【市嶋 樹】『速くて壊れないクルマ』を追い求めて走り続けたホンダの雄・・・愛車文化と名ドライバー

  • 市嶋樹氏とSPOON リジカラ CIVIC

    スプーンスポーツの創業者である市嶋 樹(いちしま たつる)氏は、1951年7月25日に石川県小松市で生まれた。


愛車文化に影響を与えた名ドライバーを特集するこの企画。今回はホンダ車のカスタマイズを手がける『SPOON』の創業者である市嶋 樹氏にお話を伺った。

レーシングドライバーとして常に『より速くて壊れないクルマ』を追い求め、そのノウハウを市販車にも活かせるようなパーツを生み出すべく市嶋氏が創業したSPOON。その象徴である青と黄色の特徴的なカラーリングは、日本だけでなく海外でも高い人気を誇る。

そんな市嶋氏とSPOONの来歴を振り返ってみよう。

海外進出のキッカケは『長く走れる耐久レースがあったから』!?

レーサーと聞くと『どうやったら速く走れるか?』というドライビングテクニックを突き詰め、常にそのことで頭がいっぱい……というイメージが浮かぶ。
しかし、市嶋 樹氏の場合、走る目的は『走るのが楽しい』からであり、そのときに考えているのは『どうやったらもっと速くて壊れないクルマをつくれるか?』ということだったという。

「昔からドライバーには『速いやつ』と『うまいやつ』がいて、私は決して速く走れるタイプのドライバーではなかったんです。いつも『どうやったら速く走れるか』ということよりも、エンジンの振動やサスペンションの動き、排気音などを感じながら『どうやったらこのクルマをもっと速くできるか?』ということを考えていました」

  • 英国スネッタートンを走るSPOONカラーのシビック
  • マカオを走るSPOONカラーのNSX

1991年に英国スネッタートン24時間耐久レースにEF3型シビックで参戦してクラス優勝したのを皮切りに、歴代シビックをはじめNSX、S2000などで数多くの海外レースに参戦してきたスプーンスポーツ。

スプリントレースよりも、乗っている時間が長い耐久レースのほうが好きで、ニュルブルクリンク24時間レースなどの海外レースに挑戦したキッカケも「国内では十勝24時間レースがなくなってしまって、それならばニュルやマカオなど耐久レースがさかんな海外で走ってみようと思ったんです。もちろん、日本だけではなく海外に進出することで、より大きなマーケットやニーズを狙ったというのもありますけどね」と、海外レース進出に至った経緯を語ってくれた。

そうして実際に海外でステアリングを握って活躍する姿を示したことで、市嶋氏と『SPOON』の名は、青と黄色の特徴的なカラーリングとともに現在はアメリカやアジアなどでも高い知名度と人気を誇っている。

  • SPOONの海外拠点のマップ

    SPOONはカナダ、アメリカ、EU圏、イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、タイ、フィリピン、中国、香港、マカオ、台湾、マレーシア、インドネシアと多くの海外拠点を持つ

クルマとバイクが好きな青年がグループAドライバーに!

  • 若き頃の市嶋樹氏

    モータースポーツの世界に飛び込んだ市嶋樹氏は、ドライバーとしてステアリングを握ると同時にクルマいじりにも熱中。「どうやったらクルマが速くなるか?って常に考えていましたね」と振り返る。

石川県小松市で生まれた市嶋氏は、モータリゼーションによって乗用車が大衆に普及しはじめた時代に幼少期を過ごし、小学生の頃には近所の大工さんが乗っていたホンダ・スーパーカブに興味を持つようになっていたという。そして16歳になると軽自動車免許を取得し、とにかく安くてすぐ手に入れられるということでマツダ・キャロルを購入。

「そのあとホンダ・N360に乗り換えたんですが、16歳の夏に琵琶湖でハイスピードジムカーナという大会があることを知って、出てみようと思ったんです」
これが市嶋さんのモータースポーツデビューとなる。

