バックヤードビルダーの密かな愉しみ ミニクーパー(1961年)
よくわかる 自動車歴史館 第14話
裏庭工場の伝統
日本はMINIが例外的に多く販売された国である。現在のBMW版も好調だが、1959年にデビューしたクラシックMINIの人気は目を見張るものがあった。モデル末期の1990年代になっても毎年1万台近くが輸入されていて、その半分ほどはクーパーモデルだった。高性能版で値段も高かったにもかかわらず、MINIといえばクーパーだと思われていた。その原因のひとつは、MINIというクルマの名がいささか誤って受け取られていたことにある。
MINIは形のかわいらしさから、若い女性の人気が高かった。好きなクルマを問われて「ミニクーパー!」と答える女性は芸能人を含めて多かったのだが、そのかなりの部分が、車名がクーパーであると勘違いしていたのである。“小さなクーパー”というわけだ。もちろん事実は反対で、アレック・イシゴニスが開発した革命的小型車がMINIであり、それをチューニングしてレースやラリーで活躍させたのがジョン・クーパーなのだ。
イギリスにはロールス・ロイス、ジャガーといった自動車メーカーがあった。MINIを開発したのはBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)で、オースチンやナッフィールドが合併してできた大企業だ。それらの会社がよく知られているイギリス車を作っていたが、この国には伝統的にもっと小規模な自動車工場群が存在していた。 それが、バックヤードビルダーと呼ばれるものだ。直訳すれば、“裏庭工場”である。家の裏庭にあるガレージのような狭いスペースで、職人が手作りでクルマを組み立てる文化があったのだ。
一般の自動車ユーザーも、自動車をキットカーの形で購入することがよくあった。完成品ではなくパーツを受け取って、最終的な組み立ては自分で行うのだ。都会で働いていた人が引退後に郊外に移り住み、ガレージでこつこつクルマいじりをするのは、現在でもよく見られる光景だ。
レースを変えたミドシップ革命
1946年、ジョン・クーパーは父のチャールズとともに、クーパー・カー・カンパニーを設立する。小規模な会社で、ボクスホールのディーラーをしながらレーシングカーを製作していた。始まりは、バックヤードビルダーの一つにすぎなかったのだ。この小さな工場が、レースと乗用車の両方で大きな変革を成し遂げることになる。
- チャールズ・クーパーとジョン・クーパー
最初の製品となったクーパー500は、数々のレースに出場して好成績を残した。ジョン自らも参戦し、ブライトン・スピードトライアルでは同じくドライバーとして出ていたイシゴニスに出会っている。そこで意気投合したことが、後にふたりの共同作業につながっていく。
F1にステップアップしたクーパーチームは、コヴェントリー・クライマックス製のエンジンを得て参戦する。他のエンジンに比べてパワーが劣り、戦闘力は低かった。しかし、クーパーはエンジンの搭載位置を変えることで不利を克服しようとする。FR方式、すなわちエンジンをフロントに置いてリアタイヤを駆動するのが常識だったところに、ミドシップで挑んだのだ。
車体のほぼ中央に最大の重量物を置くレイアウトは操縦性に優れ、参戦2年目の1958年に早くも初勝利を飾る。1959年と1960年にはジャック・ブラバムのドライブでコンストラクターズとドライバーズの両タイトルを連覇し、実力を見せつけた。1958年に「これからもリアエンジンのグランプリマシンを作ることはない」と直接ジョン・クーパーに話していたエンツォ・フェラーリも、しばらくして考えを変える。F1のみならずインディカー・シリーズにも影響を及ぼし、「ミドシップ革命」と呼ばれることになった。
大衆車がスポーツサルーンに
レーサーたちは、日常のクルマとしてMINIを歓迎した。クーパーチームの契約ドライバーだったジャック・ブラバムとブルース・マクラーレンは発売直後からMINIに乗るようになり、当然のようにパワーアップを要求した。クーパーはフォーミュラ・ジュニア用のパーツを組み込むことでそれに応え、ポテンシャルの高さを確信する。当初イシゴニスはMINIでレースをすることに懐疑的だったといわれるが、クーパーの熱意に次第に動かされていく。
彼らはふたりでBMCの社長ジョージ・ハリマンに会いにいった。許可を得て2週間後にプロトタイプを作り上げ、再びハリマンのもとに赴く。試乗するとハリマンはこのモデルの生産に同意し、ラリーでホモロゲートを受けられる1000台の生産にゴーサインを出した。まず必要になるのはエンジンのパワーアップで、排気量を848ccから997ccに拡大した。これにより、ノーマルの34馬力から55馬力へと大幅な出力向上が実現した。パワーを受け止めるために、フロントにはディスクブレーキが採用された。
