【星野一義】『日本一速い男』が真っ直ぐに向き合ってきたIMPULという世界観・・・愛車文化と名ドライバー
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静岡県安倍郡玉川村(現・静岡市葵区)で1947年7月1日に生まれた星野一義(ほしの かずよし)氏。株式会社ホシノインパル取締役会長、ホシノレーシング代表取締役社長、TEAM IMPUL総監督を務める。
「外へ出かける時にさ、すっぴんじゃなくてちょっと口紅を引いて身だしなみを整える、そんなオシャレを愛車でも楽しんでもらいたんだよね」
日産車のカスタマイズパーツを手がける『IMPUL(インパル)』の創設者であり、数々のレース戦績から“日本一速い男”と呼ばれてきたレジェンドドライバー星野一義氏に、インパルのブランドイメージについて伺った際に返ってきた言葉である。
『カルソニックブルー』のマシンを駆り、その戦いぶりから“闘将”とも称されたレーサー星野氏のイメージとはまた違った、愛車のカスタマイズに対する繊細なこだわりが垣間見えた瞬間であった。
愛車文化に影響を与えた名ドライバーを特集する今連載も最終回。そのオオトリを飾るのは、日本のレースシーンで今なお絶大な人気を誇る星野氏だ。
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インパルの語源はドイツ語で「刺激」「稲妻」などの意味を持つ『インパルス(IMPULSE)』。「語感はいいけど少し長いなと思ったから『SE』を取ってIMPULにしたんです」と星野氏。
幼い頃から抱いていた乗り物への興味
「クルマは小さい頃から身近な存在だったね。まわりの家庭ではまだ自家用車が珍しかった頃から、うちにはオースチンやブルーバードなんかがあって、出かけるっていうときには必ず真っ先にクルマに乗り込んで、後部座席じゃなくて助手席に陣取ってさ、そこから見る景色が好きだったのを覚えてるよ」
静岡県の和菓子屋さんに生まれ、幼い頃から乗り物が大好きだったという星野氏。小中学生の頃は野球で『4番センター』を務め、学生服は仕立て屋さんで当時の流行であった“ラッパズボン”スタイルに加工してもらうなど服装にもこだわりを持っていたようだ。
そして高校入学前には『高校に通学するために必要だ』と両親を説得して、はじめての愛車となるオートバイのホンダ・ベンリィC92を手に入れたという。
「実家から学校まで道のりは未舗装路だったし、毎日たくさん走り込んでいたから運転には自信があったね」という星野氏だが、16歳のときに競技用のランペットを借りて初挑戦したというモトクロスレースでは「ダントツの最下位だった」と笑う。
それでも心が折れることはなく、高校を中退してカバンひとつで実家を飛び出すと神奈川を拠点に活動していたカワサキ系モトクロスチーム『カワサキ・コンバット』に加入して修行を積み、19歳でノービスクラスのシリーズチャンピオンに。
『神戸木の実レーシング』の一員としてカワサキの契約ライダーになると、1968年の全日本モトクロス選手権で90cc・125cc両クラスのチャンピオンを獲得、250ccクラスでも同チームの先輩に続く2位だったことから「2輪はやり切ったから、次は4輪に挑戦しようと思ったんだ」と、当時を振り返ってくれた。
事務所には2輪時代の写真や、日産ワークスの大先輩である“日産三羽ガラス”北野元氏との写真などが飾られていた
ドライバー全盛期に見据えた『将来』の姿
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日産のワークスドライバーとして、さまざまなカテゴリで活躍した星野氏。2023年には日本プロスポーツ大賞スポーツ功労者顕彰を受賞している。
1969年に日産自動車のワークスドライバーに合格すると、1975年に参戦した国内トップカテゴリーの全日本F2000選手権では参加したすべてのレースでポールポジションを獲得するなど群を抜いた速さを誇り、数多くの4輪レースで輝かしい成績を残してきた星野氏。
「勝ちたいとか、どうやったら勝てるかとかじゃなく、勝てると思って走っていたよ。だってさ、ホントにたくさん練習していたからね。毎日のように、みんなよりもたくさん走っているんだから、負けるなんてことは考えなかった。それくらいイカれてないと、日本一にはなれないよ」
誰よりも真面目にレースに取り組み、マシンと真剣に向き合う時間が長かったという自信と自負があってこその言葉だろう。そして、そんなレースへの向き合い方と同様に、プロドライバーとして、そしてその先の人生についてもしっかりと見据えていた。
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FJ1300デビュー戦で優勝するなどフォーミュラでも活躍。鈴鹿サーキットで開催されたF1にもスポット参戦している。
「30歳になった頃に、ドライバーを引退した後のことも考えて『なにかやらなきゃ』と思ったんだ。でも、スポーツ選手とかが焼肉屋とかラーメン屋とかをはじめても長くは続かないじゃない? そういうことを考えた結果、やっぱりクルマに関わる何かじゃないとダメだなって。クルマのパーツなら知識もあったし『デザインはあのひとで、設計ならあのひと、製作はあそこでお願いしよう』っていうようにまわりに一流のプロがたくさんいたからね。カーショップをオープンさせようとすると設備などが必要だから貯金じゃ足りないけど、メーカーであれば自宅を本社にすれば始められるぞ、と。そんなことを考えていたから、当時、トムスを立ち上げて成功させていた舘さんが光って見えていたよ」
