【勝田照夫】「ラリーを通じて社会貢献を」日本のモータースポーツ発展に命を燃やし続けた50年・・・愛車文化と名ドライバー
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愛知県豊田市出身、1943年9月2日生まれの勝田照夫(かつた・てるお) 氏。株式会社ラックの代表取締役会長。
2025年1月29日に行われた第54回日本プロスポーツ大賞の授賞式典にて、2024年度スポーツ功労者文部科学大臣顕彰を受彰した勝田照夫氏。
中学校卒業後から自動車業界に足を踏み入れ、イギリスで開催されていたWRC(世界ラリー選手権)のRACラリー(現在のウェールズ・ラリーGB)で日本人初のクラス優勝を遂げるなどラリードライバーとして活躍。
ドライバー引退後も観客動員数5万人を超える『新城ラリー』を築き上げるなど、50年以上に渡ってラリー競技の普及活動に尽力してきた勝田氏のポリシーは「社会に貢献するモータースポーツ」だという。そんな勝田氏の半生をお届けしていこう。
中学校卒業後に進んだ技能者としての道
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1975 年にイギリスのRACラリーに日本人としてはじめて参戦した勝田氏
「小中学校の頃は野球に夢中でした。当時は仕事に使う木炭自動車のトラックなんかが走っているくらいで、自家用車というのは一般に普及していなかった時代ですから、クルマに興味を持つという考えも機会もなかったですね」
戦後まもなかった幼い頃の様子をこのように振り返ってくれた勝田氏が、クルマに関わる人生を歩む転機となったのは、中学卒業後の進路について考えている時だったという。
「高校に進学するのは難しい家庭環境だったので、親たちがいろいろ探してくれた結果、トヨタ自動車が技術者を育成する養成校に入学することになったんです。3年間そこで学びながらお給料もいただけて、そのままトヨタの技能者として働くことになりました。運転免許も、在学中に施設で訓練をして、免許試験場に受験しに行きましたね。一緒に受験した40人くらいの中で、一発で合格できたのは私を含め4人ほどでしたから、今になって振り返ってみると、当時から運転技術にはちょっと自信を持っていたと思います」
ちなみに運転免許を取得してはじめて手に入れた愛車は、就職後に購入したホンダのスーパーカブ。「当時は憧れだったし、手に入れた時はすごく嬉しかったのを覚えていますね。通勤で毎日乗っていましたよ」
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「鉄板を叩いたり溶接したりして1台ずつ試作車を作っていました」と当時を振り返る勝田氏
こうして豊田工科青年学校(後のトヨタ技能者養成所、現・トヨタ工業学園)の14期生として技術を学び、18歳のときに配属されたのはトヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)の第3技術部 試作課。当時はちょうどクラウンの初代モデル“観音開きクラウン”を生産していた時代で、勝田氏は試作車両を鉄板から叩き出して製造する作業を担当していたそうだ。
「当時は技術部の人間も少なかったですから、自分たちで作った試作車を自分たちで走らせて、性能評価をして修正を繰り返すということをやっていました。今考えると、この当時にはいろいろなことを勉強させていただきましたね」
はじめてのクルマはこの頃に10万円で購入した中古車の観音開きクラウンで「ちょうど1963年に日本初の高速自動車国道として栗東IC-尼崎IC間が開通したころで、テレビやラジオでは毎日のようにタイヤの空気圧などに関する注意喚起が流れていました。そんな時代に友達を乗せて高速道路を走って100km/hを出したっていうのが、すごく記憶に残っています。当時はそんなハイスピードを出すというのは簡単なことではなかったんですよ」と懐かしそうに教えてくれた。
ラリーと出会ったキッカケは『トヨタ7 』だった!?
