【舘 信秀】「TOM'Sの設立はレースを続けるため」。レースと共に歩んだ50年のその先へ・・・愛車文化と名ドライバー

  • トムス取締役会長 ファウンダー 舘信秀氏

    1947年3月23日に三重県鈴鹿市白子で生まれた舘 信秀氏。現在はトムス取締役会長 ファウンダーを務める。


スポーツカーの魅力に取りつかれ、その道を究めるべく切磋琢磨するうちに、愛車文化の発展にも大きな影響を与える存在となっていったプロドライバーたち。そんなさまざまな先人のストーリーを紐解くこのコラム。第1回目はトムスの創設者であり「マカオの虎」の異名を持つ舘 信秀氏にお話を伺った。

乗り物酔いするクルマ嫌いの少年がレースの虜に!

「それまではクルマなんて興味ないどころか乗り物酔いするから嫌いなくらいだったのに、アレを見た瞬間『自分がやりたいのはコレだ!』って思っちゃたんだよな」
1964年、友人に誘われて訪れた鈴鹿サーキットで『第2回 日本グランプリ』を観戦した時の様子を、楽しそうに振り返ってくれた舘 信秀氏。

2024年に創立50周年を迎えたTOM'Sの取締役会長およびTOYOTA TEAM TOM'S 代表を務める元レーシングドライバーが、クルマに興味を持ったのは意外にも遅咲きとなる高校3年生の頃だったという。

  • カストロール・トムス・スープラ

    舘氏が監督として全日本GT選手権に参戦し1997年にはGT500ドライバーズチャンピオンを獲得した『カストロール・トムス・スープラ』。その特徴的なカラーリングは多くのモータースポーツファンの脳裏に焼き付いているだろう

自身でも「熱しやすく冷めやすい性格で、小さい頃は何事も長続きしなかった」と語る舘氏は、周りの友達に感化されて自作ラジオにハマったものの一度も音が鳴ることはなく、プラモデルを組み立てたらパーツがいくつも残ってしまう…そんな子供だったと振り返る。
そんな舘氏が、クルマ、そしてレースに関心を持つようになったキッカケが、冒頭の日本グランプリというわけだ。

「高校3年生になって、中学高校とやってきたバスケットボールをやめて勉強に集中しろと親に言われてね。そのタイミングで付き合う仲間も変わったんだけど、その新しく仲良くなった友達がクルマ好きで『一緒にレースを見に行こう』と言うので鈴鹿サーキットに行ったんだ。そしたら、ありえないスピードで走るマシン、エンジンやマフラーの音、そして当時走っていたスバル360など2サイクルエンジン車たちが駆け抜けた後のカストロールオイルが焼ける匂いなど、まさに五感を刺激されてね。熱しやすい性格だった自分はすっかり感化されちゃって、自分はレースをやろうって決めたんだ」

ちなみに、このとき舘氏を日本グランプリに誘ったのは、のちに純日本のレーシングカーコンストラクター「マキF1チーム」を立ち上げF1グランプリに参戦することになる三村健治氏である。

  • 舘信秀氏とトヨタ・パブリカ700

    18歳で免許を取得すると、とにかく毎週のように練習を重ねたという。また、パブリカを預けたディーラーでメカニックをしていた大岩湛矣氏との出会いが、後のトムス設立につながるのである。

それからというもの、寝ても覚めても考えるのはレースのことばかり。だが、レースをするにはクルマが無いことには始まらない。そこでどうにか父を説得し、トヨタ・パブリカ700の中古車を16万円で入手。トヨタカローラ高島屋に依頼して競技に参加するための準備を整えていったという。

「3月の誕生日にあわせて免許を取って、その年の年末には競技に出ていたな。少しでも速く走れるように、とにかくたくさん走ったよ」と、毎週のように競技会場にもなっていた大磯ロングビーチの駐車場へ通ってジムカーナの腕を磨く日々を過ごした。
また、はじめて手に入れた愛車だけに、自分でホイールを缶スプレーで塗装するなどDIYを楽しんだり、友人を乗せてドライブにでかけたりすることもあったという。

「当時はモテるためのツールとしてクルマは重要だったから、まわりにはオシャレな輸入車とかに乗っているクラスメートもいたなぁ。もちろん、うるさくて乗り心地の悪いパブリカに女の子は乗ってくれなかったし、当時の友人には印象深かったのか『お前のクルマはすごかった!』って今でも言われるよ(笑)」と、初愛車について振り返ってくれた。

レースデビュから僅か5年でワークスドライバーに

  • トヨタのワークスドライバー時代の舘信秀氏

    ワークスドライバーとして国内外のレースに参戦。マカオでは1974年と1975年にセリカ1600GTで連覇を果たした。

サーキットでのレースデビュー戦は1965年10月24日に千葉県にあった船橋サーキットで開催された『第3回クラブマンレース船橋大会GT-1』。ライバルにはホンダのS600(57馬力)や、トヨタスポーツ800(45馬力)など、生粋のスポーツカーを相棒とした選手がズラリ。僅か700ccで28馬力の大衆車『パブリカ700』がベースの愛車では、太刀打ちすることができなかった。