こうして“走れば勝つ”というドライバー絶頂期だった1980年、モトクロス時代の仲間で優秀なセールスマンとなっていた金子豊氏を誘い、2人で『ホシノインパル』を設立するに至ったのだ。
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星野選手が乗っていたレースカーのレプリカマシンたち。熱狂的なファンが数多く存在する証だ
信用第一の商売を続けてきた45年間
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ホシノインパルのショールームでテーブルとして使用されている『D-01シルエット』。「ほんとは1ピースが好きだったんだけど、3ピースならディスクのデザインを決めて金型を作ればサイズラインアップを増やせるという理由で3ピースにしたんだ」と教えてくれた
ホシノインパルが、いちばん最初に手掛けたアイテムは『アルミホイール』だったというのは、クルマ好きであればご存知の方も多いはず。
「エンケイの鈴木順一社長に相談したら協力してくれるというので自分でデザインを考えたんだけど『これじゃぁ売れんよ!』と言われて、そのあとに『この中から好きなデザインを選んでいいよ』って部屋の壁いっぱいにデザイン案を用意してくれたんだ。その中からこれだと思ったものを選ばせてもらって、レースやテストがない日には完成したホイール『D-01』を担いで北海道から鹿児島まで営業に回ったよ。でも、最初の2年くらいはホントに売れなくてさ。レーサーとしては成績を残していたから高級車を買ったりゴルフをして楽しく過ごしたりすることもできたけど、あの時そうせずに頑張っておいてよかったなって、今になってみれば思うよ」
転機となったのは1982年に『ニチラ シルビア スーパーシルエット』に装着したホイールを市販車向けに発売した『D-01シルエット』。レースでの活躍とともにクルマ好きの間で広まっていき「月に2万本は売れた」という爆発的ヒットとなったのだ。
「ホイールが売れると、銀行の担当者が『この資金で土地を買いましょう』って提案してくれて、土地探しからやってくれたんだ。建物も賃貸マンションにして収入を得られるようにしましょうとかいろいろ考えてもらってね。それがこの世田谷の建物っていうわけ」
ちなみにこういった経営戦略については、インパルを一緒に立ち上げた金子氏や取引先の銀行、そして20代の頃から支えてくれた奥様の助けが大きく『まわりにいろいろ考えてくれる人たちがいて、自分は常にその中から選択して決定してきただけ』と星野氏は語る。
「僕は走るのは速かったけど、商売のセンスがあったわけじゃないから。ほんとにまわりの人に恵まれていたんだよね」と、自身の言葉に納得するように頷いた。
D-01シルエットがヒットすると、メッシュデザインやエアロディスクカバーなど次々とニューアイテムを発売し、クルマ好きたちの注目を集めた
その後もエアロパーツやサスペンション、そしてコンプリートカーまで、さまざまな商品を作り上げてきたホシノインパルだが、常に意識してことがあるいう。
「僕はね、1万円の物は1万円で、3万円の物は3万円で売ってきたの。もちろん安売りしようってわけじゃないよ。ただ、1万円の価値のものを2万円で売ったりするのはお客さんからの信頼に関わるし、モノの価値位以上の値段をつけるのは違うなって思っているんだ。信用はお金じゃ買えないからね」
実際、ディーラーで取り扱いできるクオリティの製品やコンプリートカーを作り続けることは簡単なことではないし、さまざまな苦労もあったという。
「ずいぶん昔だけど、和歌山県のディーラーに収めたコンプリートカーがエンジンブローしたって連絡が入ったことがあって、すぐに引き取りに行って、即新車のコンプリートカーを届けたんだ。オーナーさんがハイオクじゃなくレギュラーガソリンを入れちゃったのが原因だったし、スタッフからは『大赤字ですよ』って言われたけど、その話は全国のディーラーに伝わって、結果としてはインパルというブランドの信頼に繋がったから、あの判断は間違いじゃなかったと思っているよ」
その言葉からは、レーシングドライバーとして速さにこだわり続けてきたのと同じように、インパルというブランドやその商品作りにも全力でまっすぐ真剣に取り組んできたということがひしひしと伝わってくる。
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2023年からは息子の星野一樹氏がホシノインパル製品の企画開発統括責任者を務め、自身は「何歩か後ろに下がって全体を見る立場」とのこと
インパルの“におい”を感じてくれるユーザーのために
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「今でも丸いものを見たらホイールのデザインを考えたりするし、ショールームから環八を走るクルマを眺めて流行を観察したり、デザインを思い浮かべたりしているよ」という星野氏。
「インパルのデザインやイメージに関しては、ボディと繋がっているような一体感がありながら、乗り手の個性が演出できるようなアイテムというのがテーマ。ウチのエアロは東京オートサロン会場なんかで見ると『純正とどこが変わってるの?』って思うお客さんもいるだろうけど、シンプルで大人なオシャレを楽しみたいというオーナーさんが自慢できるようなクルマに仕上げたいと思ってやってきたよ」と星野氏。