そうして仕事や愛車でのドライブを楽しんでいた勝田氏がモータースポーツと出会ったのは、それからさらに数年が経った頃のことだった。
「トヨタ社内でさまざまな部署から人材を集めてレーシングカーを製造する第7技術部が立ち上がり、私もそこに配属されてトヨタ初の自社製レーシングカー『トヨタ7』を作ることになりました。当時のトヨタはトヨタ自動車工業(自工)とトヨタ自動車販売(自販)というふたつの会社だったんですが、モータースポーツについて詳しかったのは私がいた自工ではなく自販の方たちでした。
そのなかにラリーをやっているという先輩がいて、試しに見学に行ってみることにしたんです。それを見た瞬間、なぜだかわからないけど、瞬間的にピンときたんですよね。この頃はレーシングカーを作って自分たちで走らせていたのでサーキット走行などの経験もありましたが、そういったレースよりも『ラリーをやろう!』と思ったわけです」
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1969年にJMCが開催したラリー競技で優勝したことから、一気にラリーにハマったという勝田氏。その後、1979年にJAFがはじめて開催した『全日本ラリードライバー選手権』でも優勝を遂げている
こうして、レーシングカーを作る仕事をしながら、プライベートではラリー活動を始めたという勝田氏だが、当時のラリーは今とはだいぶ異なっていたそうだ。
「日刊自動車新聞社が立ち上げたJMC(日本モータリストクラブ)主催のラリーが全国で開催されていたんですが、5人乗りのクルマに5人が乗って走っていました。運転するドライバーと、助手席には地図を読むナビゲーター(コ・ドライバー)というのは今も一緒ですが、後部座席の3人は地図の距離と時計を見ながら、規定時間に対して早いか遅いかなどをリアルタイムで計算するんです。信じられないでしょ?」と楽しげに当時を振り返ってくれた。
プライベーターでもワークスに勝てるのがラリーの魅力
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トヨタ退社後にモータースポーツ好きな仲間たちと『モンテカルロ・オート・スポーツクラブ(MASC)』を設立
第7技術部でレーシングカーを作成しつつ、プライベートではモータースポーツ好きな社員の仲間とともにトヨタオートスポーツクラブ(TEAM-TASC)を立ち上げるなどラリー競技に熱中する日々を送っていた勝田氏だったが、あるタイミングで第7技術部の活動が終了。そのあとに配属されたのは、当時の専務だった豊田章一郎氏の肝入りプロジェクトとして立ち上げた住宅部門だった。
「トヨタの工場敷地内の片隅で極秘裏に進められたそのプロジェクトでは、章一郎さんも一緒になって、試作した住宅で実際に寝食を共にしながら性能評価などをおこなっていました。そうしているうちに私がラリーをやっていて、クルマ作りをするための場所に困っているという話になり『それならば終業後に会社内でやったらいい』と公認をいただいて、終業の敷地内でラリー車のメンテナンスを行うことなども許されるようになったんです。ほんとうに、おおらかな時代でしたね」
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トヨタを退社して立ち上げた『モータースポーツコーナーKATSUDA』
「そんな折、実家の母が経営していたホテル事業を継ぐために自己都合退職することになったんですが、その後もラリーは続けたかったので、ホテルの1階にあった車庫を改装して、トヨタで仲良くなったクルマ好きたちが集まれるスペース『モータースポーツコーナーKATSUDA』を作ったんです。そこでみんなが走るために必要なタイヤや部品の手配などをするうちに、徐々に商売として成り立っていくようになりました」
こうしてトヨタ退職後もラリー競技を続け、1979年に初開催されたJAF全日本ラリードライバー選手権(全日本ラリー選手権の前身)では第1回目のチャンピオンに。
ちなみにこの頃の愛機はKP61スターレットで「たしか、たまたまお客さんが持ってきたクルマだったんですが、いつものテストコースで試してみたら、登りはパワーがないので速くないんですけど、下りではフルチューンのTE27より速かったんですよ。あれにはびっくりしましたね」と、そのポテンシャルの高さに驚いたそうだ。
続けて「サーキットのレースでは、メーカーのワークスチームが作ったクルマには敵わないっていうのが常識でしたが、路面ミューの低いラリー競技はハイパワーなら良いというわけではなく、お金のないプライベーターでも勝ち目があるというのが面白いところのひとつだと思っています」とも語ってくれた。
そして、この優勝を機に支援を受けるようになったトヨタオート中部(現・ネッツトヨタ中部)やトヨタカローラ愛知の協力を得て、KP61スターレット用のクロスミッションを発売したり、新店舗をオープンしたりと、その後の活動もどんどん加速していったという。
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全日本ラリー選手権に参戦していた頃の愛機はKP61型スターレットだった
日本を飛び出して見えた「モータースポーツの魅力」
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RACラリーの1600cc車両が参加できるグループ2に参戦(写真は1978年)。「スタートに着こうと思ってもクルマのまわりを観客が囲んでいて動けなかったり、走っているとコーナーの先に観客がいたりと、衝撃的なことばかりでした」
全日本ラリードライバー選手権での優勝をキッカケに海外への挑戦を考えるようになったという勝田氏は1975年、32歳のときにイギリスで開催されていたRACラリーにTE37カローラレビンを持ち込み、日本人として初参戦を果たした。
「今のように簡単に情報が手に入る時代ではなかったですが、オートテクニックという雑誌で海外のラリー情報などが紹介されていて、それによると海外ラリーはなんと200万人も観客が集まるというではありませんか。当時の日本では、ラリーは人目につかない夜にひっそりと行われているような状態でしたから、信じられなかったし、とても気になったので、なんとか資金をかき集めて参加してみることにしたんです。
英語が話せる訳でも、向こうに知り合いがいる訳でもなかったんですが、左側通行だということと、まだほかの日本勢が参戦していないということで決めました。今考えるととても無謀な挑戦でしたね(笑)」
「車両はTTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)の福井副社長の協力を得て運んでもらえることになり、コ・ドライバーは学習院大学卒で英語もバリバリ、海外ラリー経験もあってアブコというラリーショップを営んでいた内山弘紀さんにお願いしました。しかし、参加したグループ2というカテゴリはチューニングレベルの高いレギュレーションで、こっちは当時の国内レギュレーションに合わせたほぼノーマル車両だったので、その差は歴然。
それでも参戦を続けるうちに、現地のラリークラブやトヨタGBなどにも協力していただけるようになって、3年目からお願いするようになった現地のコドライバーDerek Webb氏などの尽力もあり、7年間参戦し(9戦)の1983年にグループ2でクラス優勝を果たすことができました」
そして、これを機にドライバーとしての活動に区切りを付け、次のステップへと進むことを決意。「海外でのラリーの盛り上がりや、社会的な成熟ぶりを見て、日本でももっとラリーを広め、人材育成なども行っていこうと思ったんです」
TE37型カローラレビンやTA22型セリカなどで走行する勝田氏
ラリーによる地域貢献を実証。そして次なる構想は!?
