【新井敏弘】「クルマで走る楽しさを伝えたい」世界ラリーに挑んだスバルの伝道師・・・愛車文化と名ドライバー
-
1966年に群馬県伊勢崎市で生まれた新井敏弘氏。世界ラリー選手権への参戦も経験し、現在も全日本ラリー選手権などで活躍し続けている現役ラリードライバーだ
2022年から愛知県と岐阜県を舞台に開催されている『ラリージャパン』や、TOYOTA GAZOO Racing World Rally Team(TGR-WRT)の4年連続マニュファクチャラーズタイトル獲得、さらに参加型のラリー競技「TOYOTA GAZOO Racing Rally Challenge」が盛り上がるなど、最近さまざまな話題で注目を集めている『ラリー』。
そんなラリー競技において、国際自動車連盟(FIA)が公認する世界選手権で日本人初のワールドチャンピオンというタイトルを獲得したのが“世界の新井"こと新井敏弘選手。競技は異なるがメジャーリーグで活躍した野茂英雄選手にも引けを取らない先駆者であり、まさに日本ラリー界を代表するスーパースターだ。今回はその来歴を追ってみよう。
幼少期から変わらないクルマ大好きな性格
新井敏弘選手は1966年に群馬県伊勢崎市で誕生。幼少期からすでに、クルマ好きの片鱗をみせていたという。
「幼稚園のころには畳の縁をコースに見立ててミニカーを走らせていました。小学生になるとプラモデル作り、高学年からは電動ラジコンカー、中学生ではエンジンのラジコンカーと、趣味はずっとクルマばかり。両親からは『おもちゃが本物になっただけで、やってることは今も変わらないな』なんて言われています。思い返してみると、フェアレディ240Zのサファリラリー仕様とかポルシェ934RSRが特に好きで、何台も作った記憶がありますね」
-
子供の頃からクルマのおもちゃが大好きだったという新井氏
聞けば少年野球からはじめて高校まで硬式野球部に在籍していたという新井氏。そんなクルマ好きの野球少年が世界的なラリーストへ進むきっかけはなんだったのか。
「高校の同級生になぜかモータースポーツ雑誌の『プレイドライブ』を愛読しているやつがいて、それを借りて読んでいるうちにラリーをやりたいと思うようになったんです。高校卒業後は群馬大学の工学部(現・理工学部)に進学したのですが、これは早くクルマに乗りたいための選択でした。というのも『自宅から通える国立大学ならクルマを買ってもいい』というのが両親からの条件だったので、クルマに乗りたい一心で必死に勉強しましたね。
合格後はすぐに試験場に行って免許を取得し、初の愛車としてトヨタのAE86レビンを購入。ラリー車にするつもりだったので、2ドアのGTグレードを選びました。教習所に通わずに一発試験で免許をとったのはもちろん費用を抑えたいというのが大きな理由でしたが、それが可能だったのが小学生の頃から自宅の庭で軽トラックを運転していたからなんです。凸凹の庭を軽トラで……というのが、ダート走行の原点かもしれませんね」
とにかく練習量で勝ち取ったワークスドライバーの座
-
群馬大学の自動車部でラリー競技をはじめ、卒業後は『走る会社員』として活躍するなど、新聞の誌面を賑わせていた
こうして念願の運転免許と愛車を手に入れラリー競技をスタートさせた新井選手は、持ち前の負けず嫌いの性格と努力の積み重ねで、すぐに才能を開花し始める。
「1年生のときはハチロクで練習を重ねながら他大学のラリーに参加し、SSみたいなステージではなんとか上位を獲得していました。2年生からは群馬県のラリーシリーズに参戦し、赤城山で開催されたCAMツアーというラリーで当時のトップドライバーだった桜井幸彦選手やキャロッセのワークスドライバーが乗る上位クラスのマシンを上回るタイムを出したのをきっかけに注目してもらえるようになり、3年のときには今の関東戦にステップアップしました。
好成績を収められた理由は、とにかく練習量の多さだと思います。大学3年生くらいまではほとんど自宅にも帰らずに、週に5日は走っていましたからね。だから使うガソリンの量も半端じゃありません。レギュラーが1L80円とかの時代に、多いときは月に15万円くらいはガソリン代に使ってました(笑)」
