トヨタ・パブリカ (1961年~) トヨタ名車列伝2話

1955年、通産省(当時)が自家用車普及のために検討していた「国民車構想」が報道される。国民車構想は性能・価格の条件の厳しさから立ち消えとなってしまうが、トヨタはその前年1954年から「トヨタ大衆車」の開発を始めていた。

構想から販売まで実に7年間を費やした大衆車の開発を、「いばらの途の連続だった」と開発主査の長谷川龍雄は振り返り、「チームが同じ考えを共有し、同じゴールに進むためには、大将は人にわかりやすくする努力をしなければならない」と、語る。長谷川は頭の中にある大衆車実現のため、試作時に検討していたFF方式からFR方式に転換を決意。重量やコスト面ではFF方式にはかなわないが、FR方式にも多くの優れた点がある。経済的で信頼性の高い大衆車をFR方式で実現する。そして、重量とコストの壁への挑戦が始まる。大衆車のイメージを明確にするため、エンジン、シャシー、ボディなど計画全体に、重量とコストの目標値を設定。現場および関係会社の提案を積極的に採用した。また、自らも特注サイズの鉄板ではなく、メーカーに量産体制のあるサイズを使うよう指示した。

こうして、日本のモータリゼーションの草分けとなるトヨタ大衆車「パブリカ」が誕生した。