そこで、翌年には先輩ドライバーの鮒子田寛氏がそれまで乗っていた競技用のホンダ・S600を手放すという話を聞きつけて購入。その甲斐もあってトヨタスポーツ800を駆るトヨタのワークスドライバーを上回る2位を獲得するなど知名度を上げ、1971年にはトヨタワークスドライバーの座を獲得するに至ったという。

ファクトリードライバーとなってからは、1972年5月3日に富士スピードウェイで開催された『日本グランプリ レース大会 TS-a』ではワークスマシンのセリカ1600GT(TA22)のステアリングを握り、遂に優勝を果たした。
また、1971年から参戦をはじめた『マカオグランプリ』では、1972年に初優勝を飾ったのを皮切りに1986年まで参戦を続け『マカオの虎』と呼ばれる所以ともなっている。

ちなみにプロドライバーになってからのカーライフについて伺ってみると、セリカをはじめとするスポーツカーは別として、と前置きしてこんな返答がかえってきた。

「ファクトリードライバーになるとトヨタの新車を貸してもらえて、ふだんはそのクルマに乗ることが多かったんだけど、いろいろな車種のなかで特にクラウンは好きだったなぁ。マイナーチェンジでも新しいモデルに変えてもらうくらい、歴代モデルに乗らせてもらったよ。サーキットへの長距離移動も快適で、特にお気に入りだったのは白い2ドアハードトップだったな」

レースを続けるために選択した『トムス』設立の道

  • 1978年にオープンしたトムスのガレージ

    1974年2月20日にトムスを設立。当初は舘氏の自宅を事務所として、作業は大岩氏の友人が神奈川県横浜市で経営していた修理工場でおこなっていた。写真は1978年にオープンしたガレージ

このまま、将来も順風満帆でレーシングドライバーとしてやっていけるか、と思った矢先の1973年。第4次中東戦争を引き金としたオイルショックが日本を襲い、自動車メーカーがレース活動を縮小、撤退。トヨタワークスも解散となってしまった。

そんな状況の中、舘氏は『レースを続けるにはどうしたら良いか?』と考え抜き、トヨタカローラ高島屋の敏腕メカニック大岩湛矣氏とともに『トムス』を立ち上げることにしたという。
ちなみに『TOM 'S』は舘と大岩の頭文字にモータースポーツを組み合わせた名前だ。

  • 大岩湛矣氏と舘信秀氏

    大岩メカニックと2人3脚で奮闘していた創成期

「プライベーター時代からレース資金を稼ぐために建築現場の現場監督、家庭教師、バーテンダーなどいろいろなアルバイトをしていたんだけど、なかでも自動車部品卸売業の仕事をしていた時に取引先のカーショップをたくさん見ていて『好きなクルマに囲まれて仕事ができて、けっこう儲かっていそうだな』と感じていたんだ。だから、レースを続けながら資金を稼ぐための手段として、現実的だと考えたんだよね」

オープン当初は大岩メカニックの腕前を知ってマシンメイクを依頼してくるお客さんが多く、セリカやパブリカのタイヤ交換やサスペンションチューン、TRD製品の販売取り付けなどが業務の中心だったという。

  • トムスの3K-Rエンジンを搭載したKP47スターレット

    約180馬力を発揮する3K-Rエンジを搭載したスターレットでの活躍は、設立から間もないトムスの知名度を高めた

そんなトムス設立の翌年となる1975年には、3K-Rエンジンを搭載したKP47スターレットで富士マイナーツーリングカーレースに参戦。累計22回のポールポジションを獲得して通算20勝、3度のチャンピオンを獲得してトムスの名を世に広めた。
その後も、自らステアリングを握るだけではなく、勢いのあるドライバーをチームに招き入れて、さまざまなカテゴリで躍進していく。

「ワークス時代にチームの先輩と話していて『お前のライバルは誰なんだ?』と聞かれて、日産やホンダのドライバー名を挙げると『ちがうよ、敵はお前だよ』と言われたことがあって。確かにチーム内でのポジション争いは厳しいからね。でも、学生時代に打ち込んでいたバスケットボールはチーム戦だったので、いつかは自分のチームを作って戦ってみたいという思いを漠然と持っていたというのも、独立の後押しになったかな」

  • トムスを代表するオリジナルホイール通称“井桁”と呼ばれた『トムスラリー』

    今でも多くのファンを持つ、トムスの“井桁”ホイール。そのインパクトは40年以上経った今でも色褪せていない

その後も国内外のレースで快進撃を続けるいっぽう、舘氏は1982年にレーシングドライバーを引退してトムスのチームオーナーに専念することを決意。並行して、レーシングカーの製作やメンテナンスだけでなく、市販車用のカスタマイズパーツの製造販売などにも尽力し、トムスを躍進させていった。