ご当地キャラクター『ぐんまちゃん』とのコラボグッズも存在するなど、地元・群馬県を代表する有名選手として応援するファンも多い
大学卒業後はキーボードやコネクターなど電子部品の設計者として地元の企業に就職し、サラリーマンラリーストとして全日本ラリー選手権への参戦を続けた新井選手。そして93年シーズンからドライブすることになったのが、現在まで密接な関係が続くスバル車だ。
「大学2年まではハチロク、3年と4年は三菱ギャランでしたが、4年のときに県内のラリーショプ『パックアール』が製作したAE101セダンで参加した全日本ラリーモントレーのBクラスで優勝。それをキッカケに1992年にチームいすゞのワークスドライバーとなり、ジェミニで全日本ラリーBクラスシリーズチャンピオンを獲得しました。
その年の夏に会社は退社してプロドライバーとなったんですが、乗用車事業からの撤退ということで、いすゞのラリー参戦は1992年で終了。そこで次に乗ることになったのがGC8型スバルインプレッサWRX STIでした。1996年まではパックアールのサポートで、1997年にはキャロッセに移籍し全日本ラリーCクラスのシリーズチャンピオンを獲得しました」
スバルとSTIと共に挑んだ世界ラリー
-
アライモータースポーツのショップ内にはPCWRCに参戦していたGDB型インプレッサが展示されている
日本国内での勢いそのままに、1997年から世界への挑戦をスタートさせた新井選手。2000年にはヨーロッパラリー選手権(ERC)で日本人初の優勝。WRCにも7戦出場してFIAチームズカップを獲得し、2001年にはスバルのワークスドライバーとして契約を交わすこととなった。
「WRC参戦は『全日本チャンピオンを獲ったら連れてくよ!』というSTI社長(当時)の久世さんとの約束で実現したものでした。そのとき私は30歳でしたが『若いドライバーを世界に通用するように育てたい』というSTIの意向とうまく合致したようです。実は27歳くらいのときにも一度久世さんから『世界に行け』とお誘いをいただいていたのですが、そのときは長男の大輝がまだ小さかったのを理由に断っていたんですよね。それがなぜか30歳のときには吹っ切れて『まあ、どうにでもなるさ』という気持ちで世界に挑戦することになりました」と当時を振り返る。
新井氏が世界に挑戦していた当時はまだ小さかった息子の大輝氏も、現在はおなじラリードライバーとして活躍中
しかし日本では圧倒的な速さを誇った新井選手をもってしても、参戦当初は日本のラリーとの違いに戸惑うところも多かったのだとか。その理由はなんだったのか?
「日本では基本的に道路を使いますが、海外では道路として整備されていないところもコースとなります。しかも車速域も日本とは桁違い。コーナリングスピードを上げないと勝負にならないので、ドライビングスタイルもすべて変えなければなりませんでした。
またペースノートに従って走るというのも初めての経験でした。というのも日本で長く主流となっていたのはアメリカ式で事前にコースの下見ができない(レキが行えない)ラリー。対してWRCが採用するヨーロッパ式は、事前走行(レッキ)を行い作成したペースノートを頼りにスペシャルステージ(SS)での速さを競う方式なんです。しかしそれまでの経験も決してムダではありませんでした。ガードレールや木の生え方を見て瞬時にコーナーの先を予測してマシンの姿勢を作る必要があったアメリカ式ラリーでの経験は、マシンコントロールの引き出しの多さにつながっているのだと思います」
-
新井氏が世界ラリー選手権に挑む様子は、国内でもビッグニュースとして注目を浴びた。ちなみにこれらの新聞や雑誌は、新井氏の両親が集めて実家に保管してくれていたものだという
1998年はグループN、1999年からWRカー、2003年からは年間2500台以上生産の市販車をベースとしたPCWRC(プロダクションカー世界ラリー選手権)に参戦を続け、ついに2005年に日本人初となるFIA公認の競技のワールドチャンピオンに輝いた新井選手。
