トヨタ 86(ハチロク) 開発ストーリー FRスポーツの系譜 2012年2月

クルマの楽しさ、走ることの純粋な喜びを提供するために。トヨタはクルマづくりの歩みの中で、数々のスポーツカーを送り出してきた。その中でも前輪で舵を切り、後輪で駆動するFRスポーツは、ドライビングの喜びを知るドライバーの多くから「理想」とされる駆動レイアウトである。トヨタ初のライトウエイトスポーツ“トヨタ・スポーツ800”。国産初の本格的スポーツカー“トヨタ2000GT”。今なおファンを増やし続け、サーキットでも活躍する“AE86”。3台のFRスポーツのヘリテージは新たな86に受け継がれ、現代に蘇る。

国内でスポーツカーへの関心が高まってきたのは、モータリゼーションが進み、オーナードライバーが増加してきた昭和30年代後半のことである。1963年(昭和38年)、国内初の本格的な自動車レースである第1回日本グランプリが鈴鹿サーキットで開催された。このレースのC5クラス(1300〜1600cc)では、トヨタ・コロナが1、2、3位を独占。C2クラス(400〜700cc)ではトヨタ・パブリカが実に1位から7位までを独占するという圧倒的な強さを見せ、さらにC6クラス(1600〜2000cc)ではクラウンが優勝に輝いている。この第1回日本グランプリを契機に、国内に芽生えつつあったモータースポーツに対する関心は急速に高まり、スポーツカーという新たなニーズ、憧れが生まれたのである。こうした中でトヨタは、パブリカをベースにした高性能スポーツカーの開発に着手した。「スポーツカーをみんなのものに」という意図のもと、廉価で使いやすいスポーツカーとして開発されたのが、「ヨタハチ」の愛称で親しまれたトヨタ・スポーツ800である。

1967年の「富士24時間レース」に出場したトヨタ・スポーツ800。耐久レースでも優れた燃費性能を活かし、大排気量のクルマの中で互角の戦いを繰り広げた。

トヨタ・スポーツ800は1965年(昭和40年)3月に発売を開始。大衆乗用車であるパブリカをベースにしながら、当時のスポーツカーにありがちだった馬力だけで強引に引っぱるという考え方を改め、徹底的な空気抵抗の低減と軽量化によって、2気筒790ccでありながら優れた性能を実現していた。45PSという平凡なスペックにもかかわらず、わずか580kgという車両重量の軽さによって、最高速度155km/h以上、1/4マイル(402.33m)発進加速18.4秒と、1クラス上のスポーツカーを上回る性能を発揮。さらには重心高を抑えた水平対向エンジン+FRレイアウトによる操縦性の良さに加え、優れた燃費性能はピット回数を減らすことにつながり、レースでも強さを見せつけた。中でも、伝説的な名勝負として語り継がれているのが、トヨタ・スポーツ800を操る浮谷東次朗と、最大のライバル、ホンダS600を操る生沢徹がバトルが繰り広げた全日本自動車クラブ選手権レース(CCCレース)である。浮谷のトヨタ・スポーツ800は途中までホンダS600を追う展開だったが、5周目で生沢と接触し、痛恨のピットインを余儀なくされる。ところが浮谷はそこから怒濤の追い上げを見せ、ついに24周目に生沢を抜いてトップに立ち、そのまま見事優勝に輝いている。

1967年の「富士24時間レース」に出場したトヨタ・スポーツ800。耐久レースでも優れた燃費性能を活かし、大排気量のクルマの中で互角の戦いを繰り広げた。

「ヨタハチ」は、1969年(昭和44年)に生産を終了。徹底した軽量化、優れた空力性能や燃費性能など、まさに今の時代が求めるスポーツカーの理想を40年以上前に実現した先進的なクルマだった。そして、世界唯一の水平対向エンジン+FRのライトウエイトスポーツという組み合わせは、「ヨタハチ」誕生から40年以上の歳月を経て、遂に86で現代に蘇る。

1963年(昭和38年)の第1回日本グランプリレース以来、国内では自動車レース、ラリーなどのモータースポーツが急速に広がりを見せていた。それまでの乗用車主体の性能アップでは飽きたらず、本格的な高速・高性能車を待ち望む声が高まっていたのである。こうした期待に応え、同時にトヨタのそれまでの技術的成果を世に示すべく、トヨタは本格的な高級GTカー、トヨタ2000GTの開発をスタートさせた。クラウン用のSOHC6気筒エンジンをベースにヘッドまわりをDOHC化した、トヨタ初のツインカムエンジン「3M型」を搭載し、最高出力150PS、最高速度220km/h以上を達成。高い剛性を確保するX型バックボーンフレーム、4輪独立懸架サスペンション、国内初の4輪ディスクブレーキ、リミテッドスリップデフ(LSD)など、その全てが当時の国産車の常識を塗り替えるもので、世界の高級スポーツカーに比肩する内容となっていた。

「トヨタ2000GTスピードトライアル」のワンシーン。茨城県筑波郡矢田部町(現・つくば市)の自動車高速試験場のバンクを失踪するトヨタ2000GT。

トヨタ2000GTは、1965年(昭和40年)の第12回東京モーターショーで初めて披露され、大きな話題を呼ぶ。続いて翌年の1966年6月に開催された日本初の長距離レース「鈴鹿1000km」に出場し、1、2位を独占。さらに10月には、高速耐久スピードの世界記録ならびに国際記録に挑戦するため、茨城県筑波郡谷田部町(現・つくば市)の自動車高速試験場(現在の日本自動車研究所)にて「トヨタ2000GTスピードトライアル」を敢行する。台風の影響による風雨という悪条件の中、昼夜連続して時速200kmを超す超高速で走り続け、走行距離は1万マイル、時間は72時間に及んだ。この時打ち立てた速度記録は、それまでフォード・コメットの持つ3つの世界新記録を打ち破り、クラス別ではポルシェ、トライアンフ、AC コブラなどが持つ13の国際新記録を一気に更新するという驚異的なものだった。さらに1967年(昭和42年)の「富士24時間耐久レース」でも1、2位を独占するなど、過酷な条件での総合性能が問われる耐久レースで圧倒的な強さを見せつけた。

