トヨタ 86(ハチロク) 開発ストーリー 直感ハンドリングFR 2012年2月

水平対向+FRという理想のパッケージを得て始まった86の走行性能開発。その素性の良さを活かし、FRスポーツのあるべき姿を実現するために、“慣性モーメントを感じさせない動き” “路面を捉えて離さないような接地感” “サスがストロークし、フラットな「乗り味と姿勢」”という3つの目標が掲げられた。世界の道で走り込み、さらには“ハーモナイズ”という指標に向けて注がれたトヨタとスバルのエンジニアの情熱が「直感ハンドリングFR」を具現化させていった。

FRスポーツのあるべき姿を目指して

86の走りの原点になったのは、“水平対向エンジン+FRレイアウト”の可能性を探るべく製作した一台の試作車だった。既存セダンのホイールベースを短縮し、スバルの水平対向エンジンを搭載した、ほぼ手作りの車両。この試作車を仕上げるまでの苦労を、先行開発から86に携わってきたスバルの池田(スバル技術本部 シャシー設計部 主査)や賚は次のように振り返っている。

池田「水平対向エンジンの4WDレイアウトを変えるなんていうのは、ある意味では御法度に近いような環境の中で、僕と賚さんの2人で日々CATIA(設計データ)を前に、エンジンをどれだけ下げられるのか、クリティカルポイントは何だと、そんな二人検討会のようなことを延々とやってきたのが、想い出に残っていますね。」

賚「試作車を作っている時に、当時の本部長に呼ばれて『いかなる手を使ってもいいから操安性は世界一にしてくれ』と言われたんです。諸元上、走りを良くできることは分かっていても、実際のところは試乗会の直前までテストコースに張り付いて仕上げていきましたね。」

トヨタ・スバルの多くの関係者がこの試作車のハンドルを握り、そこに秘められたポテンシャルの高さを感じたと言う。しかし当然のことながら、それはまだ86が目指す本来の走りとは別のものだった。トヨタで車両運動性能を評価する選りすぐられたテストドライバーの一人である高木は、この試作車のポテンシャルを高く評価しつつも、FRスポーツとしてのあるべき姿を見据えていた。

先行開発テストドライバー 高木 実 Minoru Takaki
第1車両実験部 部付 グランドエキスパート
製品企画・シャシー担当 佐々木 良典 Yoshinori Sasaki
製品企画本部 ZR 主幹

高木「クルマそのものに低重心を感じたということと、乗り心地も固くなくて非常にいい。ただ悪く言ってしまうと、このままではセダンだよなと。そこで、もういちどお互いに目標設定をしようと、“FRスポーツに望むこととは何か”を話し合ったんです。そこでお願いしたのが、“慣性モーメントを感じさせない動き” “路面を捉えて離さないような接地感” “サスがストロークし、フラットな「乗り味と姿勢」”の3つです。ポテンシャルを作りこんで欲しい。この3つだけは絶対に外さないようにして欲しい。そこからが実質的なスタートだったと思います。」

目指すべき方向を共有するためには、どんな状況で、どんな運転操作をしたときに、どんな現象が起こるのかを具体的に伝える必要がある。そう考えた高木は、走行性能を評価する際は、必ずスバルの技術陣と一緒に乗り合わせるというルールを自分たちに課した。

高木「自分だけ乗ってきて評価を伝えるということはやらないようにしました。必ず彼らと横乗りして、『こういうのが足りないね』『ここはいいね』を伝える。テストコースでも、ニュルブルクリンクへ行っても絶対に一緒に乗る。それを徹底したんです。」

この「乗り合わせ」が果たした成果については、製品企画本部という立場から走行性能全般を統括した佐々木も次のように振り返っている。

佐々木「乗り合わせをして『このコーナーを、こういうスピードで、こういう風につっこむと、こういう現象が出るでしょう?』と具体的に言えば、向こうにも『なるほど、このことを言っているんですね。』と分かってもらえるんです。」

こうした取り組みを通じて、「チーム86」としての一体感が生まれ、目指すべき走りが徐々に具現化されていく。開発のフェイズは、世界の道を舞台にした仕上げへと移っていった。

先行開発テストドライバー 高木 実 Minoru Takaki
第1車両実験部 部付 グランドエキスパート
製品企画・シャシー担当 佐々木 良典 Yoshinori Sasaki
製品企画本部 ZR 主幹