そんなドライバーとして絶頂期を迎える2003年に立ち上げたのが『アライモータースポーツ』だ。
「キッカケは当時のSTI社長であった桂田さんからの強い勧めでした。2003年はそれまでのWRカーからプロダクションカーベースのPCWRCにフル参戦した初年だったのですが、スバルが長年WRCへの参戦を続ける中で、桂田さんは『このままではノウハウが日本には残らない』という危機感を強く抱いていたようでした。そこで『PCWRCの参戦を機会に自社チームを立ち上げてエンジニアやメカニックを養成してほしい』という桂田さんの希望に沿ってアライモータースポーツを設立し、2004年から『SUBARU TEAM ARAI』としてPCWRCに参戦したわけです」
-
アライモータースポーツの店内には、国内、そして海外で獲得したトロフィーや盾がたくさん飾られている
なるほど。どうやらアライモータースポーツ設立の経緯は、いわゆるプロショップと少しばかり異なるようだ。実際のところ業務内容はどんな感じなのだろうか。
「当初はスバルの伊勢崎工場内に小さな事務所とマシンの製作スペースのみという状況でしたから、お店と呼べるものではありませんでした。ここで南半球とヨーロッパ向けに各2台のマシンを製作し、スペアパーツとともにコンテナに詰めて送り出すわけです。コーディネーターとしてイギリス人がひとりいましたが、それ以外は10人ほどの日本人スタッフが試行錯誤しながらイチから学んでいきました。急な仕様変更に対応する部品を取りに、イギリスに飛んでとんぼ返りなんていうのも日常茶飯事でしたよね」
-
海外参戦のために必要なコンテナや機材などは、現在も敷地の一角に保存されている。ドライバーとしてだけではなく、こういったチーム運営もすべて自分たちで行っていたというから驚かされれる
クルマの楽しさ、ラリーの楽しさをたくさんの人に伝えるために
-
自らのノウハウを活かしたオリジナルアイテムなども販売
その後の2009年5月にアライモータースポーツは現在の伊勢崎市柴町の新社屋へ移転。一般のお客さんも足を運びやすくなった新店舗では、それまで対応できずにいたユーザー車の作業も可能となっている。となれば、アライモータースポーツならではのストリートカーカスタムに対するこだわりも気になるところだ。
「移転の理由はスバルがトヨタとの提携に伴い、それまでファクトリーとして借りていた伊勢崎工場内の建屋を倉庫として使うことになったからでした。パーツの販売などは以前から行っていましたが、クルマをお預かりして作業できるようになったのは今の店舗での大きな変化ですね。お客さんの乗るストリートカーでも、本物志向のしっかりと効果の得られるカスタムを施すというのがアライモータースポーツのコンセプトなんです。
現在は廃盤になっていますが、ラリーでの経験をフィードバックしたGC8のフロントストラット強化パーツなどオリジナルパーツも手掛けて好評をいただいてました。今でもやはり来店するのは8〜9割がスバル車。ラリー車のノウハウを生かしたワインディングやミニサーキットを走るための足まわりのセットアップのほか、近年はGC8など古いモデルを長く乗り続けている方からのエンジンオーバーホールの依頼が多くなっていますね」とのこと。
群馬県伊勢崎市に移転した『アライモータースポーツ』。競技車両だけではなく、一般のお客さんが乗る愛車のメンテナンスやカスタマイズも受け付けている
もちろんアライモータースポーツの代表を務める一方で、2014年の国内復帰後も現役トップドライバーとして全日本ラリー選手権に参戦を続けている新井選手。さらに近年はさまざまなイベントで“クルマで走る楽しさ”を通じてモータースポーツの裾野を広げるためのデモンストレーション走行にも積極的に取り組んでいる印象。そうした活動への思いも伺ってみたい。
「デモランを披露する機会はWRC参戦当時にもあったのですが『ペター・ソルベルグやコリン・マクレーよりもデモランだけはうまいな!』と名門ラリーチームのプロドライブ社長のデビッド・リチャーズから言われていたんですよ(笑)。ラリーは公道を速く走るための安全運転を競う究極の競技というのが私の考え。舗装路、雪道、ダートの異なる環境の先の見えない路面を走れる競技というのはほかにはありません。
