郡が高校生だったことも含め、バリバリ伝説で描かれた世界はスーパーカーに比べてより現実的な夢だったといえるだろう。さらに映画マッドマックスや汚れた英雄などの影響も加わり、バイクは80年代の若者にとって欠かせないものとなったのであった。

余談ではあるが、今にして思えばこの1980年代に起こった空前のバイクブームが、私が現在の道に進むことになったキッカケだったかもしれない。というのも大学卒業後に就職した出版社では、当初バイク雑誌への配属を希望していたのだ。しかしそれが叶わず、最初に配属になったのがクルマのチューニング専門誌だった。

グラチャン絶頂期にチューニングも盛り上がる

  • 東京オートサロン2024に展示されたスーパーシルエット仕様

    東京オートサロン2024に展示された2台のスーパーシルエット仕様。特徴的なスタイルは、現代でもひとつのジャンルとして確立しているほど大人気となった。

時代はまさにバブル景気で、バイクブームと入れ替わるように盛り上がりを見せ始めていたクルマのチューニング。
市販車をベースとして製作された『シルエットフォーミュラ』たちが人気を集めた『富士グランチャンピオンシリーズ』通称“グラチャン”の盛り上がりが最高潮となり、それに憧れたクルマ好きたちが愛車をシルエットフォーミュラ仕様に改造するなど一大ブームとなった。

そして、その後の規制緩和によって『愛車をカスタムする』ということを合法的に楽しめるようになっていったのだ。

第2段のコラムでは、そんな平成のチューニングブームやクルマに関わる若者のカルチャーがどんなものだったかを振り返っていきたいと思うので、ご期待のほど!

(文:川崎英俊)