いっぽうで18歳になって普通車免許を取得すると友人たちとドライブに出かけたりクルマを取り替えっこしたりと充実したカーライフを満喫していたという。当時を振り返るとファミリアロータリークーペ、54Bスカイライン、B10サニーといったクルマたちで遊んだ記憶が思い出されるそうだ。

  • ホンダ・S880でサーキットを走る市嶋樹氏
  • ホンダ・S880でサーキットを走る市嶋樹氏

ホンダ・S880などで腕を磨くいっぽう、フォーミュラやオートバイのレースにも参戦。

20代前半になると、オートバイのプライベーターたちが集まる『RSC』に足繁く通ってホンダやレースの関係者とのコネクションを構築。エンジン仕様も異なるスーパーカブに乗ってひたすらサーキット内を周回する走行テストなどにも参加するようになっていったという。

「そうしているうちに、のちに無限の専務となる木村さんに目をかけてもらえるようになり、1985年に全日本ツーリングカー選手権がはじまるとシビックのドライバーとして声をかけてもらったんです。それまでもプライベーターとしてN1規格のレースにシビックで参戦していましたけど、全日本ツーリングカー選手権は当時の国内最高峰レース。関東の大御所だったスズキレーシングとツチヤエンジニアリングが作り上げたグループA のAT型シビックで、3年ほどドライバーを務めさせてもらいました」

  • 全日本ツーリングカー選手権にE-AT型のシビックで参戦する市嶋樹氏

    DOHC水冷4気筒エンジンの『ZC』を搭載したE-AT型のシビックで、全日本ツーリングカー選手権や国際ツーリングカー耐久レース(インターTEC)などに参戦。

走っているからこそ生まれるスプーンのパーツ群

  • 市嶋樹氏が創業したバイクショップ『モトランド』

    ホンダのバックアップを得て『モトランド』を創業。店舗は、現在のタイプワンから30mほどの距離にあった。

全日本ツーリングカー選手権参戦と時は前後するが、市嶋氏が30歳を迎えようとしていた頃、ちょうど国内にモーターサイクルショップの展開を画策していたホンダのバックアップを経て、東京の荻窪に『モトランド』というオートバイカスタムの店舗をオープン。
店舗経営のかたわらレース活動も継続しており、ドライバーとメカニックの両方の技量を積み重ねていたという。

そんな市嶋氏にとって全日本ツーリングカー選手権とおなじくらい自身の人生に影響を与えたレースが、1985年に筑波サーキットで開催された9時間のナイター耐久だったという。

「市販車を使って走るプロダクションレースの草分け的なもので、マフラーを交換したマシンで夜通し走るんだよ。当時は連続して走るとクルマが壊れてしまうので、3時間に1回、1時間のインターバルを挟むルールでね」と楽しそうに当時の様子を振り返ってくれた。
このレースにも『ZC』を搭載したE-AT型のシビックで参戦した市嶋氏。その速さと強さは群を抜き、見事優勝を飾ったのだ。そして、このレースでシビックのポテンシャルに感動を覚えた市嶋さんは、レースカーとしてだけでなくロードカーとしても走りの魅力をさらに引き出すためのパーツ開発もスタートし、1988年にはチューニングショップ『スプーンスポーツ』を開業することとなった。

  • 開業当時のスプーンスポーツ
  • SPOONの本社ビル

1988年1月、東京都杉並区下高井戸の甲州街道沿いにスプーンスポーツを開業。1996年には現在の東京都杉並区荻窪に本社ビルを建てて移転するなど破竹の勢いで成長を遂げた

1989年にインテグラとともにEF型シビックにもVTECエンジンが搭載され、1990年には発売されたばかりのNSXの北米モデルをレース車両に仕上げてマカオGPに参戦するなど、勢いに乗るホンダ車人気の高まりは、そのままスプーンの追い風に。

1994年に東京オートサロンで発表したカーボンボディカウルのEG型シビックは多くの観客を驚かせ、1997年には発売6日後のシビックタイプR(EK9)を鈴鹿でデビューレースに参戦させている。