デモランは『クルマでこんなことができるんだ』と多くの人がラリーの楽しさを知るきっかけになればと思ってやっています。またその延長線として注目しているのがTGRラリーチャレンジ。初心者でも気軽に参加でき、ラリーの楽しさを簡単に楽しむ機会がより増えていくことを期待しています」
-
プライベートでは勉強の意味も含めてスバル以外の愛車も所有しているという新井氏。なかでもお気に入りなのがトヨタ・ハイエースの100系モデル。「この次の200型なんかも乗ったんだけど、やっぱりこれが好きなんだよね。もう3台目だもん。これに道具を積んでキャンプに行ったり、スタッフと自転車で遊ぶときのトランポにしたりしているんだ」とのこと
そしてインタビューの締めくくりとして、最後に熱く語ってくれたのが新井選手とは切り離すことのできないスバルへの思いだった。
「やはりスバルといえばラリー。今はSUVメーカーのようになっていますが、GRヤリスに対抗できるような小さくても速く走れるスポーツ車を造って、またWRCに復活してほしいと思っています。私が参戦していたころのWRCは7社くらいのマシンが出ていましたが、今は3社で国産はトヨタだけでしょ。多くのライバルがしのぎを削り合ってこそ、クルマの技術は進化していくし、観る人もより楽しめると思うんですよね」
-
PCWRCのチャンピオンであることを示す『ゼッケン31』は、新井氏にとって特別な数字であり、お気に入りの番号であるという
2025年もアライモータースポーツではスバルのバックアップを受けてWRX S4で全日本ラリー選手権JN1クラスに参戦を予定。日本と世界の両方を知る“世界のARAI"の今後のさらなる活躍に期待したい。
(取材協力:アライモータースポーツ株式会社)
(写真・文:川崎英俊)
愛車文化に影響を与えた名ドライバー
-
-
【星野一義】『日本一速い男』が真っ直ぐに向き合ってきたIMPULという世界観・・・愛車文化と名ドライバー
2025.04.02 コラム・エッセイ
-
-
【土屋圭市】「クルマって楽しい!」を体現し伝え続けるドリフトの始祖・・・愛車文化と名ドライバー
2025.03.18 コラム・エッセイ
-
-
【吉田寿博】ユーザーに寄り添う「スバルの名医」であり続けるために・・・愛車文化と名ドライバー
2025.03.06 コラム・エッセイ
-
-
【新井敏弘】「クルマで走る楽しさを伝えたい」世界ラリーに挑んだスバルの伝道師・・・愛車文化と名ドライバー
2025.03.02 コラム・エッセイ
-
-
【勝田照夫】「ラリーを通じて社会貢献を」日本のモータースポーツ発展に命を燃やし続けた50年・・・愛車文化と名ドライバー
2025.02.24 コラム・エッセイ
-
-
【雨宮勇美】生涯現役を貫き、ロータリーの灯火を燃やし続ける漢
2025.01.26 コラム・エッセイ
-
-
【市嶋 樹】『速くて壊れないクルマ』を追い求めて走り続けたホンダの雄・・・愛車文化と名ドライバー
2024.12.28 コラム・エッセイ
-
-
【田中 実】ドライバーのスキルと“モノへのこだわり”を市販車向けパーツに全力投球・・・愛車文化と名ドライバー
2024.12.17 コラム・エッセイ
-
-
【織戸 学】レーサーに憧れ、夢を叶えた今でも胸に刻む『走り屋』魂・・・愛車文化と名ドライバー
2024.12.05 コラム・エッセイ
-
-
【長谷見昌弘】とにかく運転することが好き。今なお“現役”で楽しむレースと愛車ライフ・・・愛車文化と名ドライバー
2024.12.01 コラム・エッセイ
-
-
【柳田春人】『Zらしく』を50年突き詰めた漢のこだわり・・・愛車文化と名ドライバー
2024.11.30 コラム・エッセイ
-
-
【舘 信秀】「TOM'Sの設立はレースを続けるため」。レースと共に歩んだ50年のその先へ・・・愛車文化と名ドライバー
2024.11.29 コラム・エッセイ