「トヨタ2000GTスピードトライアル」のワンシーン。茨城県筑波郡矢田部町(現・つくば市)の自動車高速試験場のバンクを失踪するトヨタ2000GT。
イギリス映画「007は2度死ぬ」にボンドカーとして登場したトヨタ2000GTコンバーチブル。流麗なフルオープンのスタイルに、美しいワイヤースポークのホイールも特徴だった。

1967年(昭和42年)5月、華々しい戦績と話題に包まれて、トヨタ2000GTの発売が開始された。238万円という価格は、当時の大卒サラリーマンの初任給が25000円程度であったことからすれば、まさに人々にとって夢のようなクルマであった。さらにその流麗なスタイリングは、欧米も含む当時のカーデザインの中でも傑出したものであり、海外でもその性能とともに大きな反響を呼ぶことになった。発売前の1967年(昭和42年)には、イギリス映画「007は2度死ぬ」にボンドカーとして登場している。トヨタ2000GTの優美なサイドウィンドゥグラフィックやリヤフェンダーまわりのラインは、今回の86に受け継がれている。

イギリス映画「007は2度死ぬ」にボンドカーとして登場したトヨタ2000GTコンバーチブル。流麗なフルオープンのスタイルに、美しいワイヤースポークのホイールも特徴だった。

トヨタ2000GTは、当時二輪車レースで華々しい活躍をしていたヤマハ発動機株式会社との共同開発から生まれたことも特徴である。同社内にトヨタの製品企画室の分室を設け、共同で開発するという異例の体制で進められた。トヨタがエンジン、ミッション、ステアリングなどの主要部品を支給し、ヤマハ発動機側がエンジンのチューニングや各種部品の生産、組み立てを担当している。共同開発によってお互いの強みを融合させるという、今回の86における取り組み。それはトヨタ2000GTに続く夢のコラボレーションの再来でもある。

1983年、トヨタは5代目カローラ/スプリンターを発売した。この代から4ドアセダン、5ドアハッチバックはFF化されたが、2ドアクーペ、3ドアハッチバックの「カローラレビン/スプリンタートレノ」については、スポーティモデルとしての性格を打ち出すべく、あえて先代のFRが踏襲された。こうしたこともあり、5代目カローラレビン/スプリンタートレノは発売と同時に熱心なスポーツカーファンの注目を集めることになった。中でも新開発された軽量・コンパクトな4A-GEUエンジンを搭載したスポーティグレード(GT/GTV/GT-APEX)こそが、今なお“ハチロク”として人気を集める、車両型式番号AE86である。

AE86「カローラレビン」の3ドアハッチバック。他に2ドアクーペも用意されていた。
東京オートサロンにも出品されたAE86「スプリンタートレノ」の3ドアハッチバック。漫画で主人公が操る白黒のトレノは現在も高い人気を集めている。
現時でもファンミーティング、走行会などに熱心なオーナーが集まる。AE86を専門に手がけるチューニングショップも多い。

実際にAE86の開発では、筑波サーキット最速、最高速度200km/h、国内ラリー制覇という目標が掲げられていた。新開発された軽量・コンパクトな4A-GEUエンジンは、フルアクセルを加えれば0.95秒で7700回転のレブリミッドまで吹け上がる高回転型であり、新採用されたラック&ピニオンのステアリングによるクィックなハンドリング(ロックtoロック:3回転)とともに、スポーティなドライビングを可能にしていた。一方でサスペンションは、基本的に先代TE71のメカニズムを踏襲しており、フロントがストラット、リヤが5リンクリジッドアクスルという当時の水準としてもコンベンショナルなものであったが、それ故に当初から豊富なチューニングパーツが使えたことが幸いし、発売からわずか10日後には早くもチューニングカーが登場したと言われている。

モータースポーツでは全日本ツーリングカー選手権(グループA)での活躍を始め、ラリー、ジムカーナにも参戦。中でも1985年のグループA開幕戦では、より排気量の大きなマシンやターボ付きマシン(ハルトゲBMW635CSi、スカイラインRSターボなど)を相手にデビューウィンを飾っている。さらにAE86のファン拡大に影響のあった人物として、レーシングドライバーの土屋圭一氏の存在も大きい。彼は1984年の「富士フレッシュマンレース」で自身が運転する「ADVANトレノ」で6連勝するなどの活躍で注目を集め、当時から自動車雑誌には「ハチロク使いの名手」として度々紹介された。最近のテレビ番組でもAE86で華麗なドリフトを披露している。そして90年代後半、AE86は漫画「頭文字D」の主人公の愛車として描かれたことで再び注目を集め、現在でも状態によってはプレミア価格で取引されるほどの人気車種となっている。登場から四半世紀を経ても、専門のチューニングショップが数多く存在し、ワンメイクレースも盛んに開催されるなど、まさにユーザーが育てたクルマであるAE86。それは、新たな86が目指すクルマとユーザーの関係そのものと言える。

AE86「カローラレビン」の3ドアハッチバック。他に2ドアクーペも用意されていた。
東京オートサロンにも出品されたAE86「スプリンタートレノ」の3ドアハッチバック。漫画で主人公が操る白黒のトレノは現在も高い人気を集めている。
現時でもファンミーティング、走行会などに熱心なオーナーが集まる。AE86を専門に手がけるチューニングショップも多い。