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2004年から2023年まで開催した『新城ラリー』。編集部が取材に訪れた2021年には、勝田氏がGRヤリスのゼロカーのドライバーを務めていた
話はモータースポーツコーナーKATSUTAをオープンする前後まで遡るが、当時からラリーに参加するだけではなく運営や主催などもおこなうようになっていた勝田氏は、JAF加盟クラブとして『モンテカルロ・オート・スポーツ・クラブ(MASC)』を設立し、活動を続けてきた。
その名がよく知られるようになったのが、2004年からJAF中部・近畿ラリー選手権の一戦としてスタートした『新城ラリー』。2007年からは全日本ラリー選手権へと昇格し、2023年まで開催されたこのイベントは、観客動員数5万人を上回る地域最大級のイベントであり、国内で開催されているラリー競技の中でもトップクラスの規模と知名度を誇った。
「小泉政権時代に内閣府が特別区域法にあてる事業を募集した時に、愛知県新城市が『アウトドアスポーツで地域振興』を申請したところ、真っ先に認可されました。そして当時、JAFのラリー部会にいた私のところにも相談があったんです。最初はサーキットを作りたいなどという話もあったのですが、設備を作ってしまうと維持管理が大変なので、それならば既存の道を使えるラリーをやりましょうと提案したわけです。
最初の頃は地元住民や役所、警察などにご理解をいただくまで苦労もありました。でも最終的には新城市やボランティアの方などといっしょにイベントを開催できるようになり、無事に開催20回を数えることができました。最後の頃はホームページで開催ボランティアを募集すると200人くらいが応募してくれるという状態が何年も続いていましたからね、こんなラリーはほかにはないですよ」
メイン会場となる県営新城総合公園においても、年間を通して有数の来場者数を誇るイベントであったことから、まさに勝田氏が目指した「モータースポーツによる社会貢献」の実証例といって間違いない。
また、2022年から愛知県と岐阜県で開催されているWRC(世界ラリー選手権)『ラリージャパン』も、この新城ラリーの開催実績なくしては実現し得なかったかもしれない。
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2024年からはじまった『RALLY三河湾』や、2017年に発足した『WOMEN'S RALLY』などを主催。開催地となる愛知県知事や新城市長、蒲郡市長、恵那市長をはじめ、自由民主党モータースポーツ振興議員連盟会長を務める古屋氏などとともに、官民一体となって地域振興に取り組んできた
そして、そんな新城ラリーに変わって2024年から新たにスタートしたのが『Rally三河湾』である。
「蒲郡市の観光業がコロナ禍で大打撃を受けたという話を市長から伺って、その復活に力添えができればという思いで取り組んでいます。たまたま蒲郡市の景観、見た目、雰囲気がモナコに似ているなぁと感じたこともあって、ラリーの開催を提案しました。そして、2025年1月にはモナコ側からモンテカルロラリーへの招聘があり、蒲郡市長と同行して一緒にラリーを観戦したり、モナコ駐日大使やモナコ市長との会合を行ったりと、ラリー以外に関してもいろいろな交流がはじまっています」
現在は愛知県長久手市にあるラック。照夫氏の息子で全日本ラリー選手権チャンピオンを9度獲得している勝田範彦氏が代表取締役社長を務める。また、範彦氏の息子で現在WRCに参戦中の勝田貴元氏も、トムスとのコラボでGRヤリスやGRカローラのエアロをプロデュースするなど多方面で活躍している
そして現在、ラックでは既存店舗の横に新たな工場を建てる工事の真っ最中。
「孫の貴元が会社を設立して、競技車両の製作をおこなうためのファクトリーを建設しているところなんです。これが完成したら、その次はクラシックカーを扱う高級志向な雰囲気のショップも設立したいなと考えていますよ」
「ラリーはレースと違って未知の世界を走ることができるのがおもしろいところだと感じています。そして、先が見えないコーナーに全力で飛び込んでいくラリーって、人生と似ているなぁと思うんです。普通に生きていたら警察署長だったり知事だったりとお話しする機会なんて無かったでしょうけど、私はラリーを通じて社会貢献という話題でそういった方たちとお話しするチャンスを得ることができたわけです。豊田章男会長と一緒にクルマ作りに関わることができるようになったのもラリーがキッカケですしね」
そう語る勝田氏は、表情こそ優しい笑顔ではあるものの、その目の奥にはメラメラとしたエネルギーが満ちていて、ラリーで活躍していた時と変わらず「社会に貢献するモータースポーツ」への取り組みに、まだまだアクセル全開であることが窺えた。
(取材協力:株式会社ラック/Mオートスポーツクラブ 写真:水川尚由/株式会社ラック)
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