MINIはスタンダードモデルでもラリーに出場しており、1959年の11月にローカルなイベントで優勝を果たしている。誰も期待していなかった割には可能性を見せたことになるが、その後は伸び悩んだ。
1961年にMINIクーパーが登場すると、状況は一変する。1962年の5月、チューリップ・ラリーに出場したMINIクーパーは、1000ccクラスで1位から8位を独占するという大勝利を収めたのだ。モンテカルロ・ラリーやアルペン・ラリーなどでも好成績を残すようになり、ラリー界でのMINIの名声は高まっていった。
サーキットのレースでも、MINIクーパーは快進撃を始める。サルーンカー・レースではるかに排気量の大きいクルマと堂々と渡り合い、時に勝利を得た。ラリーやレースでの活躍は販売にも好影響を与え、輸出台数も伸びていった。MINIは石油危機を背景として生まれた実用的な小型大衆車だったが、クーパーの手によって素晴らしいスポーツサルーンへと変貌を遂げたのだ。
MINIは、バックヤードビルダーにとっても格好の素材となった。マーコスはMINIをベースにしてFRPボディーを架装した軽量なマシンを作り、ルマン24時間レースに出場している。このミニ・マーコスは世界中に名が知られるようになり、日本にも輸入されていた。
TVRやリライアントなど、現在では消滅してしまったファクトリーもある。しかし、ケーターハムやジネッタは今も精力的な活動を続けている。最も成功したバックヤードビルダーといえば、ロータスだろう。今はマレーシアのプロトン傘下に入ったが、スポーツカーメーカーとして存在感を発揮している。バックヤードビルダーの存在が、イギリス車の文化を豊かなものにしたのだ。
1961年の出来事
topics 1
“国民車”パブリカ発売
1955年に明るみに出た「国民車構想」は、実際には政策として打ち出されずに終わった。それでもトヨタはこの試案に応える姿勢を見せ、翌年に試作モデルの1Aを発表する。空冷水平対向の700ccエンジンを積んだFF車だった。
市販車として登場したのは、5年後のことだった。駆動方式はFRに変わっていたが、軽量なボディーにミニマムなエンジンを載せるというコンセプトは同じだった。車名は公募で選ばれ、“パブリック・カー”を意味するパブリカとなった。名前からして国民車である。
38万9000円という安さだったが、販売は思わしくなかった。前年に発売された三菱500も伸び悩んでいた。さらに安価な軽自動車とクラウンなどの高級車の中間に位置することは、商品力を高めなかった。高度経済成長に差し掛かった時期の大衆は、国民車を欲する段階を過ぎていたのだ。
topics 2
初の女性仕様車ブルーバード・ファンシー発売
今ではクルマ選びの主役は主婦と決まっているが、クルマが男の占有物である時代があった。この時期から女性の運転免許所有者が急増し、自動車メーカーもようやく女性に目を向けるようになった。
日産がブルーバードの女性仕様であるファンシーデラックスを発売したのは、1961年2月のことである。内外装をクリーム色やピンクのツートンカラーにし、ハイヒールで踏みやすいオルガンペダルを採用した。ウインカー作動時に鳴るオルゴール、一輪挿し、傘立てなどの36点の専用アイテムが用意された。
世界的にも初の試みといわれ、好評を受けてこの後さまざまな女性仕様車が登場することになる。現在では軽自動車などではむしろシャープでいかつい意匠が好まれるようになり、柔らか系の女性仕様車はほとんど姿を消した。
topics 3
ガガーリンが地球一周
1961年4月12日、ソビエト連邦はボストーク1号を打ち上げ、初の有人宇宙飛行に成功した。小さなカプセルで地球を1周したユーリイ・ガガーリンは、地球に戻る前に中尉から少佐に昇進したことを知らされた。
「地球は青かった」という言葉が有名だが、ガガーリンは「まわりを見渡したが、神はいなかった」と言ったとも伝えられる。
米ソの冷戦が続く中、宇宙開発競争は熱を帯びていた。ロケットの開発は弾道ミサイルの技術に直接結びつくからである。先を越されたアメリカは衝撃を受け、ケネディ大統領が10年以内に月に人間を到達させることを宣言する。
アポロ11号がアームストロング船長を月に送り届けたのは、1969年7月16日だった。ガガーリンは、その瞬間を見ていない。前年の3月に起きた戦闘機の墜落事故で命を落としていたのだ。
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[ガズー編集部]
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