世界を舞台にした走行テスト

世界中のコースで感性領域のチューニングが進められた。
チーフテストドライバー 大阪 晃弘 Akihiro Osaka
スポーツ車両統括部 GR開発室 シニアエキスパート

高木とともに86の走りを仕上げていったのが、このクルマのチーフテストドライバーを務める大阪である。86の走行性能テストは、ドイツ、ベルギー、スペイン、アメリカ、カナダ、そして富士スピードウェイを始めとする国内の数々のサーキットなど、まさに世界の道を舞台にして行われた。中でも、特に走り込みを重ねたのが、ドイツのニュルブルクリンクである。

大阪「ニュルが一番厳しいことは確かです。路面からの入力が大きいのと、路面が荒れていたり、ミューが低かったり。色んな形状のコーナーもある。あれほど上下動の入るサーキットは国内にはないですね。国内のサーキットを走れても、ニュルにいくと途端に破綻してしまうクルマもあります。但し、ニュルだけで仕上げてしまうとスタビリティに特化してしまって、楽しいクルマではなくなってしまう。ですからニュルでは、まず周りのカントリー路を走ってある程度詰めてから、それを本コースに持ち込んで破綻しないかを確かめたんです。一週間くらいの日程の中で、まず通常領域をつくりこんでから、3日目くらいから本コースに持ち込んで破綻しないかを確かめる。弱いところがあれば、もう一度通常領域に戻る。そのトライ&エラーの繰り返しです。」

ニュルブルクリンクと言えば、そこでのラップタイムが宣伝文句に使われるほど、絶対的な速さの指標にされることが多いサーキット。しかしながら86開発における狙いはやや異なっていた。ただし、ニュルを走り回る大排気量のクルマに混じりながらも、密かな自信があったと高木たちは振り返る。

高木「ニュルも中間地点までは、ほぼフラットか、下がりセクションが続くんです。ここまでは86、結構速いですよ。」

佐々木「86はあくまで走って楽しいという点を目指していますから、もちろんストレートでは大パワーのクルマにバンバン抜かれます。でも、コーナーが来たら絶対負けないぞと(笑)。さらに良かったのは、欧州ではHerwig Daenens、米国ではRichard Woodroffeという、それぞれの拠点における最高の開発ドライバーをこのクルマにあててもらえたこと。それも本当に大きなポイントですね。」

世界中のコースで感性領域のチューニングが進められた。
チーフテストドライバー 大阪 晃弘 Akihiro Osaka
スポーツ車両統括部 GR開発室 シニアエキスパート

1+1=3を可能にした「ハーモナイズ」という指標

86の走行性能開発が従来とは決定的に異なっていた点。それは個々の性能の目標値を一度決めても、それを達成するだけでは満足せず、全体の調和を目指し、さらに高い次元を目指したことだった。そのキーワードになったのが、スバル側で実験の統括を行った綿引(スバル技術本部 車両研究実験総括部 主幹兼主査)が中心になって提唱した「ハーモナイズ」という指標である。

綿引「共同開発ですので、それぞれに専門部署がいっぱいあって、関係者も非常に多くなる。そこで、ハーモナイズ活動というものを始めたんです。1つ目には、運転して楽しいクルマにするために、人・クルマ・道がハーモナイズしないといけない。2つ目には、個々の機能の性能について最適化、いわゆる部分最適ではなく、全体最適を目指しましょうということ。さらに3つ目の目的として、トヨタとスバルのハーモナイズを図りたいという狙いもありました。」

佐々木「普通は、操安なら操安、乗り心地なら乗り心地と、それぞれの目標を決めていくんですけど、このクルマでは全体の協調を非常に重視した。何かひとつが突出したら、他も上げていく。それが行きすぎて当初の目標を上回ってしまうと、今度はそこに合わせていく。設計する側にとっては完全なやり直しなわけですから、大変なことです。仮にトヨタ単体の開発だったら許されなかったかもしれない。でも“ハーモナイズ”という精神があったことで、「やろう!」という意思統一は早かったですね。」

高木「よく相乗効果で1+1で3にすると言いますが、背反要素をつぶす過程で、性能まで萎んでしまうことがあり、単純に足したとしても2になりません。1+1を3に膨らませるためには、素材の良さ、つまりポテンシャルそのものを引き出して生かすことで、機能と機能が背反を補い合うことで、性能の輪を広げていきます。さらには、これらがハーモナイズに繋がると強く感じました。」

そう語る高木の言葉は、今回の開発を通じてトヨタ、スバルが互いに持てるものを全て出し切ったという達成感の現れでもある。