  • SPOONの整備工場『タイプワン』
  • タイプワンでは街道沿いにエンジン室がある

2001年5月にアンテナショップでありチューニングを行う整備工場『タイプワン』をオープン。環状八号線沿いに設けられたクリーンなエンジン室では、人気アイテムの『コンプリートエンジン』が丁寧に組み上げられている。道ゆく人が足を止めてその作業に見入っていることも多いとか

「僕は『レースで速いから』という理由でパーツが売れるとは思っていなくて、いつも考えているのは『こういうパーツがあったら楽しいでしょ?欲しいでしょ?』と思えるパーツなんです。ウチのヒット商品だったVTECコントローラーは『切り替えタイミングをイジれたら楽しそう』っていう発想で作りました。あとは、当時は仕様がいろいろありすぎて選びにくいうえに性能もピンキリだったエンジンパーツに関しても『ホンダ基準で組んだハイパワーなコンプリートエンジンなら安心して使ってもらえるのでは?』と考えたわけです」

昔からクルマいじりが好きで、つねにクルマ好きの目線に立って考え続けている市嶋氏の生み出すパーツは、『レースに参戦しながら走りへの想いをカタチにする、走って考える企画室』というスプーンのコンセプトどおり、クルマ好きたちのニーズにピッタリとマッチし、どんどん広まっていったというわけだ。

そのラインアップはホンダ車だけにとどまらず、ボルトとボルトの隙間を無くすことで剛性アップをはかる『リジカラ』は、約1000種類以上に展開する人気パーツとなっている。

  • SPOONのコンプリートエンジン
  • SPOONのリジカラ

スプーンが組み上げるコンプリートエンジンやオーバーホールエンジンは、メーカーラインでの組み立て基準をベースに、レースでのノウハウも活かして各部品の公差測定や精密ホーニング加工などをおこなったうえで組み上げられる。『リジカラ』はボルト穴とその周辺の隙間を埋めることで剛性アップをはかるパーツで、ホンダ車以外にも広く対応している人気パーツだ。

『いつまでも走りたい』という想いを込めたゼッケン95

  • SPOON リジカラ CIVIC

    会社名の由来は鈴鹿サーキットの『スプーンカーブ』からつけたもので、レースカーのカラーリングは市嶋氏がイタリアで見た「空の青とミモザの黄色のコントラスト」をイメージしているという。

「僕は、昔からどうやったら『速くて壊れないクルマをつくれるか?』を常に考えてやってきましたし、自分が引退しても、その精神は受け継いでいってもらえたらいいなと思っていました。そうしたら、最近聞いた話によると、現在のスタッフたちもレースで壊れた部品などがあると、それを観察したり、調べたりしているらしいんですよ。そうやってクルマについて考える人が増えるほどより良いパーツを生み出すことができるだろうし、そういう理念や信念みたいなものを引き継いでもらえていると思うと、なんだか嬉しいよね」と、少し照れくさそうに微笑んだ。

  • 甲斐琢也氏と市嶋樹氏
  • 甲斐琢也氏とSPOON来客者の寄せ書き

市嶋氏は2021年にスプーンを引退し、現在は甲斐琢也氏がその意思を継いで代表取締役を務めている。「最近は海外からのお客様もたくさん来店していただくので、みなさんに寄せ書きをしてもらっているんです。2024年ぶんはいっぱいになってしまったので、ちょうど2025年用に変えるところなんですよ」とのこと。寄せ書きを読んでみると世界各国のスプーンファンの熱意が伝わってくる

「私にとってクルマは『夢とロマン』。引退したからといってクルマから離れる気は無いし、カッコつけたことを言うと、いつまでも走り続けていたいよね。実はスプーンのレーシングカーのゼッケンはもともと『54』が定番だったんですが、ある頃から『90歳を過ぎても現役で走っていたいな』と思って、その気持ちを込めて『95』に変えたんですよ」

  • 市嶋樹氏

現在は長野県に居を移し、軒先にはホンダのS600やS800、さらにはオートバイなどのコレクションを並べて楽しんでいるという市嶋氏。
きっと今日も磨き上げた愛車たちをイジりながら、理想の走りを思い描いているに違いない。

(取材協力:スプーンスポーツ)

出張取材会in山梨長野
参加者募集! 1月12日 10:00まで