<自動車人物伝>豊田喜一郎…トヨタ自動車創業者 第2編 戦下で培った乗用車の夢(1934~1945年)
よくわかる 自動車歴史館 第19話
「1年で試作車を作る!」
1934年1月の株主総会で豊田自動織機製作所の自動車事業進出が正式決定されると、豊田喜一郎は技術者を集めて訓示を行った。彼の口から発せられた言葉は、驚くべきものだった。今年中に試作第1号車を完成させる、というのである。まだ、設計図すらない。工場も、工作機械もない。部品を調達する方法もめどが立っていない。重工業の最も精緻な製品である自動車を、何もない状態から1年足らずで作ろうというのだ。
工作機械を買い入れるために、喜一郎とともにG型自動織機開発に携わり、自動車開発部門のメンバーであった大島理三郎取締役が米国に渡った。ボーリングマシンやプレス機などを買い付けるとともに、彼は最新式の自動車を持ち帰った。クライスラーのデソートである。従来の馬車型ボディーとは違う流線型を採用していて、当時としては革新的なデザインだった。喜一郎はこれを見て、試作車の方向性を決める。最新のデザインを取り入れ、将来的に商品性を持つ形を採用することにしたのだ。
メカニズムについては、喜一郎は東京大学の同窓生で、同大学で教授をしていた隈部一雄(のちに喜一郎の招きで豊田自動織機製作所 自動車部の顧問に就任)と相談しながら概要を決めていった。フォードやGMに対抗するクルマを作るために、まずは彼らの製品を徹底的に研究する。具体的には、エンジンはGMに学び、シャシーはフォードを範とする。デザインはクライスラーのものを取り入れるのだから、要はアメリカのビッグスリーのいいとこ取りをしようというのだ。トヨタ初の自動車となるべきクルマは、「A1型乗用車」と名付けられた。
クルマの心臓部であるエンジンの開発は、1934年型のシボレーを買い入れ、エンジンを解体して研究することから進められた。シリンダーブロックを作るには、鋳造の技術が必要だ。幸い自動織機の製造で鋳造の経験は積んでいる。さほどの困難はなかろうと技術陣は考えていたが、やってみるとまったく勝手が違った。織機とは比べものにならないほど構造が複雑で、不良品が続出したのだ。せっかく作っても、9割以上は廃棄するしかなかった。砂型の成分を工夫しても上手くいかない。大島理三郎取締役が米国から持ち帰った油中子を参考に、試行錯誤を繰り返した結果、ようやく8月にシリンダーブロック鋳物が完成し、試作第1号のエンジンが組み上がったのは9月だった。
タイムリミットとの戦い
それで完成したわけではない。試作エンジンをトラックに搭載してみたところ、パワーが足りないのだ。手本にした3.4リッター6気筒のシボレー・エンジンは60馬力なのに、それを模した試作品のパワーは48~49馬力しか出なかった。そこで、海外の文献を参考にして新しい形状のシリンダーヘッドを設計。ようやくシボレー・エンジンを上回る65馬力を実現した。
試作第1号車が完成したのは、5月のことだった。年内に完成させるという約束は守られなかったことになる。しかし、ほとんどゼロから出発してわずか1年半で乗用車を作ったのは、驚異的なスピードだ。シャシーやギアなどはシボレーの部品を流用していたが、とにかく自分たちでクルマを作り上げるという目的は達成された。強烈な意志と意地が快挙の源泉だろう。しかし、意地だけではどうにもならない問題があった。
プラット社にパテントを譲渡したことで得た100万円を開発資金に充てることは了解されていたが、自動車開発にかかる資金にはとても足りない。すでに自動車部は500万円を超える資金を費やしていた。今でいえば数百億円に匹敵する巨額な投資である。それでも製品の自動車は1台とてないのだから、利益はゼロなのだ。早く自動車を販売して資金を回収しなくては、とても会社がもたない。
さらに、タイムリミットが迫っていることが判明した。対米英の関係が悪化し、軍事的な必要性から政府は自動車の国産化を進めようとしていた。しかし、日本で本格的に自動車を生産しているのはアメリカの会社だけで、フォードは横浜に新工場を建設して生産を拡大しようとしていた。そこで政府は自動車の製造を許可制にし、実績のある日本の自動車会社を指定して独占的に生産させる計画を進めていた。その条件にかなうために急いで“実績”を作らなければ自動車製造に乗り出すことができなくなってしまう。
しかも、政府が求めるのは乗用車ではなく、軍用に使えるトラックなのだ。喜一郎は、乗用車の開発と並行してトラックを作ることを決意する。エンジンはA1型と同じものを使用し、フォード式のフレームとシボレー式のフロントアクスルを採用して頑丈なボディーを作ることにした。G1型と名付けられたトラックの試作第1号車が8月に完成すると、喜一郎はすぐさま量産に移るように指示を出した。年内に発表会を開き、発売するというのだ。あまりにも無謀な計画だが、タイムリミットから逆算すると確かにそうせざるを得ない。
華やかに開催された国産トヨタ大衆車完成記念展覧会
