【雨宮勇美】生涯現役を貫き、ロータリーの灯火を燃やし続ける漢
-
“アマさん”という愛称で親しまれる1946年3月3日生まれの雨宮勇美(あめみや いさみ)氏。山梨県山梨市出身。東京オートサロン2025では、自身が手掛けた「マツキヨ 刻 3ローター NA-7 by RE雨宮」が東京国際カスタムカーコンテストのチューニングカー部門で最優秀賞を受賞
例年1月に行われる日本最大のカスタムカーの祭典、東京オートサロン2025。そこに、2025年も自ら手掛けた渾身のカスタムカーを引っ提げ注目を集めた、巨匠 雨宮勇美氏の姿があった。
若くして上京し鈑金塗装の世界へと飛び込み、週末になるたび速さを追い求めて走っていた男は、自らのチューニングショップで創りあげたマシンのステアリングを握りレースに参戦するようになり、後にSUPER GTで唯一のロータリーエンジン車を走らせるレーシングチームの代表となった。
そうしたマシンたちは、性能はもちろんのことスタイルも独創性に富んでおり、カスタムカーの祭典『東京オートサロン』をはじめとする数多くのイベントで多くの勲章と称号を手に入れてきた。
愛車文化に影響を与えた人物を紹介する連載コラム。今回は、チューニング業界で孤高の存在感を放ち、御年79才にして“生涯現役”を貫き続けるRE雨宮の創業者 雨宮勇美氏にお話を伺った。
若い頃から塗装の技術を磨き、免許取得前からさまざまなクルマに触れてきた雨宮氏。18歳になると早々に免許を取得し、その3日後にはオースチンA50を運転して水戸までドライブに出かけたという
日本が高度経済成長期の真っ只中だった1960年、14歳で単身上京してロッカーや暖房関係の塗装を行う仕事に就いたという雨宮氏。しかし、労働環境の厳しさなどから3人の仲間と共に最初の就職先から逃げ出し、運送業や鈑金業などを渡り歩いた末、たどり着いたのが自動車の鈑金&塗装業だったそうだ。
その後、技術力を磨いた雨宮氏は21歳で念願だった鈑金屋として独立。そして1976年、30歳を超えた頃に東京都江東区に『雨宮自動車』を設立し、鈑金塗装だけではなくチューニングやカスタマイズも本格的に行うようになっていったという。
初愛車は「可愛い見た目が気に入った」というスバル360のオープントップ。初めて参加した公式レースは、22歳の頃にサニーで挑戦した日刊スポーツ新聞社・赤羽台自動車クラブ共催のJAF公認第三回ウインター500kmラリーだったという
そんな鈑金修理の仕事を行う中で、マツダのディーラーから修理依頼を受けることが多かったことから、ロータリーエンジンと出会ったという雨宮氏。
「仕事でマツダ車を扱うことが多かったんだけど、あるとき修理に入庫してきたロータリーエンジンのコンパクトさに衝撃を受けたんだよね。それに、レシプロエンジンは構造が難しいけど、ロータリーエンジンの構造はシンプルで、自分でもイジれそうだなって思ったんだ。エンジンが壊れた時にも、シリンダーブロックの修正やヘッドのバルブガイド打ち変えみたいな時間のかかる加工が必要なくて、部品を組み変えればまた走れるようになるという修理時間の早さなんかもメリットだったね」
実際に壊れたエンジンを一晩のうちに降ろして修理してまた搭載して走りに出かけるということも珍しくはなかったというから驚かされる。
「(初の愛車の)スバル360は見た目の可愛さが気に入って買ったけれど、それから先は速くてカッコいいクルマにこだわってきた。速いだけじゃダメ、カッコよくて他人と違うクルマに乗りたいから、必ずどこかイジって、ノーマルで乗ることはなかったね。若い頃はすべてをクルマにかけていたよ」とのこと。
そんな情熱と経験を詰め込んで作り出されるデモカーたちは、その速さとカッコよさで徐々に注目を集め、1980年代前半には“RE雨宮”と”アマさん”の名は全国に知られるまでになっていた。
-
テストコースでおこなわれていた最高速アタック企画で、1985年1月にロータリーエンジン搭載車として初の300km/hオーバーを記録したRE雨宮のSA22C型RX-7(OPTION誌1985年4月号より)。
徐々に高まる名声とレース活動への思い
-
まわりの仲間たちと共にサーキット走行にも熱中。ちなみに若い頃の愛車はグリーンが定番カラーだったそうだが、徐々に“平和”の象徴であるブルーを使うことが多くなっていったのだとか