そんな数々のカスタマイズパーツの中でも、とくにスマッシュヒットとなったのが、初代セリカ用のサイドマーカーレンズ。透明な国内仕様に対してアメリカ仕様は色が付いていたことに着想を得て、オレンジ色のレンズを販売したところ大ヒット。海外仕様にカスタムする『USDM』の先駆けとなったアイテムと言えるだろう。

また、1978年にトムス初のオリジナルホイールとして発売された、通称“井桁”と呼ばれた『トムスラリー』も、レーシングフィールドで活躍していた“強いトムス”のイメージとも相まって、とくにトヨタ車のオーナーから高い反響を得た。
「今でもそうだけど、街中を走っているクルマを眺めながら、常に『なにか商品にできるものはないだろうか?』と考えながら過ごしているよ」と氏。

レーシングコンストラクターが魅せる『コンプリートカー』の妙技

  • トムスエンジェルT01

    完全オリジナルのカーボンコンポジットのモノコックボディに、20バルブの4A-Gエンジン(160馬力)をリヤミッドシップに搭載。車重は僅か700kgというライトウェイトで仕上げられた『トムスエンジェルT01』

その後もCカー、フォーミュラなどレーシングコンストラクターとして国内外のレースで活躍を続けるいっぽう、トムス創立20周年にあたる1994年にはそのノウハウを活かし『レーシングマシンの本質を公道で楽しめること』をテーマにコンプリートカー“トムスエンジェルT01”を開発。残念ながら市販化寸前で幻となってしまったが、世界中のスポーツカーファンの度肝を抜いた。

  • JPSCでトムスが走らせたミノルタトヨタ90C-V

1990年には『90C-V』がJSPC開幕戦の富士500kmでポールトゥウィン。全日本F3選手権でもチャンピオンを獲得するなど、幅広いカテゴリで活躍してきた

また、レースで得たノウハウを活かし、現在でも人気を博しているもののひとつが『コンプリートカー』だろう。
トヨタ、レクサスの現行車をベースに、エアロパーツやインテリア系、車種によってはサスペンションやブレーキ関係の強化などで盤石の走りを約束してくれるトムスのコンプリートカーは、スポーティな走りとラグジュアリーさを併せ持つハイクオリティな仕立て。モータースポーツ好きならずとも『トムス』の名は信頼度が高く、幅広い年代層から支持されている。

また、最近ではその技術力を活かして旧車のレストア事業にも着手。東京オートサロン2024ではJZA80型スープラを展示して話題を呼んだ。

  • 東京オートサロン2024に展示した『GR COROLLA Type TK』とTRD3000GT

    東京オートサロン2024のトムスブースには、レストアされたスープラと、WRCドライバー勝田貴元選手がプロデュースした『GR COROLLA Type TK』が並んでいた

舘氏が見据えるモータリゼーションの未来とトムスの行方

  • シティサーキット東京ベイでEVカートに座る舘信秀氏

    お台場という好立地に造られた『シティサーキット東京ベイ』。ショッピングや仕事帰りにでも楽しめる気軽さが良い

そして昨今では、新たにトムスの代表取締役社長となった谷本 勲氏とともに、さまざまな新規事業にも着手している。
トムスのフォーミュラ・カレッジやレーシングドライバーのトレーニングにも使える本格的レーシングシミュレーター『マルチシミュレーションシステム』、映像撮影から編集配信まで行える機能をオールインワンで賄う『オフグリッドスタジオATOM’S(アトムス)』も開発。

2023年12月には、EVカートでサーキット走行を楽しめる『シティサーキット東京ベイ』をオープンするなど、クルマに関連するエンターテイメントを多角的に展開。トムスが創業50年を迎えた今、その勢いは益々加速していく様相である。

「もともとIT系の出身でクルマとは無縁だった谷本代表だけど、今ではすっかりレースに熱中していて、よくその話題で盛り上がるんだよ。きっと『どうやったら勝てるか』って四六時中考えていると思うよ(笑)。そんな彼と一緒に、これからもレースで得たノウハウを活かしたパーツ作りや、レースファンに楽しんでいただけるようなことを続けていきたいね」

  • トムス 舘信秀氏

「昔から何をやっても長続きしなかったんだけど、不思議とレースだけは飽きることなく続けられたんだよな。そして、トムスはこれからいろいろと新たなことも始めていくかもしれないけど、レースだけは続けていきたいと思っているよ」

今後のトムスについての問いかけに、少し間を置いてからしみじみとそう応えてくれた氏。何かを思い返すようなその間は、これまで経験してきた数々のレースシーンを思い浮かべていたのかもしれない。

(写真:金子信敏/トムス)