1935年11月21日、東京の芝浦ガレージでG1型トラックの発表会が開催された。商工省や陸海軍省などの役人や財界の要人が多数訪れ、台上に陳列された新車のトラックをまぶしそうに見つめた。豊田自動織機製作所は、トラック製造の“実績”を示したのだ。ただ、薄氷を踏む思いで発表会にこぎつけたというのが実態だった。工場から会場まで自走してトラックを運んだのだが、箱根越えでトラブルが続出した。ステアリングのサードアームが折れたりエンジンが不調になったりし、会場にたどり着いたのは発表会当日の午前4時という危うさだった。
生産体制も万全とは言いがたかった。挙母工場は取得した用地を整地している段階で、刈谷組立工場が完成するのは1936年5月である。販売面はもっと準備不足で、ディーラー組織は影も形もなかった。喜一郎は日本GMの社員だった神谷正太郎(トヨタの近代的なディーラー網を築き上げ、戦後は販売管理会社であるトヨタ自動車販売の初代社長に就任。後に“販売の神様”と言われている人物)を引き抜き、販売の全権を任せる。神谷はGMの大手販売店だった日の出モータースの山口 昇(現・愛知トヨタ自動車の創業者)を誘い、これが豊田車を扱う第1号のディーラーとなった。名古屋の大池町にあった社屋の屋上には、「国産トヨダ」のネオンが誇らしげに輝いた。翌年に図案マークを公募した際にブランド名が「トヨタ」に変わり、10月からは濁点が除かれた。
G1型トラックがショールームに並べられ、完成車は3200円という価格で販売されるようになった。工場渡しのシャシー価格は2900円で、これはシボレーやフォードよりも200円ほど安い値付けだった。年内に販売されたのは、合計14台である。わずかな台数だが、ディーラーは大忙しだった。初期トラブルが頻発し、修理に追われたからだ。リアアクスルのハウジングが破損するという重大な故障が毎日のように発生するので、出張サービスや代車の手配などに時間を割かなければならなかった。後に喜一郎は、G1型トラックを発売してから1年間で約800カ所もの改良をしたと語っている。
1936年5月に成立した自動車製造事業法のもと、日産とともに政府から許可会社に指定された。その知らせが届いたのは、9月に東京府商工奨励館で開かれた国産トヨタ大衆車完成記念展覧会の会場だった。そこにはA1型を改良したAA型乗用車、G1型を改良したGA型トラック、さらにはバスや消防車など合計15台が華々しく展示されていた。神谷は日本全国にディーラー網を構築しつつあった。一時の危機は完全に脱し、名実ともに自動車会社として力強い歩みを進めていたのだ。1937年にはトヨタ自動車工業株式会社が設立され、利三郎が社長、喜一郎は副社長に就任する。実質的に会社を動かしていた喜一郎は1941年に社長となり、彼の夢はすべて実現したかのように見えた。
しかし、戦争へと突き進む日本に必要とされたのは、軍用のトラックである。喜一郎が本当に作りたかったのは、アメリカ車に対抗しうる乗用車だったはずだ。トヨタは軍需工場に指定され、軍用のトラックの生産台数を飛躍的に増やし会社の規模は拡大したが、喜一郎のするべきことはなくなってしまった。工場には軍から監督官が乗り込んできて、自由な生産活動は不可能になっていた。
1945年8月15日、喜一郎は東京・世田谷の自宅で玉音放送を聞いた。日米の工業力の差から冷静に日本が負けることを予期していた彼は、敗戦に驚くことはなかった。挙母の工場は爆撃の被害に遭っていたが、これで自由に自動車を作ることができる。彼の頭の中では、すでに新しい量産小型乗用車の構想が膨らんでいた。
[ 提供元:日本経済新聞デジタルメディア ]
※本資料は、様々な書籍、資料を元に編集しております。
トヨタ自動車が公式に発表している内容については、トヨタ75年史をご参照ください。
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(参考書籍、資料)
『トヨタ経営の源流―創業者・喜一郎の人と事業』佐藤義信、『豊田喜一郎―夜明けへの挑戦』木本正次、『トヨタを創った男 豊田喜一郎』野口均、『豊田佐吉とトヨタ源流の男たち』小栗照夫、『裸の神谷正太郎―先見と挑戦のトヨタ戦略』鈴木敏男・関口正弘、『賣る―小説神谷正太郎』松山善三、『石田退三 危機の決断 1950トヨタクライシス』大和田怜、『石田退三語録』石田退三・池田政次郎、『闘志乃王冠―石田退三伝』岡戸武平、『トヨタ生産方式の創始者 大野耐一の記録』熊澤光正、『トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして』大野耐一、『トヨタ式「改善」の進め方―最強の現場をつくり上げる!』若松義人、『決断 - 私の履歴書』豊田英二、『豊田英二語録』豊田英二研究会、『小説 日銀管理』本所次郎、『ザ・ハウス・オブ・トヨタ 自動車王 豊田一族の150年』佐藤正明、『トヨタ自動車の研究――その足跡をたどる――』岡崎宏司・熊野学・桂木洋二・畔柳俊雄・遠藤徹、『苦難の歴史 国産車づくりへの挑戦』桂木洋二、『国産乗用車60年の軌跡』松下宏・桂木洋二、ウェブサイト「トヨタ自動車 75年史 もっといいクルマをつくろうよ」トヨタ自動車
[ガズー編集部]
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