チューニングカー業界での活躍の一方で、雨宮氏がドライバーとしてレース活動も行っていたということは、あまり知られていないかもしれない。
この頃について雨宮氏に尋ねてみると「チューニングショップを立ち上げてトラストさんと知り合ったのが、レースをやってみようと思ったキッカケ。トラストさんはチューニングパーツメーカーであるいっぽうで、レース活動にも力を入れていて、そういう姿を見て憧れて『自分もやってみたい!』とレースにハマっていったんだよね」と振り返ってくれた。
「まっすぐ走るだけのゼロヨンや最高速アタックより、レースでいかに速いかを競うのが好きだったんだよね。練習は嫌いだったけど(笑)」と雨宮氏。
1982年7月の全日本富士1000kmレースや同10月の『世界耐久選手権富士6時間レース大会』(WEC IN JAPAN)には、RE雨宮FRONTIER RX-7(SA22C)でドライバーとして参戦。その後も、富士フレッシュマン&チャンピオンレースにFC3Sやロードスターで参戦してチャンピオンを獲得している。
そして、1986年から1995年までジャパン・スーパースポーツ・セダンレース(JSS)に、1995年からは全日本GT選手権、そしてSUPER GTへと参戦を続けることになっていくのである。
ブルーとピンクのツートンカラー、通称『ブルピン』のマシンでさまざまなレースに参戦。
SUPER GTでロータリーの灯を燃やし続けた16年間
-
SUPER GT参戦当初は、レースカーとはいえ市販車の面影を残すマシンで参戦。メーカーワークスではなく、あくまでもプライベートチームとして戦った。当時の雨宮氏は参戦する理由について「チューニングショップの目標でいたいから」と語っている。
1971年に10Aエンジンを搭載したファミリアロータリークーペを新車で購入したのが、自身初のロータリーエンジン搭載車だったという雨宮氏。以来、カペラやRX-3などはもちろん、シャンテやキャロルにロータリーエンジンを搭載したり、ロードスターやディーゼルエンジンのアテンザをチューニングしたりと歴代マツダ車を手がけてきたが、中でもイチバンのお気に入りはFD3S型のRX-7だという。
「RX-3も好きだったしサバンナもカッコよかったけど、やっぱ1991年にFD3Sが発売された時は本当に感動したね。速いし見た目も美しいし、今でもイチバン大好きなクルマだよ」
そんなRX-7で16年にわたって参戦を続けたのが全日本GT選手権・SUPER GTだった。
「自社のエアロパーツを使えるなどレギュレーションの自由度が高かったから、自分たちで作ったクルマで自動車メーカーが作った本物のレーシングカーと戦うことで、自分たちの技術を確認することができると思って参戦を決めたんだよね。それに、どうしても国内最高峰のレースでロータリーエンジンのクルマを走らせ続けたかったんだ。だから『マツダがやらないなら自分がやる!』って思って頑張ったよ」
参戦当初は2ローターの13B、1997年からは3ローターの20Bエンジンを搭載するなどマシンは徐々に進化。2004年の第2戦からはキャビン部のみ純正モノコックを残して前後を鋼管フレームで構成したパイプフレーム仕様のRX-7で参戦し、2006年に念願のSUPER GTシリーズチャンピオンを獲得した。
参戦費用やマシン製作に必要な技術力など"マチのチューニングショップ”が参戦するというのは容易ではなかったものの、マツモトキヨシやアスパラドリンクといったクルマ業界以外のスポンサーからの協力も得ながら走り続け、2006年にはGT300クラスのシリーズチャンピオンを獲得。資金力に限りのある完全なプライベートチームながら、メーカーワークス勢と真っ向勝負を繰り広げ大活躍を遂げたのだ。
同時に、ロータリーエンジンを搭載したRX-7が孤軍奮闘する姿やそのエキゾーストノートは、多くのファンを魅了したのであった。
そして、その活躍はSUPER GTだけにとどまらず、ドリフト競技の国内最高峰『D1グランプリ』や、チューニングカーがサーキットで1周の速さを競うタイムアタックには現在も参戦を続け、ロータリーサウンドを轟かせている。
ドリフト競技D1グランプリでは数少ないロータリーエンジン勢として奮闘中。タイムアタックシーンにおいても、聖地とされる筑波サーキットはもちろん、オーストラリアで行われる「ワールドタイムアタックチャレンジ」などにも参戦歴がある。
「生涯現役」ロータリーチューナーが見据える先は?