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コンプリートカー製作もおこなうインパル。プロゴルファーのジャンボ尾崎氏や野球のイチロー選手などの愛車も手掛けている。
「あるとき、親しいファッションデザイナーに『エアロやホイールのコーディネイトは教えてあげるから、服のコーディネイトは頼むよ』って言ったら『星野さん、自分が好きなものを着たらいいんですよ』って返されてね。目の色が美しいブルーでスタイルもいい外国人の彼と僕とでは違うでしょって言っても『ノープロブレム』だと。でも、考えてみれば愛車のカスタムもそれと一緒なんだよね。全員に理解されなくてもいいわけで、インパルらしい“におい”を感じて『インパルを身に纏いたい』と思ってくれるユーザーさんに喜んでもらえたらいいなって」
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ショールームの展示車は頻繁に入れ替えているそうで、訪問時にはスカイラインをはじめ、オーラやルークスのデモカーが展示されていた
ちなみに、そんな星野氏の愛車遍歴やカスタムのこだわりについて伺ってみると……。
「はじめての愛車は18歳の時に手に入れた日産・スカイライン54Bで、買ってすぐに車高を落として乗っていたね(笑)。ワークスドライバーになってからはレース中は『もっと速く! もっと攻めろ!』って走っているわけだから、それ以外のときはゆったり快適に乗りたくて、シーマやフーガなどを乗り継いできたよ。新車が手元に届いたらすぐにホイールをインチアップしてサスペンションやブレーキまで一通りパーツ交換するんだけど、やっぱり乗り心地がいいクルマが好きだから、ウチのサスペンションは常にNISMOよりも柔らかいんだ。最近はアリアに乗っているけど、これも優しい乗り心地に仕上げているよ」
速さを追求するレースカーとは違い、愛車に関しては快適さを重視していて、そのこだわりはインパルの製品にも反映されているというわけだ。
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インパルにはガレージも併設されていてパーツの装着なども受け付けているという。なんとスカイラインNISMOの1号車も保管されていた。
共に戦ってきた仲間との絆を大切に
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「レースが終わったあとにマシンを労っている様子をカメラマンが撮ってくれた写真なんだけど、気に入りすぎてTシャツまで作っちゃった(笑)」と、最近のお気に入りだという1カット
パーツブランドとしてのインパルはもちろん、現在もTEAM IMPULの総監督としてレース活動にも携わる星野氏。
「2025年のSUPER GTは、これまでのカルソニックやマレリとのつながりから東京ラヂエター製造株式会社様とメインスポンサー契約を締結しました。また、スーパーフォーミュラの方も『IMPULでんき』などの事業でもお付き合いのある伊藤忠グループの伊藤忠エネクス様と『ITOCHU ENEX WECARS TEAM IMPUL』として活動します。僕はレースでも商売でも“人との繋がり”と“信頼”を大事にしてきたので、このチーム体制で走れるのはとても嬉しいですね。今年は勝つよ!」
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「モータースポーツチームのスポンサーをした最長期間」のギネス記録をはじめ、これまで獲得してきたさまざまなトロフィーや盾が並ぶ
現役時代からタイヤメーカーやホイールメーカーなどからさまざまなオファーや勧誘があったという星野氏だが、一貫しておなじブランド、おなじ人たちと一緒に仕事を続けてきたというのもこだわりのひとつ。その義理堅さや誠実さは、インパルというブランドの話にも通ずるものがある。
SUPER GTにおいては、旧社名である日本ラヂヱーターの頃から、カルソニック、カルソニック・カンセイ、マレリと1982年から43年に渡ってホシノレーシングのメインスポンサーとしてサポートを継続してきたとして『モータースポーツチームのスポンサーをした最長期間』としてギネス記録にも認定された。
2008年に現役ドライバーを引退してからも、TEAM IMPULを率いてレース活動に注力。
そして、長年にわたってスカイラインやフェアレディZなどで戦い、その活躍によって日産車人気に多大なる貢献を果たしてきた星野氏だけに、共に戦ってきた日産への思いも人一倍強い。インタビューの最中にも、インパルというブランドの今後も含めてさまざまな発言が飛び出した。
「インパルはこれまでスポーツカーや高級車のパーツが多かったんだけど、最近はミニバンや軽自動車にもさらに力を入れているんだ。そうすることで、もっとたくさんのひとにインパルを知って、使ってもらいたいと思っているんですよ。いっぽうで、今後はやっぱりシルビアみたいなライトウェイトで手頃な価格のスポーツカーや、もっとユーザーの意見を取り入れたミニバンやSUVなんかも出してほしいよ。ウチもまだまだ頑張るけど、とにかくまずはクルマが売れてくれないことには始まらないわけだから。日産にはもっと頑張ってほしいね」
まっすぐな目線でそう語ってくれた星野一義氏。レースカーを降りてもなお、闘将の熱い気持ちと勢いが衰えることはないようだ。
(取材協力:株式会社ホシノインパル)
(写真:藤井元輔)
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