<自動車人物伝>豊田佐吉…発明王、トヨタ自動車の原点

よくわかる 自動車歴史館 第21話

谷あいの村で発明を志す

豊田喜一郎は、卓越した技術力と時代を読む目を持ち、不屈の意志で自動車事業への進出を成功させた。何度も危機に陥ったが、信念を貫いて挑戦し、大きな賭けに勝利したのだ。もちろん彼自身の資質と努力のたまものだが、手本となる生涯をたどった人が身近にいたことが支えになったに違いない。それは、ほかならぬ彼の父親である。発明王として名高い豊田佐吉だ。

佐吉は貧しい農家に生まれ、幼いころに母が効率の悪い手織り機で苦労するのを見て育った。それで新しい織機の発明を志したともいわれている。彼は明治が始まる前年の1867年、静岡県湖西市山口に生まれた。浜名湖の西側で気候は温暖ではあるが、この地域は低い山地に囲まれた谷あいにあり、平たん地が少なく農地には適さなかった。佐吉の父・伊吉は農作だけでは生活できず、大工としても働いていた。佐吉は尋常小学校を卒業すると、父のもとで大工修業を始めた。高等小学校に進めなかったのは、当時としては普通のことだった。

父の助手として高等小学校で大工仕事をしている時、窓の外から授業の様子をのぞくことが多かった。知識への欲求をとどめることができなかったのだ。ある時、教師がサミュエル・スマイルズの『西国立志編』の話をしているのを聞き、強い衝撃を受ける。『自助論』を編さんして道徳の教科書として使われていた本で、「天は自ら助くる者を助く」という有名な言葉で始まる。貧窮から身を起こして成功した偉人たちの人生が語られており、織機を発明したジェームス・ハーグリーブズらの挑戦には特に感動を覚えた。

発明家になろうという強い意欲を持ったが、寒村には手がかりとなるものが何もない。知識に飢えた佐吉は、村の青少年が観音堂に集まって開いていた「山口夜学会」に参加するようになる。そこで新聞や本を読みあさり、日本が近代国家への道を歩んでいること、中でも政府が重視しているのが産業立国のための繊維業であることなどを学んでいった。彼が18歳になった1885年、夜学会に招いた講師から「専売特許条例」が公布されたことを聞く。世の中に役に立つ発明をすれば、国が豊かになり、自分も利益を得ることができる。発明への志は、さらに大きくなっていった。

注目を集めた動力織機

19歳の春、佐吉は思い立って東京見学に出掛けた。家出同然で金もなく、徒歩で東を目指した。文明開化で華やかな都となっていた東京では見るものすべてが珍しかったが、機織り工場を見に行くと織機自体は何の変哲もないもので、新しい発見はなかった。これを改良すれば、生産効率が上がって今より多くの布を織ることができる。そう確信した佐吉は村に戻り、織機の研究に没頭した。

佐吉の最初の発明は、1891年に特許を得た木製人力織機である。当時普及していたバッタン織機は両手を使わなくてはならなかったが、片手で杼(ひ)を飛ばしながらヨコ糸を打ち込めるように改良したのだ。従来のものと比べ、生産性が4〜5割向上したという。佐吉はこれで満足することはなかった。ひとりで1台の織機しか動かせないのでは、効率の向上には限界がある。動力を用いた織機を作ることが、彼の目的だった。

1897年、木鉄混成の動力織機が完成する。杼の左右運動と布の巻き取りを機械が操作し、生産効率は一気に上がったという。織りムラが発生しにくくなり、製品の質も向上した。画期的な動力織機は世間の注目を集め、佐吉の声望は広まっていった。

ここに至るまでの道は、常に順調だったわけではない。佐吉は発明の意欲と能力は持っていたが、資金がなかった。機械の開発には金がかかる。実家は裕福ではなく、とても彼の研究を支えるだけの財力はない。機械の販売で資金を作り、それを研究費に回さなければならないが、佐吉は商売の才能があるとはいえなかった。彼を支えたのは、家族だった。弟の平吉と佐助、そして妻の浅子である。彼らの働きがなければ、佐吉が研究に専念することはできなかっただろう。

1905年には「38式織機」を発売する。タテ糸の張力を自動的に調節し、切断を減らして停止時間を減少させる。さらにタテ糸が切断したりヨコ糸がなくなったりした時には自動的に機械が停止する装置を採用した。これで、工員が1台の機械にかかりきりになる必要がなくなったのだ。翌年改良型の「39年式織機」を売り出し、廉価版の「軽便織機」と合わせて日露戦争後の好景気に浮き立つ市場で良好な売れ行きを示した。

