<自動車人物伝>豊田喜一郎…トヨタ自動車創業者 第1編 国産車を作りたい!(1929~1933年)
よくわかる 自動車歴史館 第18話
欧米視察で受けた衝撃
豊田喜一郎は、1894年に当時、発明王として知られた豊田佐吉の長男として生まれた。佐吉が動力織機の研究に打ち込んでいた時期で、喜一郎は静岡県の浜名湖の西にある吉津村の祖父母のもとで育てられた。3歳になると名古屋に移っていた佐吉のもとに引き取られ、父の工場で日常的に機械に触れながら成長した。彼は、やがて自動車事業を起こし、トヨタグループの創業者となる。発明王の父から引き継いだモノ作りの精神は、幼い頃から製造の現場で育まれたのだ。
喜一郎は仙台の第二高等学校甲組工科へ進み、卒業すると東京帝国大学に入学した。高校と大学でともに学んだ多くの友人たちが、後に喜一郎に協力していくことになる。
大学卒業後、喜一郎は佐吉のもとで自動織機の研究開発に取り組んだ。彼がリーダーとなって完成させたG型自動織機は杼換(ひがえ)装置を自動化した画期的なもので、海外でも高く評価された。当時、世界的な紡織機メーカーであったイギリスのプラット社はかつて日本に織機を輸出していたが、G型自動織機を知ると特許権を買い取りたいと打診してきたのだ。
1929年、喜一郎は特許権譲渡契約締結のために、イギリスを訪れた。工業都市のマンチェスターで商談を行う中、時間を作っては各地の自動車工場を訪れて製作の現場を見学した。彼は、自動織機の成功に浮かれてはいなかった。すでに時代は軽工業から重工業に移りつつあり、中でも自動車工業が将来的に経済の中心になることを見抜いていたのだ。
喜一郎は同年、アメリカも訪問している。この時も、商談より工場見学に熱心だった。アメリカは世界の自動車産業の先頭を走っており、街にはクルマがあふれていた。デトロイトでフォードの工場を訪れると、流れ作業ですさまじい数の自動車が生産されている様子に驚嘆した。
“道楽”と称して自動車研究を始める
欧米視察から帰国すると、豊田自動織機製作所は業績不振に陥っていた。1929年の世界恐慌は日本にも波及し、不況が深刻化していたのである。もはや自動織機だけでは生き残ることはできない。そう判断した喜一郎は、事業の多角化を目指して精紡機の研究を進めた。1931年、ハイドラフト精紡機を完成させる。この機械は前工程の粗紡機を大幅に減らすことのできる画期的なもので、大量の受注が舞い込んだ。これにより会社は危機を脱し、繊維機械の総合メーカーへと発展したのだ。
喜一郎はそれに満足することなく、さらに改良を進めた。1937年までに、32件もの特許・実用新案権を取得している。それだけでも超人的な活躍だが、彼は同時に自動車事業進出に向けて準備を進めていた。名古屋市内にはこの頃すでに200社ほどのタクシー会社、ハイヤー会社があり、将来的には自動車事業に乗り出すことが会社を成功に導く道だと確信していたのだ。
その頃、日本ではまだ自動車工業はゼロに等しい状態だった。明治時代から、自動車を作ろうという試みはあった。白楊社、快進社といった会社が国産化に取り組んだものの、産業として自立したとは言い難い。1923年に関東大震災が発生し復興のために自動車が必要とされたが、日本国内で調達することはできず、フォードからT型トラックのシャシーを輸入した。それを乗合自動車に仕立てた“円太郎バス”も走るようになり、自動車の重要性は高まっていった。
1925年、フォードは横浜に工場を建設し、T型のノックダウン生産(主要な部品を輸入し、現地では組み立てのみを行う生産方法)を始める。翌年には、GMが大阪で自動車生産を開始した。圧倒的な技術力と資本力を持つアメリカの自動車会社は、瞬く間に日本の市場を制覇した。
喜一郎はアメリカで自動車が人々の便利な足として使われているのを見て、日本の現状との差を思い知らされた。日本がこれから世界の一流国になるためには、どうしても自動車産業が必要だ。すぐに行動を起こさなければ、フォードやGMの下請けに甘んじるしかなくなってしまう。父から受け継いだ繊維産業だけにこだわるのではなく、豊田家の新しい事業として自動車を手がけなければならない。喜一郎は、アメリカ車に対抗できる国産乗用車を作ることを決意した。
しかし、豊田自動織機製作所には自動車を作る技術も設備もない。勝手に新事業を始めるのも無理だ。喜一郎は長男ではあるが、会社の社長は、喜一郎の10歳年上で、喜一郎の妹・愛子に婿入りしている義理兄弟の利三郎である。喜一郎が佐吉の血を受け継いだ根っからの技術者なのに対し、利三郎は実業畑の人で、堅実に会社の基盤を固め、地道に発展させようという発想を持つ。国産車を作りたいなどという夢のような話を、そのまま受け入れることはできない。
喜一郎が自動車の研究を始めたことを察知した彼は、理解を示しつつも無謀な事業化には、くぎを刺した。自動車生産を始めるには莫大な資金が必要で、三井や三菱などの大財閥も手を出せないでいた。三河では大きな会社として知られていても、豊田自動織機製作所が取り組むには危険すぎる大事業なのだ。
経営陣の考えを知りつつも、喜一郎は着々と準備を進めていた。まずは“道楽”と称して、4馬力の小型エンジンを組み立てた。構造を自らの手で理解し、各地の自動車部品工場を訪ねて見学した。工作機械をドイツやアメリカから輸入したが、織機や紡機を製作するだけなら明らかにオーバースペックだった。1933年には腹心の部下に命じて60ccエンジンを10台試作させている。織機工場の片隅で、どう見ても本業とは関係のない研究が続けられていた。