-
東京オートサロン2025でお披露目となり『東京国際カスタムカーコンテスト』の花形とも言えるチューニングカー部門で最優秀賞を受賞した『マツキヨ 刻 3ローター NA-7 by RE雨宮』。
RE雨宮のクルマ作りは速さだけにとどまらず、数多くのエアロパーツやボディキットを生み出し続け、時にはベース車の面影がまったくないほどまでのカスタムを手掛けているのが特徴のひとつ。
エクステリアはもちろん、3ローターNAの20BエンジンとRX-8純正6速ミッションを組み合わせ、赤を貴重としたインテリアカスタムも施されるなど、全体にわたってカスタマイズが施されている。
エアロ作りに目覚めたり、シザーズドアや内装カスタムなどにも興味を持つようになったりと、雨宮氏が性能以外の部分も意識するようになったのは1980年代の後半で、そういったエッセンスをデモカーに積極的に取り入れてきたという。
1982年からはじまった東京オートサロン(当初はエキサイティングーカーショー)に、開催初年度から出展し続けている唯一の存在となっていて、2025年の東京国際カスタムカーグランプリでもチューニングカー部門の最優秀賞を獲得するなど、長年にわたって活躍を続けている。
黎明期から大掛かりなチューニングを多数手掛けてきたRE雨宮。一方で、公認車検にも積極的に取り組んでいて、デモカーの『GReddyシリーズ』はほぼすべての車両が改造申請によってナンバーを取得しているという。
「自分は練習が嫌いだったし、『これをこうしたら速くなる』みたいなクルマのことを考えることのほうが好きだった。監督とか代表って言うよりも、今でも作業場にこもって仕事をするのが好きだし、エンジンを触っている方が落ち着く気がするよ」
-
今でも毎日、作業場に立ってエンジンの組み付けやパーツの塗装を行う雨宮氏。その手はゴツゴツとしていて大きな“職人の手”だ。
親しみやすさと人情味で、いつも多くの仲間やファンに囲まれている雨宮氏。その手を見れば、これまでの長いチューニング人生を感じるとともに、いまだに現役でクルマいじりをしていることは一目瞭然だ。
そんなロータリーチューンのレジェンドは、2025年3月3日に79歳の誕生日を迎える。そして、その頭の中には、すでに次のデモカーの構想が浮かんでいるというからその完成が今から楽しみだ。
(取材協力:RE雨宮)
愛車文化に影響を与えた名ドライバー
-
-
【雨宮勇美】生涯現役を貫き、ロータリーの灯火を燃やし続ける漢
2025.01.26 コラム・エッセイ
-
-
【市嶋 樹】『速くて壊れないクルマ』を追い求めて走り続けたホンダの雄・・・愛車文化と名ドライバー
2024.12.28 コラム・エッセイ
-
-
【田中 実】ドライバーのスキルと“モノへのこだわり”を市販車向けパーツに全力投球・・・愛車文化と名ドライバー
2024.12.17 コラム・エッセイ
-
-
【織戸 学】レーサーに憧れ、夢を叶えた今でも胸に刻む『走り屋』魂・・・愛車文化と名ドライバー
2024.12.05 コラム・エッセイ
-
-
【長谷見昌弘】とにかく運転することが好き。今なお“現役”で楽しむレースと愛車ライフ・・・愛車文化と名ドライバー
2024.12.01 コラム・エッセイ
-
-
【柳田春人】『Zらしく』を50年突き詰めた漢のこだわり・・・愛車文化と名ドライバー
2024.11.30 コラム・エッセイ
-
-
【舘 信秀】「TOM'Sの設立はレースを続けるため」。レースと共に歩んだ50年のその先へ・・・愛車文化と名ドライバー
2024.11.29 コラム・エッセイ
最新ニュース
-
-
日産フォーミュラEチーム、ジェッダE-Prix参戦へ…初の「ピットブースト」で拡大する戦略の幅に注目
2025.02.13
-
-
「ホンダ史上最強のアドベンチャーSUV」発売、ホンダ『パスポート』新型は約690万円から
2025.02.13
-
-
バッテリー上がりで立ち往生!? JAFデータが示す驚異の発生率と対策法~Weeklyメンテナンス~
2025.02.13
-
-
フォーミュラE、米国でF1を上回る人気に、視聴者数記録を更新
2025.02.12
-
-
車検の混雑を回避せよ! 2025年からの新ルール&賢い受け方ガイド
2025.02.12
-
-
自動車部品の端材をバッグや文具に、豊田合成のエシカルブランド「Re-S」東京ギフトショーに出展へ
2025.02.12
-
-
目指せゴールド免許! 約13年無事故無違反を続けられたポイントを伝授
2025.02.12
最新ニュース
-
-
日産フォーミュラEチーム、ジェッダE-Prix参戦へ…初の「ピットブースト」で拡大する戦略の幅に注目
2025.02.13
-
-
「ホンダ史上最強のアドベンチャーSUV」発売、ホンダ『パスポート』新型は約690万円から
2025.02.13
-
-
バッテリー上がりで立ち往生!? JAFデータが示す驚異の発生率と対策法~Weeklyメンテナンス~
2025.02.13
-
-
フォーミュラE、米国でF1を上回る人気に、視聴者数記録を更新
2025.02.12
-
-
車検の混雑を回避せよ! 2025年からの新ルール&賢い受け方ガイド
2025.02.12
-
-
自動車部品の端材をバッグや文具に、豊田合成のエシカルブランド「Re-S」東京ギフトショーに出展へ
2025.02.12