アメリカで自動車事業の必要性に目覚める

事業の拡大を急ぐ必要があったが、佐吉が経営する豊田商会は個人事業の域を出ない。株式会社への改組を提案したのが、三井物産だった。これを受け入れ、1907年に豊田式織機株式会社が設立される。佐吉は常務取締役技師長に就任した。これで佐吉は経営の雑務から逃れることができ、技術開発に力を注ぐことができるようになった。

しかし、1907年になると株式市場が暴落し、日本は不景気に突入する。業績は悪化の一途をたどった。それでも佐吉はいい製品を開発すれば必ず業績は回復すると考え、新たな織機の完成にむけて試験を重ねようとする。経営を安定させるために試験を省いて販売を急ごうとする会社とは、徐々に対立を深めていった。1910年、取締役会はついに彼に辞職するよう通告する。佐吉は自分の名が付いた会社から追放されてしまったのだ。悪いことに、佐吉はこれまで取得した特許を会社に譲り渡していた。研究開発の成果が、人手にわたってしまった。

辞任から1カ月後、佐吉はシアトルを目指して船に乗った。織機の先進国であるアメリカで、もう一度やり直そうと考えたのだ。工場を見学すると、生産システムが整備されていることには感心したが、肝心の織機は自分の発明のほうが優れていると感じていた。佐吉を驚かせたのは、ニューヨークで目にした光景だった。マンハッタンには自動車の群れがあふれ、人々の移動手段として普及していたのだ。1908年にT型フォードが発売されており、アメリカではモータリゼーションが爆発的に進みつつあったのである。

佐吉は、日本にも自動車の時代が訪れることを予感していた。次に取り組むべきは、自動車事業への進出である。しかし、すでに40代半ばに差し掛かろうとしていた彼には時間が足りない。この大事業は、次の世代に任せなければならない。後に喜一郎に自動車の開発を勧めたのは、この時の経験が頭の中にあったからなのだ。

帰国した佐吉は、資金をかき集めて豊田自動織布工場の建設に着手する。佐吉の研究への熱意は衰えず、自動杼換装置の改良に取り組んだ。織布工場には紡績工場も併設し、事業は拡大していく。1918年には豊田紡織株式会社を設立し、社長に就任した。常務となったのは、娘婿の利三郎である。長男の喜一郎は、大学で工学の勉強にいそしんでいた。事業と研究を次世代に受け継ぐ準備は整いつつあった。

1930年、佐吉は永眠した。その3年前、彼は勲三等瑞宝章を受章している。発明王の偉業が、国からも認められたのだ。佐吉が日本の産業振興に果たした役割は、それほど大きかった。しかし、彼にはもっと大きな功績がある。それは未来に向けての遺産である。佐吉の精神を継ぎ、喜一郎が自動車産業の礎を築いていくことになるのだ。

[ 提供元:日本経済新聞デジタルメディア ]

※本資料は、様々な書籍、資料を元に編集しております。
トヨタ自動車が公式に発表している内容については、トヨタ75年史をご参照ください。

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(参考書籍、資料)
『トヨタ経営の源流―創業者・喜一郎の人と事業』佐藤義信、『豊田喜一郎―夜明けへの挑戦』木本正次、『トヨタを創った男 豊田喜一郎』野口均、『豊田佐吉とトヨタ源流の男たち』小栗照夫、『裸の神谷正太郎―先見と挑戦のトヨタ戦略』鈴木敏男・関口正弘、『賣る―小説神谷正太郎』松山善三、『石田退三 危機の決断 1950トヨタクライシス』大和田怜、『石田退三語録』石田退三・池田政次郎、『闘志乃王冠―石田退三伝』岡戸武平、『トヨタ生産方式の創始者 大野耐一の記録』熊澤光正、『トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして』大野耐一、『トヨタ式「改善」の進め方―最強の現場をつくり上げる!』若松義人、『決断 - 私の履歴書』豊田英二、『豊田英二語録』豊田英二研究会、『小説 日銀管理』本所次郎、『ザ・ハウス・オブ・トヨタ 自動車王 豊田一族の150年』佐藤正明、『トヨタ自動車の研究――その足跡をたどる――』岡崎宏司・熊野学・桂木洋二・畔柳俊雄・遠藤徹、『苦難の歴史 国産車づくりへの挑戦』桂木洋二、『国産乗用車60年の軌跡』松下宏・桂木洋二、ウェブサイト「トヨタ自動車 75年史 もっといいクルマをつくろうよ」トヨタ自動車

[ガズー編集部]