喜一郎はその間も全国をまわり、自動車の設計に必要な知識を集めていた。東京大学時代の同窓生で、同大学の工学部教授になっていた隈部一雄(のちに喜一郎の招きで豊田自動織機製作所 自動車部の顧問に就任)を訪ね、構想を話して協力を取りつけた。商工省や鉄道省の友人からは、政府の自動車工業に関する方針を聞き出そうとした。政府や軍部が国産自動車の事業化を進めるため、法律の整備を考えているという情報を早くから得ていた。
正式に自動車部を設立
1933年には、工場の倉庫の中に板囲いを作り、33年型のシボレーを持ち込んで分解と組み立てを繰り返すようになった。さらに、翌1934年には34年型乗用車のデソート車とシボレー車を購入し、それらを参考に設計した。分解した自動車部品は、材質や強度、硬度などを調査するだけでなく、国内の外国車用イミテーション・パーツ製造業者や、材料の供給業者なども調べた。会社の許可を得たわけではなく、私設の自動車研究所である。また、自動車事業の経験がまったくなかったところから、当時の名古屋市長が提唱した、中京地区の自動車工業化構想のもとで自動車開発に関係した菅隆俊など、自動車開発に携わったことのある経験者を社外から招聘した。“道楽”の域をはるかに超えた体制が作られていった。
さらに、喜一郎は工場用地の確保に動いていた。目をつけたのは、名古屋の西にある挙母町論地ヶ原(現在の豊田市)である。農地はほとんどない原野で、広い敷地を要する自動車工場を建設するには適地だといえる。工場の設計も進められ、板金組立工場と機械仕上工場をいずれも1000坪の規模で建設するもくろみだった。生産に必要な高価な工作機械が、次々と発注予定表に並んだ。喜一郎が主導して進めた自動車生産への道は、利三郎が押しとどめることができない段階に至っていた。
この年の12月30日、喜一郎の要請で豊田自動織機製作所の緊急取締役会が開かれた。議題は、自動車部の正式な開設と増資である。喜一郎は織機の販売が好調で大きな利益が出ていること、しかし将来的に伸びが期待できず会社の発展には新たな事業が必要であることを熱弁した。さらに政府の施策として自動車生産が奨励され、欧米の事情を見る限り間違いなく巨大な市場が形成されるであろうという見込みを順序立てて説明した。
この取締役会を経て、ついに会社の定款に自動車関連の業務が加えられることになった。増資は200万円である。今でいえば数百億円に匹敵する巨額な投資だった。喜一郎の夢が、会社の夢になったのである。
利三郎をはじめとする慎重な人々が考えを翻したのは、ほかにも理由があった。政府が国産自動車の事業化を進めるため、自動車事業について一定の基準を満たした企業のみに許可制とする動きがあり、自動車事業に参入するためにはぎりぎりのタイミングだった。
そして、何よりも大きかったのは創業者である佐吉の言葉だった。子が親を継ぐだけではいけない、別の事業を始めるべきだ、というのが佐吉の考えである。「一人一業」が豊田家の家訓なのだ。そして、「まずやってみよ。失敗を恐れるな」というのが口癖だった。佐吉はアメリカに行ってT型フォードが道にあふれているのを目の当たりにし、日本でも自動車を作らなければならないと痛感した。1927年に喜一郎が豊田紡織の取締役に就任した際には、自動車の分野への進出を助言したといわれている。発明王の遺訓が、自動車製造への決断を促したのだ。
[ 提供元:日本経済新聞デジタルメディア ]
※本資料は、様々な書籍、資料を元に編集しております。
トヨタ自動車が公式に発表している内容については、トヨタ75年史をご参照ください。
豊田喜一郎をモデルにしたドラマ「LEADERS(リーダーズ)」が、TBSにて佐藤浩市主演で3月22日(土)・23日(日)午後9時より、2夜連続で放映されます。是非、こちらもご覧ください。詳しくはこちら
(参考書籍、資料)
『トヨタ経営の源流―創業者・喜一郎の人と事業』佐藤義信、『豊田喜一郎―夜明けへの挑戦』木本正次、『トヨタを創った男 豊田喜一郎』野口均、『豊田佐吉とトヨタ源流の男たち』小栗照夫、『裸の神谷正太郎―先見と挑戦のトヨタ戦略』鈴木敏男・関口正弘、『賣る―小説神谷正太郎』松山善三、『石田退三 危機の決断 1950トヨタクライシス』大和田怜、『石田退三語録』石田退三・池田政次郎、『闘志乃王冠―石田退三伝』岡戸武平、『トヨタ生産方式の創始者 大野耐一の記録』熊澤光正、『トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして』大野耐一、『トヨタ式「改善」の進め方―最強の現場をつくり上げる!』若松義人、『決断 - 私の履歴書』豊田英二、『豊田英二語録』豊田英二研究会、『小説 日銀管理』本所次郎、『ザ・ハウス・オブ・トヨタ 自動車王 豊田一族の150年』佐藤正明、『トヨタ自動車の研究――その足跡をたどる――』岡崎宏司・熊野学・桂木洋二・畔柳俊雄・遠藤徹、『苦難の歴史 国産車づくりへの挑戦』桂木洋二、『国産乗用車60年の軌跡』松下宏・桂木洋二、ウェブサイト「トヨタ自動車 75年史 もっといいクルマをつくろうよ」トヨタ自動車
[ガズー編集部]
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